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読書感想文#04 茶の本

「禅って何?」と聞かれた時あなたならどう答えますか。

瞑想により悟りを開き、禅道を広めた達磨和尚はこれを"不立文字"と言いました。
つまり禅とは言葉で説明できないものだとし、一般的な宗教が分厚い経典を作る中、体感して初めて理解できるものだと説きました。

だから説明できない貴方は大丈夫。むしろそれで良かったのだ。(20歳の時の俺よ…)

1. 題名

茶の湯によって精神を修養し、
交際の礼法をきわめるのが茶道である。

この本は、禅の思考を西洋人に理解してもらうために、岡倉 覚三氏(1862‐1913)がThe Book of Teaという題で英文で書いたものです。単なる茶道の概説書ではなく、茶道から禅の思考を伝えようと試みた、日本に関する独自の文明論ともいうべき名著とされています。
岡倉 覚三氏:近代日本における美術史学研究の開拓者。英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓蒙活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与しました。

2. 内容

著書では茶道を通して禅についての説明がなされています。また東洋文化について軽視されていた当時、私たち東洋人が如何に優れた思想を有しているかを西洋文化と対比しながら記されています。

茶の湯によって精神を修養し、
交際の礼法をきわめるのが茶道である。

5世紀の中国において、高雅な遊びとして詩歌の域に達した茶は15世紀の日本(室町~戦国時代)において更に高められました。禅の思考を取り入れ一種の審美的宗教、茶道に昇華され貴人から庶民に至るまで広く受け入れらたのです。
茶室を例にすると、西洋では左右対称で精巧な様式が称賛されていた中(奈良時代までは日本も同様)、禅の世界では不完全(=自然な状態)が美しく清潔であるとされました。不完全なものとは、乱世の人生そのものから、茶道で用いる陶漆器、住居、庭など多くのものが該当します。この禅の思考について、茶道にまつわる事柄を例に解説されています。

下記では印象的な部分を一部抜粋しました。

道教と禅道

個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。物のつり合いを保って、己の地歩を失わず他人に譲る事が浮世芝居の成功の秘訣である。
この事を老子は物の肝要なところは虚にのみ存すると言いました。
「室の本質は屋根と壁に囲まれた空虚なところにあり、屋根や壁そのものではない。水さしも然り形状や製品のいかんには存じない。虚においてのみ運動が可能である。己を虚にして他を自由に入らす事の出来る人は全ての立場を自由に行動する事ができる。」
この考え方は剣道、相撲、柔道などのあらゆる動作の理論にも影響を及ぼしました。芸術においても何者かを表さずにおくところに、見るものはその考えを完成する機会を与えられるのです。

茶室

茶室は数寄屋(すきや)とも言い、数寄屋の語源は好き家である。そして数寄屋は空き家、数奇家という字にも成る。それぞれの視点で解釈すると下記の様に言えます。

詩趣を宿すための仮宿だから→好き家、ある美的必要を満たすもの以外は一切の装飾を欠く事から→空き家、「不完全崇拝」の様子を表すから→数奇家

茶室は単なる小屋であると同時に全ての物(待合、露地、茶室、水屋)に繊細な思慮がなされています。例えば露地(客が待合から茶室へ呼ばれる間に通る道)では黙想の第一段階を意味し、光の射し方、松葉の散り敷く様子、調和のとれた不揃いな庭石等、それらはたとえ都心にいたとしてもまるで森の中に居るような静寂純潔の効果を生ずるように計算がなされています。次に露地を渡るとにじり口という狭い入口から茶室に入ります(背景の画像がそれ)。頭を屈め入る動作は人に謙譲を教え込むためのもので、尊きも卑しきも同様に全ての客人に課される義務でした。つまり茶室は至極平和な家である必要がありました。他にも、新しいものを一切使用しないこと、花瓶の露をあえて拭かないこと、露地の落ち葉を自然のまま残すこと等、皆さんの中にも共感できるポイントがあるのではないでしょうか。

