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パリ大変身

パリの街をぶらっと散歩するなら、右岸だったら 先ずはシャンゼリゼ通り、或いはオペラ界隈、そして左岸だったらサン・ジェルマン・デ・プレなど…。まずはいずれの場所もあちらこちらに並んでいる見事な建物群に圧倒されて当然。そしてやっと「ああ、パリに今いるんだなあ。」と実感が湧くはず。ところがこの見事な景色は昔からこうであった訳ではなく、なんと19世紀の後半に行われた大改造プロジェクトの賜物であって、それまではむしろ街は汚かったなんて言っても誰もなかなか信じないだろうけれど。

①オスマニアン建築とは?


それは第二帝政(1852-1870年)、ナポレオン三世(1808-1873年)の時代であり、フランス最大の都市整備事業が行われた時であった。その時セーヌ県知事であったジョルジュ・オスマン(Haussmann、1809-1891年で在位は1853-1870年)はナポレオン三世から命を受け、パリの街を生まれ変わらせる計画を立てた。

それ以前のパリの街は古く、道幅は狭く、歩きにくくてお世辞にも清潔とは言えないものであった。 不衛生で病人も多く、また家を建てるのに多くは 燃えやすい木材を使用したせいで、火災が頻繁に 起こったそう。そんな理由からナボレオン三世が ロンドンの街を実際に視察した時には、驚いただけではなく、その美しさに感動し、さらには嫉妬の念さえ抱いたそうだ。「パリの街もこうあるべき」、と即座にオスマン知事に話したそうだ。

その後オスマン知事はパリ大改造を何と17年でやり遂げてしまった訳であるが、まず、それまで11区 までしかなかったパリを20区まで拡張し、区域毎にスクエアをつくり、公園も増やして、教会も建て直し、更にいくつかの区域を限定して、そこに写真にある様な建物をずら〜っと並べて街を美しく変身させようと考えた。写真手前の立像はオスマン知事で、彼は丁度自分の名のついたオスマン通り(この通り沿いには本当にズラリとオスマニアン建築が並んでおり、荘厳さ、ハーモニーに圧倒される。)を眺めているかのように作られている。自分の時と、成功の結果を満足そうに見ているのだ。そして彼の背後もオスマニアン建築である。

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パリの都市改造はロンドンの変身から40年遅れで成し遂げられたのだが、しかしよくこれだけのものを建てたものだ。同じ様な、しかしどれもパリの街の雰囲気に合っている。建物全体のバランス、黒い鉄の柵付きのバルコニー、マスカロン(人の顔の彫刻)、花や果実の彫刻などの装飾、また急な勾配のグレーの屋根や数多くの煙突も特徴的である。日本式でいうと1階にあたる(フランスではrez-des-chaussées、日本式2階はフランスの1階になる)階の出入り口の扉の壮大さに注目してしまうが、これはこの時代はやはり馬車の需要が多かったので必然であった。扉から入ると大抵は広い中庭があり、奥には緑や花に覆われた庭がある。ちなみにメトロ(地下鉄)の開通は1900年だったのでこの時はまだ馬が重要な役割を果たしていた。建物はよく見ると階によって窓の高さが違っていたり、鉄のバルコニーがあったりなかったりするが、これも規則である。一番下と中二階は通常商店、カフェ、レストラン、事務所等に使用され、その上の階に一番立派な鉄のバルコニーが付いていたりするが、この階に住む人が一番リッチなので、当然天井も高く、つくりもゴージャスである。でも何故リッチがこの中途半端な高さの階なのか?もっと上の階の方が見晴らしも良いのでは?その 理由にていて明確に述べると、この時代はまだエレベーターが無かったのでリッチな皆さんがえっちらおっちらと息を切らせながら階段を登って行くことは無いのであった。その上の階になると天井も低くなって造りも段々質素になり、バルコニーもなかったり、あっても小さかったりする。さらに最上階は要するに屋根裏部屋で、狭くて天井は斜めであり、あまり快適とは言えなそうだが、昔は使用人、現在では比較的裕福な留学生などに貸したりしているらしい。

オスマニアン建築は今でも人気である。若い人でも家賃の値が折り合えば住んでみたいと希望する。特に内部に暖炉(現代では使用する事はない)があったりすればお洒落だし、どの様に活用するかは借り手の自由だし、やはりお洒落なバルコニーから街を眺めるのは気持ちの良いものだ。当時オスマン知事は指定した区域の地代は無料だが建物は自己負担で、しかも定められた建築デザインを守る事を条件として家主を募集した。要するに裕福な人々しか住めない。金持ちは競い合うようにヴェルサイユ宮殿の様なスタイルを建築家に注文したのであった。

②印象派とカイユボット


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モンソー公園(Parc Monceau)、Paris                   Claude Monet                   1876年                    泉谷博古館住友コレクション、六本木

