佐伯祐三のパリ
朝日昇・野見山暁治著の"佐伯祐三のパリ"を読みました。
佐伯祐三(1898-1928)の絵が好きで、とくに、滞仏期のパリ風景ー当時のパリ下町の街角の石造建物、門扉、石積み壁、キャフェやレストラン、円筒広告塔などーの厚塗りの色彩の複雑な筆致には惹きこまれます。
佐伯祐三は音楽も好きだったそうで、街中のコンサートのポスターも、画面の中で跳躍する文字が美しいです。
佐伯祐三を観るたび、私の胸の内のパリがざわつきます。
私の実家の近所に400年以上続いた光徳寺という場所があります。そこが佐伯祐三の生家です。佐伯祐三は体の弱い子供だったそうですが、そこで裕福に育ちました。現在光徳寺は、"佐伯祐三生誕の地"の石碑と、いくつかの暮石、佐伯家累代の墓があるだけで、敷地には今は、佐伯祐三の2才違いの兄の佐伯祐正が創設した"社会福祉法人光徳寺善隣館中津学園"が建ち、現在も福祉活動の場となっています。
私の姪や甥たちもそこで学童の支援を受けてました。
佐伯祐正は、進取の気性の人で、ゴッホの兄テオと同じく、画家祐三の最大の理解者であり、生涯を通じて物心ともに佐伯祐三を支え続けたとそうです。母の意向を携え病弱の佐伯祐三をフランスから一時連れ帰ったのも、佐伯祐正だそう。
その光徳寺から北に数分歩くと淀川に突きあたります。私は子供の頃から淀川の景色を眺めて育ちました。佐伯祐三もこの淀川の同じ風景を見てきたのでしょうか...寺育ちであったことは、佐伯祐三の絵になんらかの影響を与えたのでしょうか...。
1920年代の日本では、恵まれた画学生たちの常套コースは"フランス留学"でした。その頃日本でヨーロッパの本物の油絵を観る機会などまずなかったでしょうし、油絵を学ぶものなら誰しも異国のパリに憧れたことは想像つきます。佐伯祐三も、渡仏を夢み、東京美術学校西洋学科を卒業した1923年の11月に妻子とともに神戸港から出航し、1924年1月にパリに入りました。
パリでは、佐伯祐三はブラマンクの試練を受け、日本で身につけたアカデミズムを清算しそれまでの画風をかなぐり捨て、独自の画風を確立しようと葛藤します。友人に手紙で、ブラマンク、セザンヌ、ゴッホ、ユトリロ、ピカソ、モディリアーニ、シャガールなどからの感化を記述しています。
約2年後の1926年3月、佐伯祐三はやむなく帰国します。"涙ながら巴里に別れを告げた"と文字で残しています。
1年半の帰国滞在中、「昨今つまらない生活をくりかえしている」と友人に明かしてます。ヨーロッパの堅牢硬質な風景とは違う日本の木造家屋、土の道路の描写には自分の画風では捕らえ難いと。制作の空虚感に焦りを覚え、心はパリに向かいます。祐三は日本に帰国直前、「すぐ戻ってくる」と芹沢光治良に語ってもいました。
1927年8月、病身の体を賭けて、日本との最後の別離を覚悟し、2回目の渡仏を決行します。1回目と違い物心両面の無理しての旅立ちでした。
2回目の滞仏では、おもいつめた表情でパリの街に潜み、壮絶なまでに画業にのめりこみ、一刻を惜しんでの情熱的な制作の執念は、死をも予感してるかのような凄まじさだったと伝えられています。
友人の画家たちが、「佐伯は最後まで制作に悩み続けた」と証言してました。
1928年8月16日、佐伯祐三は、結核の悪化に、躁鬱と激情に精神を拗らせ、パリ郊外の精神病院で夭折します。まさに"巴里に死す"です。
佐伯祐三の前後2回の滞仏は、延べわずか約3年です。30年という短い人生でしが、本格的に画業に取り組んだのが4年余りでも、佐伯祐三は多くの代表作を残しました。
パリに魅せられパリに切実な愛着を抱いた佐伯祐三。もっともっと生きてパリに暮らしてパリの絵を描き続けたかったでしょうに・・・・・・
パリ滞在中、佐伯祐三や仲間が集まって住んでいた、パリ・モンパルナス界隈の14区15区あたりは、古き良きパリが香る庶民的なカルティエ(地区)です。佐伯祐三の絵にもよく描かれてて、私はパリに行くたびこのあたりをよく歩き回ります。店をやってるとき、作家・故小川国夫さん(1927〜2008)が仕事で来阪の折、立ち寄ってくださること数回程ありました。小川さん、1953年から3年間フランス留学の経験おもちだったので、小川さんからは50年代のパリの話を聞かせてもらえました。小川さんにとってもモンパルナス界隈は馴染みある思い出深いところだったみたいで、いろんなエピソードを語ってもらいました。あの時代はあのあたりならお金なくても日本人もフランス人も助け合っておもしろく暮らせました、と、小川さん。(お話中、小川さんほとんど食事を口にせずずっーとワイングラス傾けられてました)
本中でも、佐伯家族は、里見勝蔵、前田寛治、荻須高徳、椎名其二、山口長男ら留学生仲間と、和食を作って食べたりしてみんなで助け合って暮らしてた様子が描写されてました。
残念なことに、佐伯祐三の作品の多くが空襲で焼失したそうです。それでも、近々、佐伯祐三を日本最大級56数点所蔵する大阪中之島美術館でまとめて約140点を鑑賞できる機会が訪れそうです。いまから楽しみです。
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