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午前4時半の歌

3歳の息子は、最近、夜中4時に起きる。今朝も、「ちがう!ちがう!」と言いながら、大泣きを始めた。

もっとずっと小さかった頃も、夜中に起きることはよくあったが、泣いているといっても寝言だったので、しばらくほうっておくと泣き止んだ。でも最近の息子は、ちょっと違う様子だ。欲しいものとか、やりたいことが明確にあって、それをやらないと気が済まず、もう一度寝てくれない。

何がちがうの、と聞いてみる。「ながいの!ながいの!」と言っている。長いの、と聞いて、昨日一日を思い返してみた。そういえば、夕方に菜箸をぶんぶん振り回して遊んでいたので、これは危ないからダメ、と取り上げたら、すごく怒っていた。あれのことか。

「あの、長いおはしのこと?」と聞いても、ちがうちがう、と大泣きが止まらない。菜箸を持ってきても危ないから、このまま泣き疲れて寝てくれないかなと思って、息子のベッドわきに敷いてあるマットレスに寝転がって、しばらく目をつぶって泣き声に耐える。が、おさまる気配はない。

キッチンに行って、菜箸を取ってきた。これのこと?と聞くと、ちがう!と叫ぶ。ますますヒートアップし、マミじゃない!と怒っている。担当者を変われ、と言っているようだ。

息子をなだめるのは夫の方が得意である。隣の部屋で寝ている夫に、私じゃ無理そうだから、手伝ってくれない?と聞いてみた。明日は大事な仕事があるから…と最初は渋っていたものの、息子の大泣きがますますエスカレートしてくるのを聞いて、ふらふらとベッドから立ち上がった。

大泣きする息子に、「オーケー、オーケー、いいよ、それでいいよ」「ダディはここにいるよ」と、しばらくそんな言葉を続けている。夫がそうやって声をかけると、おさまる時もある。だんだん落ち着いてきたら、夫はマットレスに横たわり、胸の上に息子を乗せる。そのまま胸の上で眠り始めたら、深く寝入った頃に息子をベッドに戻す。それで7時ごろまで寝てくれれば、まあいいパターン。

きょうは、どうもそんなふうにはいかない様子だった。「じゃあリビングに行こうか」と、夫は息子を抱っこして連れ出した。

身長が2メートルある夫に抱っこされると、安定感があるからか息子は安心するようだ。そのままリビングのソファで寝そべった夫の胸にすっぽりおさまる感じで、丸くなっている。泣き声がだんだん落ち着いてきた。「ながいの」のことは、もう忘れたようだ。

窓から見えるのは、街灯の薄明かりだけ。

息子の背中をさすりながら、夫が歌い始めた。

「僕は君が大好き
君も僕が大好き
僕たちはマミが大好き
マミも僕たちが大好き〜♪」

夫がオペラのアリアにのせて歌う自作の歌は、ただそれだけの歌詞を繰り返すだけなんだけれど、3歳の息子は生まれた時からずっと聞いている。7歳になった娘が赤ちゃんだった頃から歌っている、夫の自作ソングのひとつ。

「こういう夜が、もう何回あったかなあ」と、夫は生あくびをしながら、ソファに並んで座る私に話しかけた。

「あったかいこの子を抱っこして、静まり返った夜中にソファに一緒にいて。この子は父親を完全に信頼して、腕の中で幸せそうにしてくれて。ほんと最高だと思わない?」

時間は午前4時半。このシチュエーションで、夫は「最高」っていう言葉を使う人だ。私もつられて生あくびをしながら聞いている。

午前4時に起こされて、私が考えていたのは、この後どういう動きをすれば、息子を再び怒らせずにベッドに戻して自分も眠れるか、そんなことばかりだった。明日は、あれとこれの仕事をやらなきゃいけない。朝まで少しでも眠りたい。

息子の夜泣きはいつまで続くんだろう、とも考えていた。数日前は「すべりだい!」と泣き叫びながら午前4時すぎに起き出し、公園に行くと言って聞かず、玄関の前で泣きじゃくりながら靴を履き始めた。夢の途中なんだろうけど、色々言って止めても気が済まないので、玄関までついていき、ドアを開けて「行ってもいいけど、外はめちゃめちゃ寒いし、暗いよ?どうする?」と言ったら、ちょっとだけ外に出て、冷たい風に触れたら気を取り直してベッドに戻った。

こういうことがあった翌朝は、ものすごく疲れて頭が回らない。40過ぎて出産した私には、そしてまがりなりにも物を書くのにシャキッとしたアタマが必要な私には、けっこうしんどい状況である。どれくらい続くんだろう、どうやったら朝まで寝てくれるようになるだろうか…と考える時の私の頭は、完全に「解決モード」になっている。

解決モードの私は、解決すべき問題にフォーカスして、育児本を読んだりネットをばりばりと検索したりする。思えば、上の子が新生児の時からずっとそうだった。なにせ、私はしんどいのである。このしんどさを、何かの解決策を見つけ出すことで、一気に解消したいのである。なので、本を読んだら要点を書き出して夫に読むように言ったり、いろんなことを試してきた。うまくいったものもあるけど、うまくいかなかったものも多かった。

しかし、夫の態度は私とはまるで違う。私が問題、ととらえていることを、どうも問題と見ていない様子である。彼が言うのはいつも「そういうフェーズだから」。そのフェーズが終われば、自然に夜に起きることもなくなる、それを待つだけ。

私は真面目すぎるんだろうか?これは日本人だからなのか?デンマーク人の夫と子育てしてきて、私は何度もそんなことを考えた。

会社員の頃、私は、自分は不真面目な部類に入ると思っていた。先輩が残って急ぎの仕事していても、私はプライベートな予定を優先してさっさと帰った。「ほら、井上さんはさ、ガイジンだから」と後輩がささやくのも聞こえていた。ガイジン、というのは、勝手に留学したりしてちょっとヘンな奴という意味で、私は19歳まで日本を出たことがない純ジャパ(って死語?)であったのだが、”ガイジン枠”として会社員の模範的振る舞いを諦めてもらえて居心地がよかったので、好んでそこにおさまっていた。

ところがデンマークで子育てを始めて、寝不足のゾンビ状態が続くと、私は子供が夜通し寝るようにしたいと、文字通り血眼になった。人間は本当に苦しい時に、本性が出るものである。私はてきめんに不機嫌になり、いつもカリカリして夫に当たっていた。夫の方は、おしなべて上機嫌だった。そして、保育園に送り出した10分後には「子どもたちが恋しい」と言ったりして、まじか、と私は驚愕していた。

夫のことを考えるとき、これは我が夫特有のことなのか、デンマーク人とはこんな感じなのか、それとも日本人でもこういう人はいるのか、よくわからないし、まあ別にどっちでもいいと思っている。二人とも解決モードの人だったら、互いに疲れ果てていた可能性はあるから、夫がそういう人じゃなかったことは、きっと幸運なことだったんだろう。

例の歌を歌いながら、夫は息子を連れて寝室に戻った。落ち着きを取り戻した息子を、しばらく自分の胸の上に置いたあと、ベッドに移して自分の寝室に戻ってきた。

そして私たちは朝まで、あと少しだけ眠った。

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