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半・乗り逃げ 深夜の大追跡!!【前編】

約20年のタクシー人生で、私は3回の大きな乗り逃げに遭っている。

その中でも、1回目の乗り逃げが、一番大きかった。
タクシーを始めたばかりの私は、その乗り逃げによって、精神的にも金銭的にも大きなダメージを受けた訳だが、それについては、こちらの記事に書いてあるので、是非読んで頂きたい。

新米タクシードライバーが遭遇した高額の乗り逃げ。その巧妙な手口とは!?  |タクシードライバー日記【横浜】 (note.com)


今回は2回目の乗り逃げについて書きたいと思う。
これは、1回目の乗り逃げから、約半年後の話である。

それは、6月後半のむし暑い夜だった。
私はいつものように、終電間近のJR磯子駅のタクシー乗り場に並んだ。
タクシーは20台ほど並んでいただろうか。
そのほとんどの運転手が、東京方面から乗って寝過ごした長距離客を狙っている。
一発当たれば、1万2万の売り上げになるという訳だ。もちろん私もそうだった。
最終電車が到着すると、タクシーの列が流れ始めた。
その日は、あまりの暑さに、仕事帰りに冷たいビールで一杯という客が多かったのではないか。列の進むスピードは速かった。

しばらくして、列は私の順番になった。
乗って来たのはサラリーマン風の客。
「西馬込駅」
客はぶっきらぼうに言った。
「ご乗車ありがとうございます。1号線で行かれますか?」
私が尋ねると、
「当たり前だろうが。もたもたすんな。早く出せよ」
と、命令口調で言って来た。
どうやら、かなり酔っているらしい。
私は嫌な予感がした。こういう酔い方をしている客は、ほぼ間違いなく絡んでくる。

その頃は、今みたいにナビがなかった。
私は、道を間違えないように、助手席に地図を置いて、信号待ちで止まる度に確認しながら走った。
「お前、西馬込行ったことねえのかよ」
「すいません。まだ新人なもんですから。道に詳しくなくて」
「何が新人だ。ふざけんな、 この野郎」
客は乱暴な言い方をしてきた。
私は一瞬カッとなった。いくら客だとは言え、いきなり「この野郎」はないんじゃないか。
私は腹が立ったが、ぐっと抑えた。
「道も知らねえで、よくタクシーやってんな。会社はどういう教育してんだ。おい」
客は喧嘩腰とも言える口調で言って来たが、私は何も言い返さなかった。
いや、言い返せなかった。
その時、タクシーを始めてまだ1年経たない私には、酔った客と対等に渡り合う度胸も経験値もなかった。
「どこの会社だ」と、客は聞いてきた。
「✕✕交通です」
「道、間違えんなよ。遠回りしたら、会社に電話するからな」
「あ、はい・・・」
ここまで言われて、何も言い返せないのは何とも情けない話だが、私はただひたすら道を間違えないように、西馬込に向かうしかなかった。

私は、次は何を言われるのかと内心ビクビクしながら運転した。
しかし、客はその後、静かになった。
私はバックミラーで後ろを窺った。
すると、客は寝てしまっていた。さっきまで私に向かって悪態をついていたのに、今は、かすかないびきを立てている。
私は、少し拍子抜けしたが、それでもさっき客に言われたことに、何とも言えない屈辱を感じていた。

タクシーをやっていると、酔った乗客に絡まれたり嫌な言い方をされるのは、たまにあることだ。
それは決して気分のいいものではないし、時として大きく傷つく時もある。
タクシードライバーというだけで、人を見下ろしたような馬鹿にしたような言い方をしてくる人が、結構いるのだ。

と言っても、乗務の度にそんな事があるわけでもなく、ほとんど大きなトラブルはないのだが、数か月に1回か2回は酔った乗客に絡まれてしまう。
言葉だけで済めばいいが、時として、殴られたり、後ろから蹴られる時もある。
自分で選んだ仕事ではあるが何とも因果な商売だ。

タクシーは、桜木町駅、横浜駅東口の近くを抜けて1号線に入った。
相変わらず、客はいびきをかいている。
私は、ハンドルを握り続けた。
沼の底のような時間が車内に流れる。
後ろを見ると、客は白い顔で口を半開きにしている。
私は、とにかく、このまま何事も無く客を目的地に届けようと慎重に運転した。

タクシーは1号線をひた走り、やがて西馬込駅についた。
料金は、1万円近くになっていた。
私は、客に声をかけた。
「お客さん、着きましたよ」
しかし、客は起きる気配がない。
私は、何度も声をかけた。
「お客さん、着きましたよ。起きていただけますか」
何度目かの問いかけに、客はやっと目を開いた。
「お客さん、着きました。ここでよろしいですか?」
すると、客は私を一度睨みつけ、その後、周りを見回した。
「何処だよ、ここ」
「西馬込駅です」
客は、もう一度、周囲を見回した。そして、ゆっくりと私を見た。
「いくら?」
私は、料金を告げた。
すると、客は、財布から札を出し、私に投げてよこした。
そして、さっと自分でドアを開けて出て行った。
私は、その札を見て驚いた。
5千円札だったのだ。
「お客さん、足りませんよ!!」
私は、ドアを開け、大声で叫んだ。
しかし、客は、すでにタクシーから離れ、大通りの歩道を小走りに歩いて行く。
私は、乗り逃げだと思った。いや、正確に言えば、「半・乗り逃げ」だ。
私は、携帯だけ持ってタクシーを降りると男を追いかけた。

男は、大通りから路地に入り、どんどん歩いて行く。
私は、遅れを取らないように、男を追跡した。
こういう場合、テレビか映画なら、「おい、待て」と大きな声をかけるかもしれない。しかし、実際はそんなことはできなかった。 
何故なら、必要以上に男を刺激すると、何をされるかわからないからだ。
「半・乗り逃げ」だって立派な犯罪だ。犯罪者と言っていい。もしかしたら何か武器を持ってるかもしれない。

私は、追いかけながら携帯で110番に電話した。
(その頃の携帯は、スマホではなく、ガラケーだった。)
「事件ですか? 事故ですか?」
警察の係員は聞いて来た。
「あの、タクシー運転手なんですが、乗り逃げです。すぐ来てください」
と、私は小声で言った。
「場所はどこですか?」
私は、初めて来た場所なので、殆どわからなかったが、電柱に貼ってある住所を告げた。
「電話は、繋いだ状態にしておいてください。今、警察官を向かわせます」
「はい。お願いします」
私は、携帯を繋げたまま、男を見失わないように追跡した。
(確かこの当時、110番通報の携帯電話に対して、場所を特定する警察のGPS機能はなかったと思われる)
男との間隔は、10メートル位だった。
男は、私に気がついているのだろうか。全く振り向かずに、走るでもなく急ぎ足で歩いて行く。一体どこに向かっているのか? 家に向かっているのか?
私は心臓がドキドキして、息が出来ないような思いがした。
深夜の寝静まった住宅街に、男の靴音が響いていく。
私は、新しい電柱の住所を警察に告げた。そして、荒い息で「まだですか?」と聞いた。
「今、向かってますからね。もう少しお待ちください」
と、警察は答えた。

(前編 終わり)

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