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罰とご褒美じゃない動機づけを考えたい

「22時より前に寝室に入ってないと、朝起こさないからね」
「水筒を出すのを忘れたら、お母さんは洗わないから自分で洗ってね」

 私はこんなふうに「○○しなかったら、罰としてこうだからね」のようなことを子どもによく言ってるらしいです。「らしい」というのは自分で気づいた訳じゃないから。

 今回は「なんでこういう発想になるのかな」ってところを掘り下げてみたいと思います。

アメとムチの発想

 先に書いたのはムチの発想。考えてみると逆の場合もあります。朝7時までに起きたらシールを貼って、それが貯まったら〇〇を買ってあげる。それがマンガだったりささやかなものだったりするのですが。ご褒美を与えてそれを促す、よくよく考えるとそういうのはよくないなーと思います。勉強するのだって本人のためなのに、ご褒美のためにやるようになってしまうんじゃないかな。

両者ではないやり方

 本来は話し合ってお互いに納得してより良い方法を探す。こういうのが子育てでもいいんじゃないかと思います。だけど日々はていねいに説明してる余裕がないまま過ぎていってしいます。だからこういうことになってしまうんですね。

気づかないことが問題

 今回書きたいのは罰を与え続けていることに気づかないのって怖いなということ。私は言われてハッとしたけれど、そうじゃなければずっとそのままだったのかもしれない。私は親にムチをでしつけられてきた訳じゃないのにどういうことだろう。そしてなんとなくはこういうやり方はよくないんじゃないかと思いながらやってることが問題。罰もご褒美もそれが目的になるのではなくあくまでも本人のためなのに。「自分のため」と思うようになるにはまだ先なのかもしれないけれど。上の子は日本の中学1年生なのでもう子ども扱いするのではないお年頃。下の子も小学校3年生の年なので、話せば納得することが増えました。

罰を与えたい理由

 「罰」というと大げさだけど、そうしてしまう理由はなんでしょう。例えば朝起こさないことを罰としてる場合。起こさないと起きるのが遅くなって焦る。今度からそうならないように反省してもらいたいのです。自分で早く起きるにはどうするのか考えてもらいたい。一度嫌な思いをした方が分かってくれるだろうという安易な考え。なんどもじっくり説明するよりも簡単だからです。あと何度言っても聞いてくれない場合は「ちゃんとやらないなら、もう○○してあげない!」と言った方が自分もイライラせずに済むから。
 だけど本来は罰を与えるのではなくもっと本人が身に染みるような説明をしないといけないんだな。感情的になって怒ってもダメだし、冷静に話し合わないと。

ていねいに

 書きながら、やっぱりどこか自分の中でじっくり向き合うことが足りてなかったなと思えてきました。自分を整えて余裕を持つ、おだやかでいるというのは常に意識してたいなと思います。

 そして、なんとか罰とご褒美がなくても自分でしっかりやろうと思ってもらえるように根気よく話し合っていきたいな。

 あとはうまくできたら、本人の努力を誉めるような、どこが良かったのか具体的に言うのがいいのかなと思います。ただ「すごい!」とか「えらい!」じゃなくて「自分で時間を見ながら気をつけたから、早く起きられたんだね」など。

 日々心がけてないと忘れてしまうけど、その場しのぎではなく、本来どういうふうになって欲しいのかを考えていきたいなと思います。

 子育てに限らず自分がやってること、言ってることがしっくりきてない場合、時々じっくり見つめ直さないとだなーと思いました。

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文字数メモ : 1468字

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