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掌編小説−待つ女(ひと)

朝6時。

リビングのカーテンを開ける。
霧に包まれた街。

このところ、霧の朝が多い。

視線を降ろす。
いつからか始まった私の日課。

赤い煉瓦造りの喫茶店。

その壁に寄りかかる女性の姿。
これもお決まりの光景。

それはマンションの5階からの風景の一部。

こちらを見上げる訳でも無い。

けれど、何を思っているのかを、私は知っている。


窓から離れ、キッチンに入る。

コーヒーメーカーに挽きたての豆と水を入れて、スイッチを押す。

近くにオープンしたパン屋で買った、クロワッサン。

これが、かなり美味しい。

私はこのままで十分だけど、貴方は違う。


ナイフで切れ目をいれて、チーズと
サニーレタスを挟むのが好みだ。

「おはよう。いい香りだ」

「おはよう。朝食出来たから」

貴方は素直に椅子に座ると、窓を見た。

「今朝も霧がかかってる」

独り言のように話す。


コーヒーカップに淹れたての、ブルーマウンテンを注ぐ。

チーズとサニーレタスが挟んであるクロワッサンと一緒に、貴方の前に置いた。


「ありがとう。朝から食欲が出るメニューで助かるよ。いただきます」

パリッとクロワッサンを噛む音が好き。


チッチッチッ


前祝いに、贈られた時計の針が、

   (そろそろですよ)

そう告げた。


「仕方がない。会社へ行く時間だ」

「そうね。雨が降らないといいけど」


「……濡れるのもいいさ。たまには」

そう云って貴方は笑顔を見せた。
最後のーー。


「行ってらっしゃい」

「あゝ、行って来る」


玄関から、出ようとした貴方は

「風呂、沸かしといてくれるか」

背中を向けたまま、そう云った。

「うん。判った」

それを訊くと貴方は、ゆっくり歩き出し、ちょうど止まったエレベーターに乗った。


ドアが閉まる直前の、少しの隙間から、私のことを見た貴方の目を、
私はたぶん、忘れることは無い。


   さ・よ・な・ら


そう云っていた。

もう会うことはない。

彼が、この部屋に帰ることも。


友達が前祝いにと、渡してくれた
時計。

私たちの関係を、話せなかった。

だから贈ってくれたのだ。

結婚の前祝い。
そう云って。


痛かったなぁ。


前からずっと、胸が痛かった。

自己中だよね、こんなこと云うの。


毎朝、待ち続けた貴女も
痛かったですね。

彼の、奥さん……。


でも今は

すみませんでしたも、
ごめんなさいも、
申し訳ありませんでしたも、


云いたくないのです。

私には既に、新たな痛みが宿ってしまったから。

寂しさや、孤独の日々が、
痛みと一緒に私の胸の中に入り込んでしまった。


予測はしていたけど。


私はこの痛みに、いつまで耐えることが出来るだろう。


貴方が買ってくれた、真紅の薔薇が、花びらを散らしていた。


      了









      












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