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向日葵や桜や

公園の樹々があちこちで、芽吹いてきた。

今日は北風で寒い日だったけど、今年も春は、耳を澄ませば密かな足音で、近づいているらしい。

家路を急ぐ途中には、満開の桜を咲かせる立派な樹がある。

桜の樹……


もう20年の時が流れても、忘れることが出来ない思い出というものがある。

その頃、私の家族は別の街に住んでいた。

いつも利用していた駅のホーム。

屋根が途中までしか無い、のどかなホームだった。


屋根が無くなって、空が見えるようになった、その場所には柵を越えて、枝が何本かホームの上まで伸びている。

それは立派な桜の樹の枝だった。

みんな気にも止めない枝たち。


でも、ある時期だけは別だ。

満開になった桜の花が咲く季節。

風が吹くと花びらが、ホームを淡いピンク色に染める。

朝、まだ眠たそうな顔をして、電車を待つ人々は、空を見上げて、咲き誇る桜を見た。


それは、これからラッシュの電車に乗り込むまでの、ほんのひと時の心が穏やかになる、魔法の時間だ。

太陽が沈み、電車から降りてくる疲れたサラリーマンやOLの人々を、たわわに花を付けた桜の枝は、疲れを癒してくれた。


ある春の日

私は学校を終えて、電車からホームに降りた。

「えっ」

2、3歩で足が止まった。

心の中で声を上げた。


朝はあった。確かに咲いていた桜の花。

けれど今は、ガランとした曇り空があるだけになっていた。

私の他にも何人かの人が、この異変に気付いていた。


私は柵に向かい、地面を見た。

低い切り株が、そこにあるだけだった。

     なぜ、なぜ

    桜の樹を切った?

  たくさんの人を和ませた桜の樹

  もうすぐ、花吹雪の季節に、なぜ


しばらく私はホームに立つのが嫌だった

もう、淡いピンクの花々は、私を出迎えてはくれないのだ。

行っておいでと見送ることも、二度とない


こうして私の心の底に、悲しみと怒りで出来た硬い石ころが住み着いた。

既に住み着いている石ころと、共に。


その石ころは、小学生の時に生まれたものだ。

授業で校庭に有る物の、写生をした時に。

仕上げは、教室で描くことになった。

私は一番前の席で、花壇の向日葵の続きを描いていた。


後ろの方から男子生徒が、度々やって来て、私の絵を見ては、戻って行く。

クスクスクス……

その子と、もう一人の笑う声が聞こえて来た。

教室のドアが開いて、担任の先生が入って来た。


「みなさん、描きましたか」

その時、さっきの男子生徒が云った。

「先生、秋谷さんが僕の真似っこをしました」と。

名前を云われた私は、振り返り、その子の描いた絵を見た。

自分とそっくりの絵が描かれている。

  青空、そして向日葵の花

先生は何も云わなかった。

小学生の時、私は絵を描くのが得意だったからだろう。

それでも、私は云いたいのに云えなかった。


 わたしは真似っこなんてしてない!


その時の悔しい気持ちが、硬い石ころに

姿を変えて、心の奥底に今もある。


悔しい気持ち。

それは、その男の子にではなく

「違う!」と、云えなかった自分にだった。


中学生の私は、電車の中で隣に座っていた男の人が、紙袋を置いたまま、電車を降りてしまったことに気がついて、慌てて立ち上がったが、ドアは閉まって、渡せなかったことがある。

紙袋に目をやると、たくさんの札束が入っていた。


驚いた私は次の駅で電車を降りた。

駅の人に渡すつもりで。

すると、がたいのいい知らない男の人が

通りすがりに私から、スッと紙袋を取り上げた。

「俺が交番に持ってってやる」そう云って


      嘘だ!

  この人、自分の物にするつもりだ!


直ぐにそう感じた、感じたのに……

脚がすくみ私は何も出来なかった。

こうして、石ころはまた、身体の中に沈んで行った。

小さな石ころは、今では幾つも積り、一つの岩になって重く真っ暗な場所に有る。


「……仁美はその岩を、どうしたい?いらないものとして出してしまいたい?」

黙って訊いていた夫が、そう云った。

「持っていると苦しいから、私の中から出て行って欲しい」

夫の英人はジッと私を見ていた。そして

「よくネガティブは良くない。ポジティブに変換しなさいと云うよね。僕は、この言葉が好きじゃない」

「……」

「ネガティブって、そんなにイケナイかな」


「だって苦しいし」

夫は頷いた。

「苦しいのは分かるよ。けれど敢えてその苦しみを追い出そうとしないで、持ったままで仁美は進んで欲しい」

「どうして私がそんなこと」

「キミは詩人だから」

「え……」


「もしかしたら仁美は、人より辛かったり苦しかった経験が多いかもしれない。傷付いたと思う。けれどその経験が財産でもあると僕は思うんだ。人は……」


「どんなに明るい人間でも、悔しい。悲しい。そういったものを心に持っているものだよ。共感は、そういったものから生まれると、僕は考えているから。仁美なら、深い詩が書けると思う」


自分が、どこまでこの重い塊を抱えて行けるかは、まだ分からない。

けれど、思い出す度に苦しくなったことが、桜や向日葵や、それらが生かせるのなら、深い詩となって蘇るなら、敢えて、奥底に沈んでいる重い岩を持って歩いていきたい。そう思えた。


「仁美なら大丈夫だ。僕も支えるから」


満開の盛りに切り倒された桜の樹。

形を変えて、生きかえらせたい、必ず。


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       了




















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