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『はじめてのスピノザ』

スピノザという哲学者のことを知ったのは10年くらい前でしょうか、『バレンボイム音楽論』(アルテスパブリッシング)を読んだときです。ダニエル・バレンボイムの愛読書がスピノザの『エチカ』であり、本が擦り切れるほど何度も読んだということに興味をそそられました。そんなに繰り返し読むとは、よほどいいことが書いてあるのだろうと。

それでさっそく図書館で探すと『エチカ』があったので読んでみようと試みました。ところが、難しくて意味がわからない(汗)。こんな本もあるのかと当惑しました。そして、やはりバレンボイムはとても頭のいい人だから、私には難しいのだとあきらめました。

そして、何か月か前たまたまYouTubeで、スピノザについて語られている動画を見つけ観ました。そのYouTuberさんも、『エチカ』がとても難しくてあきらめた、そしてその代わりに『スピノザ「エチカ」 (NHK100分 de 名著)』(國分功一郎)を読まれたということです。動画はその本についての解説でした。それが、面白かったので、私も読んでみようと思いました。

けれど本屋さんで 『スピノザ「エチカ」 (NHK100分 de 名著)』 を探すとその時は見つからず、この本に1章を加えて再構成された『はじめてのスピノザ』(國分功一郎/講談社現代新書)があったので、これを買いました。

ざっと以下のような内容です。

第1章 組み合わせとしての善悪
第2章 コナトゥスと本質
第3章 自由へのエチカ
第4章 真理の獲得と主体の変容
第5章 神の存在証明と精錬の道

読む前はこれだけ見てもなんのこっちゃという感じでしたが、読んでみれば書いてあることは大体理解できたと思います(多分)。ただ、これは哲学の話ですから、目的は書いてあることをおおまかに理解するという次元ではなく、自分が思考する際に照らし合わせ、確認することができるようになること(理想ですが)。そのためには、もっと理解を深めたい。『エチカ』に再び挑戦する日がくるかわかりませんが、せめてこの國分さんの『はじめてのスピノザ』に書いてあることを理解し、少しでも活用できるようになれればなあと思ったりしています。

本の中から少し、これは特に気になったという部分をいくつか引用します。

「エチカ」は倫理学という意味です(4p)
自然の中のある個体が不完全と言われるのは、単に人間が自分のもつ一般的観念、つまり「この個体はこうあるべきだ」という偏見と比較しているから(p45)
道徳は既存の超越的な価値を個々人に強制する。そこでは個々人の差は問題になりません。それに対しスピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えますから、個々人の差を考慮するわけです。たとえば、この人にとって善いものはあの人にとっては善くないかもしれない。(中略)そのように個別具体的に考えることをスピノザの倫理は求めます(p51)
私たちの思考のOSは近代科学的です。ですから、そのOSはスピノザ哲学をうまく走らせることはできないかもしれません(p149)
近代科学はとても大切です。ただ、それが扱える範囲はとても限られています(150)
哲学を勉強する際に一番重要なのは、哲学者が作り出した概念を体得し、それをうまく使いこなせるようになることです(180)

他にも気になる部分はありますが、また時間をおいて読めば新たな発見があったり、理解が深まったりするかもしれません。

とりあえず、上にあげた部分を読んで私が思ったことを少し書きます。

まず「エチカ」について。
エチカは倫理学という意味。私が今まさに考えたいことの一つが「倫理」についてです。なので、ちょうどよかったと思っています。道徳が価値観の押し付けで、それに対して倫理というのは一人一人個別の事情を配慮するという考え方は大事だと思います。

偏見について。
固定観念(この本では一般的観念と書かれています)というのは多かれ少なかれ誰もが持っていて、それに照らし合わせた偏見というのは常にあると思っています。

それぞれの個体はただ一つの個体として存在しているにすぎません(p45)
スピノザは、すべての個体はそれぞれに完全なのだと言います(p45)
(心身の)「障害」というのも、マジョリティの視点から形成された一般的観念に基づいて判断されているにすぎません(p45)

このことは、何か、こうあるべきという姿、スタイルというのは偏見が生み出した幻想のようなもので、実在するのはただ私、あなた、あの人という違う性質を持った人々。そういう意味でそれぞれはどれが正しい、間違っているというのではなく、どれも自分を基準に見れば完結している(完全なのだ)。そういう意味だと理解しました。そう思います。
「マジョリティの視点から形成された一般的観念」に対して常に、なるべくそれに偏見が入り込んでいないかという視点で考えてみる必要があると思います。なぜかと言えば、マジョリティの一般的観念というのは強いからです。それだけがまかり通れば、マイノリティの考えや思いは排除されてしまいかねません。

近代科学について。
私たちの思考のOSが近代科学的というのは、なかなか面白い表現だと思いました。國分さんの意図された意味と同じかわかりませんが、私も常々思っていることがあります。それは、現代人の多くは感性・直観・想像力のようなものより、言葉・データ・エビデンスといったものをより信頼し、そうでないものを軽く見る傾向があるということです。スピノザに対してより興味をいだいたのは、そういった近代科学的感覚ではスピノザの哲学をうまく使えないかもしれないらしいからです。
ざっくりした言い方をすれば、近代科学的な発想というのはより左脳的で、右脳的な部分が担っていることが抜け落ちがちではないかと感じています(とりあえずなじみのある右脳、左脳という表現を使います)。左脳重視では、ものの考え方が偏ってしまうという心配があります。やはり右脳的、左脳的な分野がバランスよく働くのがいいのだと思います。

音楽家であるバレンボイムがスピノザに魅せられたことに、改めて興味を持ちました。『バレンボイム音楽論』はだいぶ前に図書館で借りて読んだので、『エチカ』に対する思い入れなども含め読み直してみようと、今度は買おうと思いましたが、なんと品切れでどこにもありません。再販は未定ということです。アマゾンでは中古が定価よりずっと高くなっているし、古本屋で偶然見つかればラッキーですが(見つけたら驚く)どうしようかな。

おまけ
「エチカ」ethicaはラテン語。英語ではethics。語源はギリシア語のethos(エートス)。昔独身時代、ダイヤモンドを扱っている事業所で働いていたことがあるのですが、ダイヤを使ったアクセサリーのデザインを少しさせてもらっていました。そのブランド名を「ethos」と名付けました。今回、この本を読んで『エチカ』の語源が「ethos」だと知り、ちょっと不思議な縁を感じました。

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