阪神タイガース 詳細年表②
前回阪神タイガース球団創立の1935年(昭和10年)までを掲載させていただきました。
今回は球団創立後最初の5年間(1936年~1940年)までを掲載させていただきたく思います。
よろしくお願い致します。
1936年(昭和11年)
1月9日
若林、タイガースと正式契約、12人目の選手であった。
ただし勧誘に動いたのは主将の松木、監督の森に次ぐ三番目だった。
1月10日
若林入団と同時に球団のニックネームは「タイガース」と発表。
電鉄社員に公募した処、「大阪タイガー」「阪神タイガー」が圧倒的多数で、「タイガース」と複数形にしたのは3人だけであった。
ただし、タイガーの複数形は「ガ―」が有音語なので、正確には「タイガーズ」となり、末尾の〝s〟は音を濁らせる必要があり、複数形ではない。
1935年、大リーグ・ワールドシリーズでデトロイト・タイガーズが優勝、自動車工業が盛んなデトロイトと大阪は同じ工業都市で親しみもあり複数形で落ち着いたとされるが、〝s〟の音は違う。
同一の応募が多かったが抽選の結果、事業課員・松原三郎が命名者に当選し、賞金30円を手にした。月給60円の時代であった。
ただ、余聞があり、阪神電鉄・初代社長、外山脩造の幼名が「寅太」だったため、敬意を表して社員が「トラ」を選んだという説がある。
阪神タイガース、高校野球グッズを製造・販売するシャープ産業の創業者、小林勝喜は外山と同郷新潟県出身であるが「寅太」の名前がかなり影響した旨の発言をしている。
1月15日
名古屋軍創立。
1月17日
東京セネタース創立。
1月20日
東京・銀座の菊正ビルで連盟組織結成のための準備委員会がもたれ、タイガースからは冨樫が出席。
1月23日
阪急軍球団創立。
1月24日
準備委員会2回目の会合。
2月5日
日本職業野球連盟創立総会。(東京・丸の内の日本工業倶楽部)
総裁に大隈信常を指名、タイガースから松方、冨樫、田中、吉江、中川、森、若林の7人が出席、松方が副総裁に就任。
加盟したのはタイガースの他は巨人軍、セネタース、阪急軍、金鯱軍、名古屋軍、大東京軍の7チーム。
2月9日
この日から三日間、日本チーム同士の初の本格的なプロ野球試合、「巨人渡米送別試合兼金鯱軍結成試合」名古屋金鯱軍対東京巨人軍が鳴海球場で行われた。
2月11日
当時期限節と呼んだこの日、チーム結成式を開く。
監督・森や選手17人は雪が降り積もる甲子園球場に集結し、自己紹介の後西宮・廣田神社に参拝。
この廣田神社参拝はいまもキャンプ出発前恒例の行事として続いている。
その後、甲子園に戻り、ユニフォームを手渡された。
胸に「Tigers」、肩に「トラマーク」が入っていた。
チームは阪神電車、山陽電車を乗り継ぎ、浜の宮(現在の加古川市浜の宮公園)で合宿に入った。
公園内の石ころだらけの広場で練習し、小さな古い茶屋に寝泊まりした。
2月15日
関西初のプロ野球試合、金鯱対セネターズが宝塚で行われた。
2月25日
日本職業野球連盟、規約起草審議委員会を開く。
連盟発足にあたり、規約を作るため、東京・西銀座菊正ビルに七チームの代表者が集まった。
2月26日
「2・26事件」当日、雪の降る戒厳令下の東京・銀座の資生堂レストランで、森、若林の前で立教大の景浦将が入団を承諾、夜逃げ同然で合宿所を脱出し立教大を中退しての入団であった。
2月27日
事件当日は連盟の委員会は中止されるが、事件翌日からは最開した。
2月28日
景浦と正式契約。
入団後は巨人・沢村と名勝負を演じ、名前から「闘将」と呼ばれ、藤村富美男以前に「ミスター・タイガース」と呼ぶべきだ、との声もあるほどとなる。
3月10日
規約起草審議委員会、第二回会合。
三日を費やして連盟規約草案をつくりあげた。
3月15日
チームは浜の宮から甲子園球場に場所を移し、本格的な練習に入った。
練習後は三塁側アルプススタンド下の温水プールで汗を流した。
3月17日
東京大学野球連盟、職業野球との絶縁を決定。
選手獲得等で競合することからで、先立つ都市対抗野球連盟に続いての決定であった。
3月19日
連盟事務局、店開き。
3月25日
球団歌が甲子園ホテル(今の武庫川女子大甲子園会館)で開かれた球団結成披露宴の席上で初披露された。
今でも「六甲おろし」で通る「大阪タイガースの歌」である。
作詞は佐藤惣之助、作曲は小関祐而であった。
若林は社会人時代、日本コロムビア所属で佐藤と親交があり、小関もコロムビア専属であった。
招待した在阪の名士200人に、日本コロムビアからジャズシンガーで売り出していた中野忠晴が吹き込んだレコードが配られ、裏面には旋律は同じで歌詞を変えた「大阪タイガース行進曲」がカップリングされた。