新しく、また美しく変身した都会のパリは当然アーティスト達の注目の的となった。クロード・モネは <モンソー公園>と言うタイトルの絵を何枚か描いているが、そのうちの一枚である上の作品は日本の泉谷博古館住友コレクション貯蔵だそうな。そのうち見に行きたいと思う。モネの作品は一度は間近で肉眼で観ないと感動も半減するし、何か損した様な気がする。この絵の構成の中の左側にオスマニアン建築の一群がこっそり隠れる様に描かれているが、フランス革命(1789年)からおよそ100年近く経った1876年にはもうパリにこんな穏やかな景色があったのだなと思うと改めてオスマン知事のパリ大改造は偉大である。モネについてはフランスでもパリ 郊外やノルマンディー地方などの美しい風景を最高の色彩、タッチ、表現、構成で自然のありのまま、またそれ以上の素晴らしさを伝える事の出来る才能を持った画家だと誰もが疑わないであろう。

19世紀のフランス絵画はパリの街を語るのに不可欠となった。特に<印象派>と呼ばれたモネが、ルノワールが、ピサロが、シスレーが…、そしてここで忘れてはいけないのがカイユボット!モネに比べると 知名度は明らかに低いであろう、印象派の会合の メンバーの中に最初は名前を聞いたことがなかった。モネ達と知り合ったのは1874年頃で、ドガを通してらしい。カイユボットは金持ちだったので印象派の画家達を経済的に援助したそうだ。皆の絵を買ったりしたので画家というより収集家として有名であった。モネに関しては家賃を払ってあげたこともあるそうだ。

そんなカイユボットであるが、実は彼も才能ある絵描きであった事は数々の作品が証明している。援助を続けながら、自らも第2回印象派展以降出品をしていたそうだ。カイユボットは元々裕福な家に育ち、父親がサン・ラザール駅の近く(上の写真のオスマン男爵の立像の近くでもある)に家を建て、その際にカイユボットもそこに住んで近所の様子を描いたのであった。おそらく一番有名な作品は<パリ通り、  雨> (写真参照)、或いはオルセー美術館の<床削り>(1875年)、またはジュネーヴのプティ・パレに所蔵されている<ヨーロッパ橋>(1876年)であろう。3作とも舞台は自宅の近くである。<床削り>に関しては、カイユボットにしては珍しく室内であるが、この 部屋のある建物も近所である。エコール・デ・ボザールに通ったりはしたものの、画家としてのカイユボットの行動範囲は狭く、パリ市内、しかもサン・ラザールやオペラ周辺に限られているようである。その辺りは印象派の他の画家達とは明らかに違って完全に都会派である。

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バリ通り、雨                 ギュスターヴ・カイユボット          1877年                    シカゴ美術館

さらに言える事は、上の絵を観ると判りやすいが、カイユボットの画風はモネを始めとした印象派のスタイルとは違う事である。むしろ写実的で、それはカイユボットの2人の弟のうち 1人が写真家でもあった事が影響している様に思える。背景の建物はオスマニアン建築であり、全体に静かで喋り声も聞こえない、人々の服装からも裕福そうな、また清潔感とモダンなイメージが好印象を与える。

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パリのバルコニー               ギュスターヴ・カイユボット          1881年                    個人所蔵

ナポレオン三世は石や鉄の冷たいイメージに対して自然の緑を加える事も考えた。その理由から、一部(オペラ通りなど)を除いて大通りには並木が植わっでいるのである。上の絵の構成上おもしろいのは鉄のお洒落なバルコニーが半分を陣取っているが、外の景色を隠しきっていないところである。目のつけどころが違うというのか、しかしながらそんなところにカイユボットのアーティストとしてのセンスを感じる。

カイユボットは、こうしたパリの新しく生まれ変わった街の様子を描く事で自分の時代を証明したかったのであろう。また、美しく見事に変身したパリの新しいイメージを自分の作品を通して人々にアピールしたかったに違いない。今日でもパリの建物の 半分以上はオスマニアン建築が占めている。外観のハーモニーを保つ為に勝手に違う様に立て直したりしてはいけなく、勿論これは建築を始める前からの決まりであり、材料の石も何でも良いのではなく、バルコニーに洗濯物を干してはいけないなど主な規則は変わらない。なにせパリジャンの誇りなのだから。

それでもその後、1880年あたりから建築に関する規則も当初に比べれば多少緩くなり、アール・ヌーヴォー等新しいスタイルも生まれつつ、また、その後パリ郊外ではどんどん新しいスタイルも見られる様になる。環境を考えて、以前に戻って木を使った設計、それに緑を合わせたり、ガラスをたくさん使って明るくしたりなど、時代の流れに沿って劇的な変化が見られていく。しかしオスマン知事による建築スタイルは不滅であり、輝くパリの象徴であろう。


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