【一年後に待ってるから】
画家の名前は、河野涼。34歳。
美大を出てから、彼は就職はせずに、ひたすら絵を描く毎日を過ごしている。
彼の両親は、既にこの世には存在しない。
その理由には、涼の弟が関係している。
弟は清という。病院に入っている。
たぶん一生、出ることはないだろう。
涼は、父親が残してくれた、蓄えのおかげで、住む場所にも困らず、大学へ進学することも出来た。
就職しなくても、生活が成り立つのも、その蓄えのおかげだ。
大学時代の涼は、意外にも学生生活を、謳歌した。
意外にも、というのは涼は一見すると人間嫌いに映るからだ。
しかし違った。
涼は仲間たちと飲みに行ったり、旅行にも行った。
大学で涼は、世の中には、色んな人間がいるのだと、知ることができた。
一見、朗らかに笑っているヤツも、実は重い何かを抱えていたりする。
絵を描く為に進学したが、それとは別の学びがあったと、涼は思っている。
🖼
卒業後も仲間たちとスペースを借りて、絵画展を開催したりもした。
たまに絵が売れると、皆んなで飲みに繰り出して、全額飲み代に消えた。
涼以外の皆んなは、ちゃんと仕事に就いている。
デザイン関係の仕事をしているヤツは、毎日、終電で帰宅しているのだと、目の下に濃いクマを作った顔で話す。
美術とは全く関係の無い仕事をしているヤツもいる。
皆んな、涼を羨ましいと云う。
仕事は大変だとボヤく。
学生時代に戻りたいよ、そんな言葉を耳にする度に、涼は思う。
《あの4年間は、本当に存在していたのか?夢ではないのか》
たった数年しか経っていないのに、そんな疑いを抱くほど、あの時代はもう遠い過去になっていた。
🖼
ある日、涼のアトリエに、中年の女性が訪ねて来た。
銀座の裏通りで、小さい画廊を経営していると云う。
名刺を渡された。
“蒼井画廊 笹部ゆき子”
グループ展で涼の作品を見て画廊に置いてみたいと思ったそうだ。
それは海を描いた小作品だった。
「あの絵のどこが気に入ってもらえたんですか」
涼の問いに、笹部ゆき子は坦々と、
「売れると思ったからよ」
そう云った。
「なるほどね」涼がそう云うと、
「商売ですから、こっちも」
画廊の女主人は、そう云って不敵な笑みを浮かべた。
🖼
涼の海の絵は、画廊に飾られることになった。
もちろん売り物として。
そして、程なくして涼の絵は売れた。
年配の紳士が買ったそうだ。
自分で稼ぐとは、こういう事を云うんだな。
涼はそう思った。
初めて手にした金額だった。
涼はその金で、少し遠出をすることにした。
緑が多い土地に行こうと決めていた。
贅沢な森林浴をしに。
翌日にはもう涼は、新幹線で東へと向かったいた。
海へ行くことが多い涼だが、緑に囲まれたところへは、行った事がなかった気がする。
🖼
2時間と少しで、その土地に到着した。
宿は事前に予約してある。
荷物もたいして無かったので、涼は直ぐに目的地へと向かった。
タクシーで1時間、その場所は有った。
木々に囲まれた、深い森。
涼は、ゆっくりとその中に入って行った。
道に迷ったら。
何故だかそんな不安は微塵もない。
野鳥たちが囀るそこは、まるで異界のようにも感じる。
肩に掛けていた荷物を下ろし、涼は草の上に寝そべった。
木漏れ日が眩しかった。
疲れが出たのだろう、涼はウトウトし始めていた。
その時、人の歩く気配がして、涼は目を開けた。
明らかに誰かがいる。
緊張が体を硬くさせた。
「お兄ちゃんも会いに来たの?」
いきなり話し掛けられて、涼は後ろを見た。
まだ、あどけない顔の少女が立っている。
「会いにって、誰に?」
涼が返事をしたからか、少女は笑顔になった。
「森に住んでる妖精によ」
「妖精?この森に住んでるの?」
少女は頷いた。
「住んでる。だってわたし、何度も見たよ」
「本当に妖精なのかい。妖怪じゃないの」
涼の言葉に少女はムッとして、走り去った。
涼はもう一度、横になった。
