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「話し合える先生は必ずいる」 本当だった翔くんの言葉

今日はいつもの銀蝿一家考察コラムとは趣向を変えて、銀蝿一家の考察ではなく銀蝿にまつわる当時の自分の思い出話を書こうと思う。実話なので少し恥ずかしいけれど、銀蝿と出会ったからこういうエピソードも生まれたということで。まずは最初に横浜銀蝿解散前に翔くんが語った言葉を紹介してみる。

お前ら、先生とのコミュニケーションが足りないと思う。人間は会話してはじめてわかる動物だ。まずアクションをおこしてみることだ。1回でもぶつかってみたのかって、コンサートでもきくと、そうじゃないヤツがあまりにも多い。
先生だって昔は生徒だったんだ。生徒の心がわからないわけはない。担任がわからなくたって、学校中探せばきっといると思う。とにかく当たってみることだ。自分のことわかってくれる先生をひとりでも探せばいいことじゃないか。

これは横浜銀蝿が解散前に出したメッセージ本「あ・ば・よ〜お前らみんなマブかった」の中で翔くんが語っていた言葉だ。この本に限らず、横浜銀蝿のメンバーの語る言葉は何度も自分の背中を押してくれ、勇気を与えてくれた。このメッセージの数々は他のどんな大人の言葉よりも信頼できるものだった。そういう若者は当時日本中にたくさんいたことだろう。

この当時は本当に学校が荒れていた。先生と生徒がぶつかることなんてしょっちゅうで、今ではすぐに問題になるが先生からの鉄拳制裁なんて当たり前のようにあった時代だ。横浜銀蝿はその荒れた学校の根本的原因として大人達に否定され、若者は横浜銀蝿を好きなだけで不良扱いされていた。

横浜銀蝿に夢中で勉強をしないオレもやはり先生の手を焼かせていた。しょっちゅう親が呼び出されていたし、ウマが合う先生なんているわけがないと思い込んでいた。中3のある日、担任の女性の先生に職員室に呼び出された。先生曰く、とにかく今のままでは受かる高校なんてないと。高校に受かるまでの間、横浜銀蝿のことは忘れて勉強しなさいと。高校に入ったら好きなだけ横浜銀蝿を聞けばいいじゃないかということだった。

高校に入学した時にはもう横浜銀蝿は解散して存在していないんだ。だから今横浜銀蝿を聞くのをやめるなんてことはできない。横浜銀蝿を聞くことをやめてまで高校に行きたいとは思っていない。そもそも先生は銀蝿のことを何も知らずに否定ばかりするじゃないか。そんなオレの思いを聞いた先生の口から意外な言葉が返ってきた。

「そんなに大切なものなら先生を納得させてみなさい。横浜銀蝿の音楽や、そこまで影響受ける彼らの言葉があるのなら本でもなんでもいいから読ませてちょうだい。それで先生も納得できたら、あなたが横浜銀蝿を聞きながらも高校に受かるよう応援するから。明日、先生に横浜銀蝿のレコードでもなんでもいいから持ってきなさい。」

こちらがどんなに熱く語っても話をちゃんと聞いてもくれる大人なんていなかった。だからそんな先生の言葉が嬉しかった。普段は横浜銀蝿のレコードや本なんて学校で見つかったら没収されるとこだが、この時ばかりは先生に持ってこいと言われたわけだから、翌日両手に持ちきれないほどの荷物を持って堂々と職員室へ向かった。銀蝿一家のレコードやカセット、横浜銀蝿の本や写真集、平凡や明星の記事の切り抜き、集めたステッカーやグッズのコレクションまで持ってるもの全部全部持っていった。

まさかこんなに沢山持ってくるとは…と呆れながらも先生はその荷物を受け取ってくれた。オレの中ではもうそこで話は終わっていた。先生が銀蝿に興味を持ってくれたことが嬉しかったし、学校に堂々と銀蝿コレクションを持って行けたことで満足していた。先生が銀蝿に対してどういう想いを抱くかなんていう結果には正直興味はなかった。どうせ分かってもらえることなんてないと諦めてもいた。

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それからしばらくして父母会があり、そこで先生がこの話題を口にしたそうで、母親は「またあんたのせいでみんなの前で恥をかいた!」とブチ切れて帰ってきた。ここで父母会で先生が言った言葉を紹介してみる。もう40年近く前のことでしっかりとは覚えていないが、だいたいこんな感じのことを言ってくれたようだ。

