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進学する小学校を決めたころ

こんにちは(^^

今日は、前回の続きで、発達障害のある長男 T が、小学校へ進学する間際のことを思い出しながら綴ります。2006~7年の内容です。

T の場合、年長の春から手続きを進めていた、市教育委員会の出先機関 「教育支援委員会」(私の居住地では「学びの支援委員会」と言いました)における「就学相談」で、特別支援学級等への就学が適当である と認められ、夫婦で同意しています。

年末ごろ、居住校区の小学校名で「入学通知書」が届いていました。

年が明けて2月。私は、国立大学付属 小学校  特別支援学級へ入学を決めよう、と、夫に伝えています。合格したことと、教師陣の創意工夫のある対応で、T を安心して任せられる...と感じていたから。遠いのは、いざとなったら引っ越せばどうか...と考え、夫に訴えていました。

夫は、全く異なった視点から検討していたようです。当時は、夫婦の話し合い(言語化)が今ほど上手くなくて...💦 私がどんなに頼んでも、夫は頑なで、一歩も譲りませんでした。

その当時から、夫が一貫して、何度も言葉にしていたのは「 T の可能性を広げたい」です。付属 小学校の支援学級 では、やはり 支援学級の児童のみでの活動が大半のカリキュラムです。

幼稚園で T の成長を目の当たりにした夫は、健常児と共に日常生活を過ごすことの価値を、強く感じていたようです。T には、どこまで可能なのか...ギリギリまで通常の環境で育ててみたいと、この頃の夫は、改めて私に伝えてきていました。

そして、同じ幼稚園の卒業生で、若干ハイソな地域の △小学校 支援学級 へ通っている人の話を、再び確認。夫が中心となり、急きょ △小学校 特別支援学級へ連絡し、夫婦で相談に伺っています。

対応して下さったのは、当時、支援学級を新規開設して2~3年目のベテラン W先生。率直に、わが家の現在の状況を打ち明けています。小学校は放課後で、日常の様子を見学。そして W 先生の指導方針などを伺いました。

W 先生、前任校は 上記 付属小学校 特別支援学級 でした。その現場では叶わなかった、共生スタイルの教育のカタチを、この小学校で模索している...と、伺い知ります。

当時、多くの小学校では「交流」というと「HR、給食、体育、図工、音楽」など、限られた単元に、交流学級へ行く...というスタイルが一般的でした。

ところが W 先生は逆の発想で、所属学級(交流学級)で日常的に過ごすカタチを教職員に指導しながら構築されていました。支援学級に在籍の児童を、一か所に集めないのです。

本人が疲れたり困難を感じる時には、いつでも支援学級の教室に来て、複式学級の要領で、学びを補完していく...という流動的なスタイルを、手探りで実現されていました。

夫は、この見学で決めたようです。私も目から鱗でした。ただ...私は、心が追い付きませんでした。この後、私は何度も泣いてます。心配と不安で。

沢山の方に相談し、これで本当に良いのか...確認しては、背中を押していただき、踏ん切りをつけています。ことばの教室 M 先生には、長い相談の手紙を書き、丁寧なお返事をいただいていました。

親のみグループで一緒の、元教員ママ友からは「本当は我が子を通わせたくて、見学した学校なの。遠くて諦めたけれど...」と打ち明けられて「大丈夫、良い選択だと思うよ」と励まされています。

幼稚園の先生方には、夫が相談していたのか、個別面談を設けていただきました。亡くなった園長先生に代わり、副園長先生、障がい児クラス担任で最も長く T の育ちを見ている先生、今の担任...と揃って時間をいただきました。

私の泣き言(汗)に付き合い、視点の変化を促していただいています(すみませんでした...)。

校区の指定変更届など、手続き関係の書類は、夫が中心になり、多くの人の助けを借りて短期間で揃え、無事、提出にこぎつけています。

急な変化に、動揺していて記憶も曖昧、心が追い付かなかった春。

それでも、担任は結婚✨の報告、私立小へ進学する親子の涙、園長が亡くなったことで園児募集は終了し、在園児の卒業で閉園とのお知らせがあり...それぞれの別れ道を感じた、とても印象的な春でした。

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