見出し画像

ある日、実家に電話をかけてみた

実家に電話する。と言っても用事がある時しか電話をしない。
「荷物が届いた」「今度近くに行くから寄るわ」など用件があるとき。

そしてそのほとんどは母と話すことで事足りる。だから直接母の携帯にかけることも多くなった。

そうなると、圧倒的に減ることがある。
父との会話だ。家の電話ならたまに電話口に出る父とよもやま話もできるが、携帯ならまず話をすることはない。

先日、夕食が終わって、子どもも旦那も食卓から離れ、一人、テーブルに広がる残飯や無造作に置かれた食器やらを見ていて、ふと思った。
そういえば、父と話していないな、と。
いつ以来だろう、と数えてみたら、半年も時間が経っていた。

父はどうしているのだろう、と思った。きっと元気にしているのだろう。
そう母からも聞いている。特に変わった様子はなさそうだ。わざわざ話をすることも思い浮かばない。向こうだってそうだろう。

でも、父に、元気?って声をかけてもいいんじゃないか、用がなくっても話をしていいんじゃないか、父と話したい。そう思ったら自然と実家の電話番号を押していた。

実家に電話をかけたら・・・

・・・母が出た。

母:「あら、どうしたの?」
一瞬、このまま雑談して終わろうかと思った。いつものように。
いつもと違うことをするのは、少し勇気がいる。でも、今日は父と話そう。

私:「お父さんいる?」「代わってくれる?」

しばらくして父が電話口に出てきた。かと言って特に話すことを決めてもない。
挨拶がわりに「どう、元気?」と聞いてみた。
すると父が「いや、あまり元気じゃない」という。

なんと二日前に父が可愛がっていた飼い猫が亡くなったとのこと。
その猫は、父にとても懐いていて、というか父にしか懐かなかった。
だから猫の死が父にもたらすインパクトはどれほどかと、おもんばかる。

短い時間だったが、父が語る猫の思い出話を聞いた。聞きながら私は「電話をしてよかった」と心から思った。絶妙のタイミングだった。
これが後日母から聞いて電話をしたのでは、また違うものになっていた。サプライズだったからこそ、父の慰めに少しは貢献できたのではと思う。

「父と話したい」と、素直に自分の感性に従って良かったと思ったのである。

コミュニケーションは理性と感性で成り立っている。話したい(つながりたい)という感覚的なものと、きちんと伝えるという理性的な部分と。


リモートワークが進み、メールやSNSが活発になればなるほど、言葉を選んだり、言い直したりなど理性で考える時間が増えた。気づけば、相手とコミュニケーションを取ろうとするとまず働くのは理性であり、どう伝えよう、何を言おうと理性中心で考えることが圧倒的に多くなっているように思う。

でも、実際のコミュニケーションはまず感性ありきなんだ。

話したい、繋がりたい、言いたい、聞きたい。そんな感覚があって、対話が始まって、その後、どう言おうかなと言葉が出てくる。

理性中心のコミュニケーションをしていると、感性を出すことに臆病になる。
そしてコミュニケーションが面倒くさくなるんだ。

自分の感性を信じてもっと人とコミュニケーションを取っていいのではと思う。嫌がられるかもしれない。その時は理性の出番。自分のコミュニケーションを客観的にみて、後悔しながら学んでいけばいい。

イチローも言ってた。コミュニケーションは後悔しながら学ぶんだって。
https://www.youtube.com/watch?v=GNrA6rC09NI
「おしえて!イチロー先生より」


でも、スタートしなければ何も始まらない。
まずは自分の感性を信じてコミュニケーションをとっていきたい。あ、誰かのためにね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?