「クラスに横浜銀蝿に夢中になりすぎて全く勉強をしない、喧嘩ばかりしている生徒がいます。私も彼については手を焼いていて、正直どう対処したらいいのか分かりませんでした。そんな彼から横浜銀蝿への熱い想いを聞かされ、批判する前に一度でもいいから銀蝿の曲を聴いてみて欲しい、銀蝿の言葉を読んでみて欲しいと言われ、横浜銀蝿のレコードや本を貸してもらいました。横浜銀蝿の音楽はとても素晴らしく感動しました。そして横浜銀蝿の本には、若い世代の気持ちを理解する兄貴のような言葉が並んでおり、私たち大人が何故若い世代の子供達を理解してあげられないのかが分かったような気がします。横浜銀蝿は見た目こそ問題はありますが、音楽に対する愛情や若い世代に響く言葉を持っています。それを問題児だと決めつけていた生徒から教えてもらいハッとしました。子供達が好きなことを闇雲に否定するのではなく、彼らの話も聞いてあげてください。そして、もし今自分のお子さんとうまくいってなくて悩んでいる親御さんがおられましたら、◯◯君に横浜銀蝿の本を借りて読んでみてください。横浜銀蝿の言葉は、私たち大人が子供達の気持ちを理解してあげるために必要なことを教えてくれます」

後から先生がこんなことを言ってくれたと知って正直めちゃくちゃ嬉しかった。絶対に理解してもらえないと思っていた先生が横浜銀蝿を認めてくれた。本当に嬉しかった。母親のブチ切れ具合を見て、おそらくまた先生はみんなの前でオレのことを悪く言ったんだろうなと思っていたが、全然そんなことはなかった。その後、何人かのクラスメイトに「お母さんが横浜銀蝿の本を読みたいって言ってるから貸してもらえるかな?」と言われたことを覚えている。

そして、その先生は嵐さんの激白本「散りぎわ死にぎわ〜不良少年のすすめ」で語られていたフォークシンガーの岡林信康さんのカセットテープをくれた。「先生の世代はこういうのに夢中だったからね。岡林のことを嵐さんが語っていて嬉しかったの」と言ってくれた。当時は岡林信康の音楽はどこか古臭くて理解できなかったけれど、このテープは今でも持っている。大人になって岡林信康の凄さを知って、これを若い時に夢中になっていた先生や嵐さんのことを改めてリスペクトした。

翔くんの言葉通り、先生の中にも自分の言い分を理解してくれた先生がいた。自分の夢中になっているものと向き合ってくれた先生がいた。それがあの時は誇らしかった。理解してくれる先生がいたこと、憧れていた翔くんの言葉通りになったこと。横浜銀蝿を好きになって良かったとつくづく思った。この時の先生との壁がなくなった時のなんとも言えない気持ちは今でもはっきりと覚えている。この時の先生の行動や言葉はその後の自分の人生に於いてもいい教訓として生かされている。

この出来事以来、先生との会話は驚くほど増えた。「大輔と哲太なら先生は哲太派だなぁ」「岩井小百合ちゃん新人賞取れるかな⁉︎」なんて会話を日常的に先生とするようになり、卒業するまでの数ヶ月は本当に心に残る楽しい中学校生活を送らせてもらった。先生にかけまくっていた迷惑も明らかに減ったんじゃないかと思う。先生公認となった横浜銀蝿を聴きながら、なんとか無事に高校にも合格し中学校の卒業式の日に先生がくれたメッセージが短いながらもいかしていて今でも大切に取ってある。

人生に迷ったら横浜銀蝿を聴きなさい。
あの本は男のバイブルだ。
一生大切にしなさい。
銀ばるっきゃない!

というわけで、今日のコラムは小っ恥ずかしい中3の時の実話を書いてしまいました。でもこれは個人的に今でも忘れられないエピソード。翔くんの言う通り、自分のことを分かってくれる先生がひとりいた。この担任の先生と出会えたことに今でも感謝している。

当時、横浜銀蝿のメッセージ本は本当に心に刺さるバイブルだった。どんな大人の言う言葉よりも信頼できるメッセージだった。今でも本は大切に持っているし、たまに読み返してみたりする。

昔、「徹子の部屋」に横浜銀蝿が出演した時に、黒柳さんが「メンバーには内緒にしてくださいって頼まれてたんだけどもう言ってもいいわよね?あの時、私がやっていた基金に横浜銀蝿さんが本の印税を募金してくれたんですね。こんなに怖い風貌なのになんて優しい人達なんだろうと感激しましたのよ」なんて言っていたのを思い出す。そう彼らはいつも弱い立場の人たちの味方だった。そういうエピソードを後から聞くと、あーやっぱり銀蝿も、また銀蝿を好きだったオレたちも間違ってなかったんだなと感じるのだ。

横浜銀蝿の言葉に何度も奮い立たせてもらった。だから、横浜銀蝿にあの時出会えたこと、夢中になれたことは人生のターニングポイントだったと思っている。親からは「あの時銀蝿に出会ってなければもうちょっとマシな人生になってたよ」と今でも言われるが… 自分の中ではそうは思っていない。あの時銀蝿に出会えたから今のオレがいる。まさか再結成して4人の活動を楽しめることになるとは全く想定していなかったけど。あれから40年近く経って、歳もとり自分のライフスタイルや考え方も変わっているが、聴いている音楽は今でも横浜銀蝿のロックンロールなのだ。

it's only Rock'n Roll


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