・好き家の例→茶室は茶人の為だけに建てられたものなので、主が死去すると子孫には残さずに引き払う。これは伊勢の大屏を二十年毎に再築するように現在でも習慣として一部では残っている。また茶室において、草ぶきの屋根や細い柱の弱弱しさなど、無頓着らしいところにも世の無常が感じられる。
・空き家の例→茶室はある美的感覚を満足させるために置くもの以外は全く空虚である。私たちが二つの音楽を同時に聞くことができないように、美しい物の真の理解はその中心点に注意を集中することによってのみできる。
・数奇家→日本の装飾法の一面を表しており、これは西洋から日本の美術品が均斉を欠いているというマイナスの印象を持たれる原因である。不完全崇拝とはつまり、真の美はただ不完全を心の中に完成する人にのみ見出されるということ。禅の考えが世間一般の思考型式となって以来、均斉=重複とも捉えられむしろ避けられるようになりました。四畳半の茶室においては重複の恐れが絶えずあり、生花があれば草木の絵は許されず、丸い釜を用いれば花瓶は角張っていなくてはなりませんでした。

この章では豪華絢爛な西洋の建築とは対照的ながら、視覚ではなく心から真の美を見つめた禅の精神がわかりやすく紹介されていました。

芸術鑑賞

"琴ならし"という道教(儒教と対し禅道の源流)の物語があります。

ある妖術者が作った不思議な琴を巡り、多くの名手が弦を弾くも妙なる音は出ず。しかし伯牙という名手が静かに弦を弾くと琴は四季を歌い、自然を歌い、恋を歌い、戦いを歌いました。
陛下に成功の秘訣を聞かれた彼は、「他の人は自己の事ばかり歌ったから失敗したのです。私は琴に楽想を選ぶことを任せて、琴が伯牙か伯牙が琴か自分にもわかりませんでした。」と言いました。
著者曰く、真の芸術は伯牙であり我々は琴だそうです。美の霊手に触れる時、私たちの心琴の弦は目覚め振動し、肉を躍らせ血を沸かすのです。
また宗匠小堀遠州は大名でありながら「偉大な絵画に接するには、王侯に接するがごとくせよ」と言っています。傑作を理解するには身を低くして息を殺し、一言一句聞き逃さないように待っていなければならない。無言の物に耳を傾け、見えない物を凝視する態度が重要であると。
資本主義の現代において、あなたは自己の感情には無頓着に世間一般で良いとされている物を選んでいませんか。美術は真に私たちの心に属するものであり、決して流行品などではないのです。

3. 感想

言葉で説明ができない禅について、茶道の視点から理解を促した著書はやはりすごいと思いました。明治時代において、この本が西洋人の持つ東洋に対する難解なイメージを払い、どれほど多くの誤解を解いてくれたか知り得ません。
また、"信頼度"において、現在ある種の宗教として科学が台頭する中、禅は何故スティーブ・ジョブズ氏をはじめとした多くの成功者に受け入れられているのか。理由は大きく二つあると思いました。
一つ目は、禅とは正しい道を説くものではなく、自身に問い質し瞑想するメソッドだったから。この本でも禅を宗教としてではなく、日本の文明論を例に間接的に説明されていますが、前記した様にそもそも言葉で説明できないものでした。だからこそ他の宗教との親和性があり多くの人に受け入れられたのだと思いました。

二つ目は、現代社会において、資本を築いた者ですら幸福度が低い現状があるから。一般的に成功者と見なされている人でさえ、自分の身の回りや社会の動きには敏感でも自身の心に無頓着では幸福にはなれない。瞑想し自身の内面を良く見ることで、虚しかった現実の中に豊かさが見えてくる。一つ目と行為は同じですが、それだけ多くの人が幸福を求め、助けが必要な現実があるのだと思いました。

4. まとめ

二十歳でワーホリに参加した時、現地の友人に禅って何?と聞かれ、上手く答えられなかった自分が居たので本当に読んでよかったです。でも正直分かりにくかったから、禅ってなんじゃろって思った方はまず下記の動画を参考にするのがオススメです。映像の力ってすごいです。資本主義の限界が見え隠れする中、禅の精神はこれから多くの人が立ち止まって見つめ直したほうが良い気がしました。身近な場面では何かを選択するときや町を歩くとき。心一つで見え方が大きく変わるのではないかと思いました。



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