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やりたくない理由が恐れなら、やる。ただやってみる

これまで定期的に悩みや疑問に乗ってもらうメンター的な人がいなかったわたし。友達でも家族でもなく、わたしの状況を客観的に見てアドバイスや気づいたことを伝えてくれる存在がいたらいいのにとは思っていた。しかし友達でも家族でもない人に、自分の思いをシェアする機会はなかなかない。自分でそのような場をセッティングするしかそのチャンスをやってこないのだ。

だが今年の夏、わたしは思いもがけずメンターに出会えた。彼は地球の裏側コスタリカからやってきたヨガの先生だ。彼の瞑想のセッションを受けたあと雑談をする中で、頭を本当に撃ち抜かれるような鋭い気づきを何度も得た。

キラキラ輝いた目で、世界は美しい! と目がくらむようなポジティブオーラをまとっているヨガの先生。どんな困難があってもそれをチャンスと捉え生きて生きそう、生けそうな人。そんな先生にわたしは「自分がやりたいことや、すべきことがあって。でも途中でやりたくなくなったらどうする?」とたずねてみた。

日々いろんなアイディアが頭に思い浮かぶ。でも100個思い浮かんでも、実行に移すのは1つあるかどうか。わたしはいつも面倒くさくなったり、飽きたり、怖くなったり、価値があるのかわからなくなったりして現状維持を選ぶことが多かった。往々にしてソファの上でダラダラとスマホを触るという情けない現状維持なんだけど。

先生はまず何故やりたいと思ったのかを思い出すと言った。そしてなぜ今やりたくないのかを自分に問うと続けた。胸に手を当てて、自分の本当の気持ちを聞くのだそう。その結果やりたくない理由が「恐れ」だったら、一度トライしてみると彼は言った。

体験したことがない未知な何かに挑戦するのはもちろん怖い。でも一度トライすることで、自分が考えすぎだったとか、想像と違ったなとわかる。恐れと未知とほぼ同義で、実際に自分の五感で感じていないからこそ、頭が勝手に想像して生み出すものだからだ。だからまずやってみる、そしてやってまだ気が乗らないなら、すっぱりやめたらいいと気づいた。きっとタイミングが違うのかもしれないし、本当にわたしに向いていないことなのかもしれない。

この今まで重しのように体にまきついていた「恐れ」の正体が明らかになったことで、かなり身軽になれたと思う。恐れとは「未知」のこと。未知を既知にしてしまえば「恐れ」パラメーターは限りなくゼロになる。「恐れ」さんの防御力も攻撃力も無効化できるので、自分のやりたいことにぐぐぐっと近づけるのだ。


数年?間、わたしは文章を書いていなかった。文章を毎日毎日扱う仕事をずっとしていたのに、いろんな環境の変化が重なり、書いて公表することを意識外においていたのだ。だけど恐れの正体がわかったから、今再トライすることに決めたのだ。まだ週に数回、簡単な散文を書くことしかできない。毎日は流石に無理だなぁ。

本当に書かないと文章力は落ちるね。言語化能力も著しく落ちている。今回長いブランクを経て、つくづく思う。だからこそ書き始める前は怖かった。そして書いてみると…、想像以上に要点がつかめない読みにくい文章だと思った。我ながら酷い。笑っちゃう、あはは。昔は結構読みやすくて、心をふわっと軽くするようないい文章がかけていたような気もする。気もする。

だけど駄文でもいいから、書くことはやはり自分の感情や思考を整理させる働きがある。そしてそれ以上にまたここから、上手に読みやすい文章をかけるようになりたい。海外で暮らし始めてもう10年も経ってしまった。だからこそ、また日本語と真摯に向き合う時間を大事にしたい。恐れを無力化して、新しい目標ができた。100日後のわたしが今から楽しみだ。きっといい文章を書いているに違いない。

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