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【エッセイ】『ピカピカまっさいチュウ』を聴いたところ、腰が砕けて立てなくなりました。


 天気予報によれば、本日も35度を越える猛暑日になるという。

 暑さから跳ねるように目覚めた私は、そんなテレビのBGMを聴きながら洗面所へと向かった。
 汗に塗れた自分の顔をいたわるよう水でひたす。生ぬるい水温が外気の惨たらしさを伝えるようだ。
 タオルで拭き取り、改めて自分の顔を見つめていると、目尻の皺や、少し疲れの見える目の色に、重ねた年齢を思う。

 もう若いとは言われなくなってしまった。
 二十代の頃にはまだ許されていた可愛げが、この年になると通じない。
 おじさんのぶりっ子ほど醜いものはないのだ。
 そうなれば、言葉は多くなるか少なくなるかの二択となる。
 私は、物を言わない年の重ね方を選んでしまった。

 そんな気が滅入るようなことを考えながら、私は身支度を整え、外へ出かける覚悟を決める。
「えー、今日は、そんなことしたくない。」「めんどくさい。」三十三歳の駄々は、何かの社会問題や精神的なものの名前などに括られてしまう。
 本当は、今すぐにでもゲームの電源を入れて寝転びたい気持ちを殺して、外へ出る。
 扉の向こうでは、夏が元気よく主張をしていた。

 浴びるような蝉時雨。

 静かなおじさんは『できる』何かがなければ、世間からは「しょぼくれた」「役に立たない」「何を考えているのかわからない」などといったレッテルを貼られてしまう。
 私は、ただ歳を重ねただけの何もないおじさんでしかない。
 父は、もう還暦を迎えてしまった。
 母は来年。
 両親が三十三歳の時には、私がすでに生まれていた。
 三十三歳で自分は、この夏を持て余すことくらいしか出来ない。

 なんて道すがら。
 夏休みだろうか。
 自転車でどこかへ向かう子どもたちを見かけた。
 夏を隅の隅まで楽しむような彼ら。
 暑さに気が触れそうな三十三歳。
 残酷な対比だなあ、と苦笑いしながら。

 網目の荒いリュックサックから覗くスイッチの派手な色味を片目に、指紋に塗れた画面で覗くニンテンドーダイレクト。
 マリオRPGがリメイクするらしい。
 随分と綺麗なグラフィックが家庭用ゲームの主流になって久しい令和に。
 きっと私のような平成の亡霊がたくさんいるのだろうな、と思い、彼らの走る後輪を見送った。

 あの子達に私は念を送る。
 こんなおじさんになってはいけないよ。
 夏が来るたびに感傷をなぞることでしか生きている実感が湧かなくなってしまったようなおじさんには。

 あの夏。
 
 朝の子ども劇場は毎年、幽遊白書。
 別に見たくもないけど、仕方なく眺めるワイドショー。
 飽きれば、ビデオが擦り切れるまで見ていた映画のクレヨンしんちゃん。
 ありがたみを感じない、そうめんを食べながら、出かける夏の世界。
 父と獲りにいったカブトムシ。
 スイカの種を誤飲したりしながら。
 トラウマになるような、夏の心霊番組。
 学校のプール、塩素の香り。
 宿題は片手間で、ゲームばっかりプレイしながら。
 ゲームボーイカラーを大切に握りしめて、ポケモンのフシギバナだけで殿堂入りを目指す。

 そんな、夏。

 どこまでも広がる入道雲を眺めながら、私はイヤフォンを耳につけてシャッフル機能で別の世界へ飛ぶ。
 あまりに感傷が鋭く、深いとこにまで刺さってしまった。
 少し忘れよう、と。

 なのに。
 なのに、である。
 神様は意地悪だ。
 よりにもよって、そんな日に、

まるで えいがの しゅやくのよう
なつのきみたち ピカピカ まぶしくて

 あ。(腰の砕けちる音)

