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二つの表層

"知覚をどう捉えるか"ということを考察していくことにあたり、大学院のゼミの方に紹介していただいた『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』谷川渥 著を読んでみた。

この本では、メタファーとしての「鏡」と「皮膚」、芸術における「鏡」と「皮膚」の意味する、二つの【表層】について徹底的に論じられている。


鏡をテーマとする前半では、眼と鏡と首という形象として〈オルフェウスの眼〉〈ナルキッソスの鏡〉〈メドゥーサの首〉が、皮膚をテーマにする後半では、皮膚と布とヴェールという形象として〈アポロンが剥ぎとったマルシュアスの皮〉〈キリストの顔をうつしとった聖ベロニカの布〉〈女性が纏うヴェール〉が取り上げられ、ギリシアの遺跡からシュルレアリスム絵画、イブ・クラインやジャスパー・ジョーンズ等の現代絵画、さらには映画の映像までを含めたイメージが登場する。

目次にも巧妙な仕掛けが。中央に〈間奏 可視性の謎 - ベラスケス「侍女たちをめぐって」〉という文章があり、右側に「鏡」をめぐる3つの文章、左側に「皮膚」をめぐる3つ文章、と、この本の構成自体が鏡面のようなシンメトリーを形成している。所収されている絵画も豊富で、それらの絵画がより文章への理解を深めさせてくれた。


《鏡》

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不吉な光学装置
その向こう側の世界が存在する=境界
未来が映る予言のメディア
自己愛のメディア

私たちは自分自身の身体の全体像を、鏡という自分以外のものに映すことによってしか見ることができない。鏡を見たとき、私たちはそこに実在しないものを見ていて、常に実物とイメージのズレを生きているとも言える。
どんなに「見る」ことを欲し、執心し、美と一体になる恍惚感を渇望しても、結局は、自分という現実から逃れ得ない。
「見る」とは、鏡を覗き込んでいることなのかもしれない・・・

《可視性の謎》

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間奏のベラスケス「侍女たち(ラス・メニーナス)」では、ミシェル・フーコーによる分析との対比によって、この絵画の「仕組み」が浮かび上がってくる。ここでの「視点」の問題が、前半の「鏡」と後半の「皮膚」を結びつける点回転としての重要な役割として機能している。〈主体の不在を告知する鏡〉、〈誰が何を見ているのか〉、〈意味の問題を表象の問題に結びつける〉など、あらゆる方向から解釈を試み、可視性の謎を紐解くことを試みている。


《皮膚》

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後半は「皮膚論的想像力」の痕跡をたどっているが、ぶっとんでいて、かなり面白かった。
著者がドゥルーズから展開して思考する「内部と外部の根源一体性」は、果たして「皮膚」は「覆うもの」であるのか、といった刺激的な問いを誘発する。皮膚と襞、皮剥ぎから聖骸布、現代思想とかなり肉厚な内容だが、絵の情報に浸っているだけでもかなり楽しめた。

薄い皮膚が蝕まれることにより、自分というものが蝕まれてしまうこともある。精神の病が皮膚の崩壊となって現れるかもしれない。皮膚の崩壊は関係性の崩壊を招くかもしれない。

いまこそ、決然たる意志をもって、表面に、皮膚に敢然として踏みとどまらなければならない。認識論的隠喩としての皮膚は、あらゆる意味の振幅をはらんでいる。その振幅をみずから引き受けつつ、皮膚を意志すること。もう一度繰り返すなら、そこにおいてはじめて生は美的現象として、われわれの耐えることのできるものになるはずである。鏡と皮膚という二つの表層をめぐるわれわれのミュトロギアも、その可能性を探る一つの試みにほかならなかった。

どうやら私たちの身体には、曖昧な像と薄い膜という、二つの表層があるようだ。
自分自身を見ること、他者を見ること、この儚い表層を捉えること。
「眼差し」とは、触れることであり、溶け込むことなのかもしれない。

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