このレコードとともに配布された歌詞付きメンバー表の上部にはトラのマークが描かれていたが、これは今にも通じるマークの原型であり、デザインは保科進である。
ニックネームが「タイガース」に決まった時、若林は母校のマッキンレー・ハイスクールのマークを参考してはどうかと球団に持ちかけたとされる。
保科は若林とハワイのマッキンリー・ハイスクールで同窓であり、母校のマスコットがトラであった。
保科は「若林が阪神に入る時、絵を描いてあげて渡した」と語っている。
このトラ・マークを完成させたのは当時、阪神電鉄事業課デザイン室勤務のデザイナー・早川源一が完成させた。
早川が描いたトラ・マークの原画は石飛弘信が阪神電鉄事業部(元・事業課)で早川の後輩という縁で譲り受け、その子息・石飛弘一が所有している。
以来、原画管理の難しかった時代に複写を繰り返すうちに丸みを帯びてきながらも次代に継承していき、基本スタイルを守り続けている。
早川は他にも「Tigers」のロゴ、黒黄の縞模様をあしらった球団旗のデザインも手掛けた。
これら球団愛称、球団歌、球団旗、ロゴマーク等が創設期に備わっていたこと特筆される。
この年、プロ野球初のシーズンに参加した7チームで、ニックネームがあったのは他に東京ジャイアンツ、東京セネタースだけである。
球団歌は他チームにはなかった。
「大阪タイガースの歌」の佐藤・古関コンビが「巨人軍の歌」をつくったのは1939年(昭和14年)、今の「闘魂こめて」は1963年(昭和38年)の作品である。
通称「六甲おろし」は最も古くから歌われ、広く親しまれているわけである。
3月下旬
チームは公式リーグ戦に向け、甲子園で本格的な練習を開始。
4月7日
連盟、臨時総会開催、綱領や連盟規約を承認。
タイガースからは冨樫、田中が出席。
連盟理事長に巨人の市岡、副理事長にタイガースの富樫が就任。
4月19日
大阪タイガース結成披露試合
「球団結成記念試合」として甲子園球場で行われた初の対外試合。
景浦将、藤村富美男、松木謙治郎、若林、御園生崇男らが出場。
若林が3安打1失点で完投し4対1で東京セネタースを破り、球団初勝利を記録、観衆は4225人。
ダブルヘッダー第2試合も藤村の好投もあり名古屋金鯱軍を5対3で破り幸先いい船出であった。
4月26日
ナゴヤ鉄道局に9対1で惨敗。
プロ野球草創期には、プロ球団が実業団チームに敗れるのは珍しいことではなかった。
4月29日
この日から6チームによる連盟旗揚げのリーグ戦「第一回日本職業野球連盟戦」を甲子園球場で開催。
7球団(タイガース、セネタース、金鯱軍、名古屋軍、阪急軍、大東京軍、巨人)による日本野球連盟(今の日本野球機構)が発足していたが、この時巨人は第二回米国遠征中のため、6チームでの開催。
名古屋金鯱軍も鮮満遠征のためリーグ戦の甲子園大会のみ参加ということもあり、選手権ではなく公式上の優勝を争う争覇戦ではなかった。
藤村富美男が金鯱を完封し、3対0で公式戦初戦を白星で飾った。
4月30日
名古屋戦(甲子園)で「初回14連続出塁」「1イニング最多得点12」「連続11得点」のチーム記録をつくり17対3で勝利。
5月1日
阪急戦では本社から阪急だけには絶対負けるなという厳格な至上命令がだされたが、平桝敏男の落球により2対3で球団初のサヨナラ負けを喫した。
5月4日
セネタースと優勝をかけての対戦に3対5で敗れ、3勝2敗でリーグ戦3位に終わった。
この試合の5回裏、藤井勇が野口明からランニング本塁打を放ち、これがプロ野球第1号本塁打となった。(宝塚球場)
この試合でセネタースの苅田久徳がプロ野球史上初の「隠し球」を記録。
5月17日
「連盟結成披露試合」の阪急戦(鳴海)で小川年安の中飛で藤村が生還し球団初のサヨナラ勝ち、阪急に雪辱を果たした。
5月24日
この日の阪急戦(宝塚)に2対10で負け、森と松木は本社に呼ばれ雷を落とされた。
このあと球団は選手の補強の方針を具体化し、森の更迭に動き出した。
6月
甲子園「第2期改修工事」
外野席は鉄筋コンクリートのスタンドへ改造、グラウンドがほぼ現在の大きさに狭まった。
6月11日
セネタースと共に日本統治下の朝鮮に初の外地遠征に出発。
途中、九州に立ち寄り、13日に熊本・水前寺球場で熊本鉄道局、14日に小倉・到津球場でセネタース、16日に福岡・春日原球場で福岡倶楽部と戦い3戦全勝。
6月17日
下関から釜山に渡ったタイガースは、京城球場で21日、22日にセネタースに敗れるが23日の全京城に勝利、朝鮮遠征を4勝2敗で終えた。
6月27日
帰国後、後に「伝統の一戦」と呼ばれる巨人との初対戦。