ポケモンキッズ&オーキド博士(石塚運昇)(+ピカチュウ(大谷育江))
『ピカピカまっさいチュウ』
を流さなくても良いではないか。

あまりの仕打ちに私は思わず、膝から崩れ落ちた。 

【解説】


 平成初期生まれの我々からすれば、この『ピカピカまっさいチュウ』は呪いのような歌だ。夏になるたびに、我々を苦しめる、悪魔のような存在。 
 いや、こういう風にいうと「おどろおどろしい歌なのか」と感じてしまうが、歌そのものは爽やかなのだ。 
 それが本当に、たちが悪い。

 この曲は夏休み恒例だった、劇場版ポケットモンスターの第一作『ミュウツーの逆襲』と同時上映された、
『ピカチュウの夏休み』の主題歌。
 それ故に、我々の世代で劇場に足を運んだ人間には刷り込みのように脳のどこかにインプットされている曲。
(ちなみに私が小学生の頃、第一次ポケモンブームが勃発した。今ももちろん流行っているのだが、当時の爆発力は恐ろしかった。)

 どちらかといえば、この『ピカチュウの夏休み』は、骨太な作品の『ミュウツーの逆襲』と比べれば箸休め的な存在である。
 いつものポケモンたちによる一夏の思い出を描いている、なんともまあ可愛らしい作品。(だからこそ『ミュウツーの逆襲』に出てくるピカチュウ同士のビンタに心を抉られるわけだが)

 そして、そんな作品のラストで流れてくるのが、この『ピカピカまっさいチュウ』である。ふざけたタイトルだ。
 だが、そんな曲が我々の胸を締め付けるのには理由がある。

(1) 子どもたちとオーキド博士による歌声のハーモニー

 まず、この歌にセンチメンタルが生まれているのは、子どもたちが歌っているところにある。本当の少年少女が等身大の歌声で一生懸命に熱唱しているのだ。

まるで えいがの しゅやくのよう
なつのきみたち ピカピカ まぶしくて

 これを子どもに歌わせるという最高かつ悪魔のような処断。
 そのことで曲が、ポカリスエットのように身体中へ染み渡る。
 大人が歌ってもここまでの浸透性は出ないだろう。

 合唱曲で「ビリーブ」とか好きな人は好みだと思う。これが等身大の夏休みの雰囲気を生み出しているといっても良い。

 だがしかし、この曲の上手いところは、子どもだけで終わらない。
 彼らをを眺める「オーキド博士」の存在、それが山椒のように、当曲のスパイスとなっているのだ。
 
 オーキド博士の声といえば、我々世代は、まず声が思い浮かぶ。認知度だけでいえば、ポケモンから今は離れているような方でも記憶しているに違いない。
 我々より下の世代でもジョジョの奇妙な冒険第二部のジョセフ・ジョースター、ワンピースの黄猿といえば、声の輪郭が鮮明に思い出されることと思う。

 慣れ親しんだ、祖父のような歌声。
 オーキド博士のボイスが乗っかってくることで生まれるのは、歌声による大人と子どもの対比だ。

 子どもが純粋に歌っているだけならその視点しか存在しないが、そこにオーキド博士という大人が介入することで、子どもたちの夏を俯瞰で見る立ち位置が生まれる。 
 さらに、その俯瞰は耳にする我々にも同じ視点として現れる。
 無邪気な子どもの声と、懐かしむ大人の声が、今の自分の心情と重なった時、脅威のセンチメンタルを生み出す。

(2)誰しもが経験する夏休みのあるある

 私は、曲の歌詞を眺めることが好きなのだが、優れた歌詞には共感性の高い「あるある」が入っていることが、多い。
 
 この『ピカピカまっさいチュウ』には、あの頃を想起させるような夏休みの「あるある」が、ふんだんに使われている。 

サンタクロース こないけど
おとしだま もらえっこないけれど
おひなさま おしいれだけど
こいのぼり およいでないけれど

 まず、子どもたちが知っているであろう行事の羅列。
 そして「お年玉をもらえない」「おひなさまが押し入れ」「こいのぼり泳いでいない」と目線を子どもたちに落とし込んだ、あるあるが含まれている。