「夢を壊してごめんよ。お兄ちゃんはいままで、妖怪しか見たことがないんだ」
独り言を呟き、目を閉じた。
涼が見た妖怪。
それは弟の清だ。
清の両親に対する暴力は、酷いものがあった。
中学生の時には、始まっていた。
自分がいる時ならば、止めに入ったが、いない時には打つ手が無かった。
親類宅へ避難をした事もある。
すると清は追いかけてきた。
高校2年の時、清の暴力は、最悪の事態を迎えてしまう。
深夜、寝ている両親を清は襲った。
ドアの鍵など簡単に壊された。
近所の人が、物音に気づき警察に通報。
警官が駆けつけた時には、両親はもう手遅れだった。
清は、その場で逮捕された。
清は今、医療刑務所にいる。
精神障害のため、責任能力無し、そう判決が出たからだ。
涼は一度だけ、清に会いに行ったことがある。
帰り際、突然、
「アニキ!」
そう呼ばれた。
振り返ると清が腕を伸ばし、手をグーにしている。
涼がその手を見たとたん、清は親指をたてた。
そして、ニヤっと笑った。
あいつは、清は人間ではない。
化け物だ。
それ以来、涼は2度と清に会うつもりはない。
🖼
いつの間にか、眠ったらしい。
辺りは暗くなりかけていた。
涼は荷物を掴むと、来た道を戻って行った。
その晩、宿に泊まり、翌朝早めの新幹線に乗って帰ることにした。
早朝から新幹線には思っていた以上に人な乗車していた。
遠距離通勤のサラリーマンだろうか。
涼は座席についてから、いくらも経たない内に眠りについた。
駅からは家に直行した。
少し休んだら、いつもの喫茶店に行こう。
そう思ったからだ。
無性に海が見たかった。
まだ、夕方になる前に涼は家を出て海に向かった。
夕陽が海を金色に染めるころ、ちょうど、あの店に着けるはずだ。
喫茶店のドアを開けると、涼の気に入っている窓際のテーブルが空いていた。
迷わずその席に座った。
今日の海は穏やかな顔をしている。
思わずバックからスケッチブックを取り出して、涼は描き始めた。
少しして、誰かの視線を感じ、涼はスケッチブックから目を離した。
隣のテーブルの女性だった。
彼女は、慌てて目を逸らしたが、諦めたらしく、涼の描いた絵を見て、
「キレイですね」
と、そう云った。
🖼
その女性を見て、涼はハッとした。
《この女性は、命を、断とうとしている》
そう思ったからだ。
涼の両親が同じ様な空気感を持っていた。
ダメだ、そんなこと、ダメだ。
だって貴女は綺麗な目をまだ持っているじゃないか。
化け物の目にはなってない。
そんな貴女が自らの手で、生きるのを辞めないでくれ。
その女性は、かなり辛いのだろう。
生きていくのを辞めようとするほどに。
でも、生きて欲しい。
化け物ですら、のうのうと、狡猾な笑みを浮かべて生きているのだ。
どうすればいい?
自分は何が出来る?
約束、そうだ、彼女と約束をしよう。
来年、またここで会おうと、そう云ってみよう。
涼は、その女性に話しをした。
《一年後に、この店で会いましょう》
そう告げて店を出た。
一年後、必ず来てください。
苦しいと、辛いと思います。だけど、一年後に僕は貴女にもう一度、会いたいんです。
🖼
そして今日が約束の日。
祈る思いで涼は店に向かって歩いていた。
喫茶店の前で、しばらく立っていた。
そしてドアを開けた。
いた……。
彼女は、一年前と同じテーブルについていた。
涼は、涙がこみ上げて、仕方がなかった。
こんな顔じゃ、彼女に会えないよ。
泣きやめ、涼!
えっと、なんて声をかけたらいい?
いきなりプロポーズをしたら変に思われるかな。
でも、付き合ってくださいなら、大丈夫かもしれない。
ただ傍に居て欲しい。
それが、一年間、想ってきた僕の気持ちです。
彼女の後ろ姿が、微かに緊張しているのが分かった。
その彼女に会いに、涼はゆっくりと歩き始めた。
(完)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?