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広島水辺探訪① 町を知るには走るに限る

平成最後の冬、連休を利用した広島水辺散策のトラベルログ。
普段、関東を出ることがなかなか無いのでアドレナリン全開で書きつづる記録集。 ※広島水辺シリーズ

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雪がちらつく中、新横浜からのぞみに乗車。

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寒川や平塚のあたりでは、暗い雲はかなり薄くなり薄日が差す場面も。コーヒーを手に、車窓をぼんやり眺めたり(富士山は見えず)、iPhoneの不要な写真の整理をしたりと贅沢な時間を過ごしていたら、掛川駅の手前で突然の停車。なんでも二つ前を走る編成に「雹」が当たってしまったそうで、そのダメージが大きく当該編成は浜松で運転取りやめに。その後も遅れは増え、広島着は約90分遅れ。あと30分遅れてくれたら特急料金が戻ってきたのだけどツキがない。

広島駅から路面電車に乗り換え。鹿児島、長崎、広島、岡山、松山、高知と、路面電車の ネットワークがある街は『賑やかさと豊かさ』を感じる。春節休暇と重なっているので、車内には中国からの観光客の方々が多い。ガイドブックなどは使わず、みなさんスマートフォンの画面をみながら、車窓を指さしている。

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宿に荷物を置いてすぐに川沿いをジョグ。通過することは数回会ったけど、広島市内で立ち寄るのは小学生の夏休み以来。走ることで街の雰囲気を肌で感じたい。


■京橋川(猿候川)を下流へ。

河川敷は整備されていて走りやすい。周りをきょろきょろしながら走っていると地元の方と思しきジョガーが軽く手をあげてて挨拶してくれ、とても嬉しい。

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干潮のタイミングだったので、川の両側は干潟が出来ている。瀬戸内海は干満の差が大きいのだそう。

写真の奥にあるのは「御幸橋」。市電も走る大きな橋。以前からあったそうだが、1885年の山陽道行幸中の明治天皇が広島を訪問中にこの橋を渡ったことを機に「御幸橋」と改称されたそう。

御幸橋西側にあるのが『おりづるモニュメント』。

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このモニュメントの解説には、『世界の恒久平和への願いが、ひとつぶの麦のごとく、この地から芽吹き広がるようにここへ設置した』とある。
また橋の反対側には原爆被災説明板が設置されている。2015年に放送されたNHKスペシャル『きのこ雲の下で何が起きていたのか』で取り上げられていた、あの場所だ。

エントリを書くに当たり、8月6日の御幸橋の状況を少し調べてみる。

直ちに状況偵察のため、舟艇にて宇品に渡り、乗用車にて市内に向う。御幸橋あたり(時間は九時三十分か十時ごろか)まで到ると、路上は、市内から避難してくる市民で埋まる。火傷のため、皮膚だらりと剥離したもの、着衣を失ったもの(屋外勤労奉仕中のものの大半は着衣を吹きとばされたらしい)のほか、顔面がはれあがったため、事実上の盲目となったものが、路上を俳徊しているため、車行不可能となり一日帰隊。当時御幸橋附近の日本家屋は損壊多きも倒壊は少なかった。十時ごろから方々に火勢上がり、十八時ごろには市内は炎上し尽したようであった。

被爆者救護活動の手記集
(暁部隊)梶秀逸(当時野戦船舶本廠・陸軍少将)
 より

下水道処理センターを越えると、元安川との合流ポイントである宇品橋。

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1999年に「全建賞都市部門」、そして2000年には「土木学会田中賞作品部門」を受賞している美しいアーチ橋。橋の下は周囲から『隔絶』されていて不思議な雰囲気の場所だった。2日後のSUP巡りの時に聞いたら、水が動く場所なので釣りのポイントになっているようだ。

■元安川を上流へ

ここからは元安川沿いに走る。
明治橋を越えると河川敷に『大手町地区町民原爆犠牲者慰霊碑』がある。

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原爆ドームの脇を通り、平和記念公園の脇を抜ける。

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その先にずいぶんと大きな広場だなぁ、と思った場所は「広島市民球場跡地」だった。平和記念公園のすぐ脇にあったのか。

本当は「工兵橋」あたりまで行き、『デルタ地帯一周ジョグ』にしようと思っていたのだけど、新幹線の遅れでスタートが遅れすっかり暗くなってしまったし、この後に行きたい場所もあるので城南通りを走って切り上げる。距離にして10km弱。

このエントリを書くにあたり、改めてGoogleMapを見てみたら、あちらこちらに原爆に纏わるモニュメントが。昨年末の『東京SUP水路巡り』でも関東大震災や東京大空襲の碑が多くあったけれど、どんなに時が経ても、街にかつて起こったことを記す礎があるのは重要なことだ。
それは、広島のような大きな被害があった場所であればあるほど。


"ヨコハマ良いよなあ"、"SUPやってみたいなあ"と感じていただけたら嬉しいです。いろいろありますが、みなさまにとっての毎日が「タフで優しい」時間でありますように。