 我々の腰を砕く曲がキングギドラの「公開処刑」のようなピンポイントの歌詞ではないのだ。

でも!!
なつやすみは ちきゅうで いちばんの イベントなんだ
たいようが こどもたちに ピカピカの まほうをかけるのさ

 一見すると、大層な言葉づかいと思うかもしれないが、夏休みは4週間以上もある大型連休。子どもからすれば地球でいちばんのイベントに間違いない。
 
 さらに、小学生に降り注がれる「夏休み」という魔法。
 不思議と体験した全員を主役に変えてしまう特別な日々を言葉に落とし込む業。
 子ども向けの柔らかい言葉の中には確実な言葉の巧みさが光っている。

 そして、バトンタッチするように現れる、オーキド博士パートの歌詞。
 この歌の恐ろしいのは、それまで、子ども向けのあるあるを歌っていたのに、オーキドパートになった途端、大人の心情に寄り添ったリリックを歌い出すところだ。
 この交代が上手いのだ。本当にずるい。

 きみが いつかひらく
 こころの アルバムに
 ことしのなつの かがやきを
 セーブしておこう

 もちろん、自分たちが当事者の子どもであるうちは、ピンとこない。
 しかし、この歌詞は時限爆弾。
 ある世代になった途端、脳内で爆発をおこし、我々の腰を確実に砕いてくる。

 こころのアルバムが開かれるのは、いつか。
 大人になってからである。
 心の中にセーブしておいた「ことしのなつのかがやき」を見たくなった、もしくは見ざるを得なくなったタイミングは、過去を懐かしむ時、過去を愛しむ時と相場は決まっている。
 
 それは、「あの頃は良かったな」なんて感傷として発現した時だろうし、「あの頃は良かった」なんて過去との惜別で想起されている時間だろう。
 
 こころのアルバムの中で、この歌が発露された瞬間、この歌詞が大人の我々にあるあるとなって牙を向く。まるで罠のような。そんな「あるある」を忍ばせているのである。
 

(3)ふとした時に思い出させるフレーズの妙

 優れた歌詞の条件は他にもある。それは「インパクトのあるフレーズ」だ。
 曲を聴いた人の耳に、どこか引っ掛かる言葉回し。
 このピカピカまっさいチュウは、そんな言葉の宝庫である。

 きみが いつかひらく
 こころの アルバムに
 ことしのなつの かがやきを
 セーブしておこう

 例えば先ほど紹介した、このリリック。
 思い出を残すことを「セーブする」という表現で描いている。
 もちろん、これは原作「ポケットモンスター」がゲームソフトであるところから来ている。
 言い回しを変えることで、さまざまな表現をできるのが日本語の面白さ。

でも!!
なつやすみは ちきゅうで いちばんの イベントなんだ
たいようが こどもたちに ピカピカの まほうをかけるのさ

 例えばこちらも先ほど紹介したリリック。
 『いちばんのイベント』と言い切ってしまう思い切りの良さ。
 この歌の歌詞の中では、夏休みに対する見解は、これが正解だし、これが解答になるのだ。異論はないですね、と言い切ってしまうような、そんな勢いがある。

しゅくだいいっぱい あるけれど
むしさされ ポリポリかゆいけど
どろんこあそび おこられるけど
ときどきおなかを こわすけれど

 このように並列して書かれた歌詞は一番でも登場してきたが、二番では『ときどきおなかを こわすけれど』という外しが登場する。
 一番のあるあるは「サンタクロース こないけど」「おとしだま もらえっこないけれど」「おひなさま おしいれだけど」「こいのぼり およいでないけれど」と同列のあるあるが並んでいる。
 しかし、二番は「しゅくだいいっぱい あるけれど」「むしさされ ポリポリかゆいけど」「どろんこあそび おこられるけど」と進んでいくほどあるあるの精度が緩くなっていく。そして、『ときどきおなかを こわすけれど』であるあるから脱却して、インパクトのあるフレーズの方へフェードしていく様子が面白く感じられる。

なつやすみを はつめいした むかしのだれかさん
あなたに“ポケモンノーベルしょう”あげたいんだ
 

 そして、ここ。
 この部分のリリック。
 これが、本当に素晴らしい。
 
 『ポケモンノーベルしょう』である。ポケモンノーベル賞。聴いたことがない。なんだ、ポケモンノーベル賞。ポケモンは聴いたことがある。ノーベル賞も聴いたことがある。だが、ポケモンノーベル賞?
 ポケモンというゲームの世界に、ノーベル賞という現実世界のワード。嘘なのだ。嘘の言葉が、ここに来て堂々と出てきたのだ。だが、この組み合わせが、なかなかに強烈なインパクトを残す。

 インパクトというのは「なんだそれは」と思ってしまうようなものの方が心に残りやすい。それでいうと、この『ポケモンノーベル賞』という謎の賞の存在は如何だろうか。めちゃくちゃ馬鹿馬鹿しくないだろうか。ないのである、そんな賞。
 
 そして耳に残ってしまうワードは、子どもが歌うことで、まるで彼らが突発的に提案したようなフレーズに聞こえないだろうか。勿論このフレーズを米津玄師が歌ったって残らない。

 子どもたちの声、そして歌詞の内容、後々に控えるオーキド博士(一応なんらかの学位は持っているであろう存在)が揃うことで、この「ポケモンノーベルしょう」をあげることに痛烈なインパクトが残るのだ。あまりの「ないない」に馬鹿馬鹿しい言葉の掛け合わせ。

 だが、小学生の彼ら彼女らの中では現実、このポケモンノーベル賞はリアルなのである。 

(4)最後に

(1)子どもたちとオーキド博士による歌声のハーモニー
(2)誰しもが経験する夏休みのあるある
(3)ふとした時に思い出させるフレーズの妙

 以上の要素が揃い、『ピカピカまっさいチュウ』は我々平成初期生まれの平成の亡霊にとってみればザラキと称えるより容易い即死魔法として君臨し続ける。

 長々と書いたが、つまり「思い出として想起される曲の中に、さらに思い出を想起させる装置が多数仕組まれている」のだ。

 思い出した時点で負け確定。
 そのような最高で最悪の曲が、この「ピカピカまっさいチュウ」なのである。


 砕けた腰を立て直しながら、私は思考の旅から再び現実に戻ってくる。

 相変わらず蝉は鳴き続けている。
 汗の玉は宝石のように日差しに反射し、輝きを放った。
 
  静かなおじさんは『できる』何かがなければ、世間からは「しょぼくれた」「役に立たない」「何を考えているのかわからない」などといったレッテルを貼られてしまう。私は、ただ歳を重ねただけの何もないおじさんでしかない。父は、もう還暦を迎えてしまった。母は来年。両親が三十三歳の時には、私がすでに生まれていた。三十三歳で自分は、この夏を持て余すことくらいしか出来ない。

 しかし、そんな私に、リリックの一フレーズが浮かび上がった。

でも!!
なつやすみは ちきゅうで いちばんの イベントなんだ
たいようが こどもたちに ピカピカの まほうをかけるのさ

 そうか。
 私は悟った。
 仮に、もしも夏休みの主役が、子どもたちであっても、その夏休みの脇役くらいには我々大人だってなれるのではないか、と。

きみが いつかであう
みらいの こどもたちに
ことしのなつの ものがたり
きかせてあげよう

 オーキド博士ほど偉大なキャラクターにはなれないかもしれないが、それでも、この夏の小さな脇役になることは、できるかもしれない。

 あの頃、僕たちが主役だった夏休み。
 朝の子ども劇場は毎年、幽遊白書。別に見たくもないけど、仕方なく眺めるワイドショー。飽きれば、ビデオが擦り切れるまで見ていた映画のクレヨンしんちゃん。ありがたみを感じない、そうめんを食べながら、出かける夏の世界。父と獲りにいったカブトムシ。スイカの種を誤飲したりしながら。トラウマになるような、夏の心霊番組。学校のプール、塩素の香り。宿題は片手間で、ゲームばっかりプレイしながら。ゲームボーイカラーを大切に握りしめて、ポケモンのフシギバナだけで殿堂入りを目指す。

 そんな感傷を、次の主役に託していけば。
 視界が開けた瞬間、私の夏に風が吹き抜けた。
 
 あの夏、私は、確かに夏休みの主役の一人だった。
 こんなおじさんも、そんな主役の一人だった、と。

 そんな事実にポケモンノーベル賞を授与しながら、私は、道すがらの小学生たちの物語の脇役に徹する。

 道ゆく静かなおじさんたちは心のどこかで少年少女へ『ピカピカまほう』を唱えてるのかもしれない。


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