「巨人帰朝歓迎試合」として甲子園で行われたオープン戦であった。
プロ野球第1号審判、球審・金政卯一の右手が挙がり、甲子園名物となっていた試合終了のサイレンが鳴り響いた。
巨人・沢村、タイガース・若林の両エースが先発し、シーソーゲームを展開し、8対7で勝利。
景浦が左翼スタンドに甲子園のプロ野球柵越え本塁打第1号を放った。
7月1日
この日の東京・早大戸塚球場から公式戦として「第1回全日本職業野球選手権試合」開催、東京・大阪・名古屋でのトーナメント大会であった。
巨人帰国で職業野球チーム7球団が全部揃いその記念大会という性格もあり、三大会の綜合優勝の決定戦は行われなかった。
タイガースは東京大会(戸塚球場)で準決勝敗退。
この大会で戸塚球場にJOAK(現NHK東京放送局)がマイクロホンを持ち込み初の実況放送を行った。
後に「選手権争奪試合は1936年(昭和11年)7月1日を起点とする」とこの日が定められた。
7月5日
戸塚球場で行われた東京大会準決勝、8対9でセネタースに敗れた、優勝は名古屋軍。
7月11日
本拠地・甲子園で行われた大阪大会はセネタースに敗れ初戦敗退、宿敵・阪急が優勝。
阪急とは5月の「顔見世興行」で甲子園、宝塚で1勝2敗と負け越しており、親会社のライバル心は相当で、大金で選手を集めても結果の出ないチームのてこ入れに動く。
阪急対巨人戦で阪急の日系二世外野手ジミー堀尾が巨人・沢村栄治から2ランを放ったが、これが甲子園での公式戦初の柵越え本塁打となった。
7月13日
阪急が優勝を決めたこの日、本社は球団専務・富樫を呼び出し、総監督として毎日新聞広島支局にいた石本秀一を招聘するよう指示。
この日夜、チームは名古屋に出発したが、球団常務・田中義一は広島に向かう。
7月14日
田中は広島の山金旅館で石本と契約。
7月15日
この日から5日間、名古屋大会が八事の山本球場で開催。
大東京に6対5、巨人に8対7、準決勝セネタースに9対7、19日の決勝で阪急に11対7で勝利し、記念すべき初優勝を飾る。
タイガースは3大会の綜合チーム打率.376と驚異の破壊力の重量猛虎打線であった。
このときの巨人戦が公式戦として記録に残る「巨神戦第一号試合」である。
この大会中は相当な猛暑で、特に決勝の19日は灼熱、無風で、日射病、マラリアのような症状、鳥肌がたち震えている者もおり、主将・松木はマネージャーの藤村富美男の次兄・清章にぶどう酒を買って来させ、全員に飲ませた。
試合中、アルコールを口にしてのプレーとは破天荒だが、松木は「このぶどう酒は効果があった」と言う。
18日のセネターズ戦では、セネターズ・レフトの佐藤喜久雄が日射病で倒れ十一日後に亡くなった。
だが、宿舎に帰ると、常務・田中が苦い顔で「松木君、えらい時に優勝してくれた。困ったことになった」と告げられる。
本社案では森の上に総監督として石本を置く考えだった。
だが、早大出の森を監督に迎える際に仲介役だった稲門倶楽部(早大野球部OB会)が激怒。
幹部の佐伯達夫は監査役を務めていた大阪・津田勝五郎商店で説明を受けたが納得せず、「稲門倶楽部のメンツにかけて森を引き揚げる」と退団に至る。
7月21日
巨人と組んで7月28日まで福岡、大分、別府、小倉、広島への西日本遠征。
4勝2敗で勝ち越した。
7月29日
石本の監督就任が明らかになる。
8月10日
チームが秋のシーズンに備え、明石でのキャンプに向かう際、森は選手たちに「甲子園で夏の中等野球(13日開幕)を見てから行く。先に行ってくれ」と告げる。
これが最後の言葉であった。
無念だったはずの森だが、温厚な性格で激しい抗弁はしていない。
初優勝を置き土産に公式戦指揮わずか15試合(9勝6敗)で去った。
夕方、明石駅前の旅館に広島商OBの石本が選手の前に登場。
この合宿から早大出の小島利男が加わったが、森の解任を知らずに入団したようで旅館で荒れた。
森を慕っていた景浦も叛旗を翻した。
石本は球団日誌に「今日も景浦、飛球を捕らず、追わず、走らず、動かず、理由不明」の記述が残っている。
8月29日
東京セネタースの本拠地として開場した上井草球場の開設記念試合で大東京に8対5、翌日はセネターズに3対2で勝利。
9月12日
この日から3日間、第1回タイガース対阪急定期戦開催(甲子園)。
ライバル・阪急との定期戦。
阪急電鉄・岩倉具光常務と交渉した本社専務・細野は「この定期戦を大阪の早慶戦にしようではないかと力を入れた」と入れ込みようが違い、「公式戦で優勝するよりも、阪急との定期戦に勝て」と訓示したほどであったが1勝2敗で敗れる。
9月18日
公式には初のシーズン、第2回職業野球選手権試合(秋季リーグ戦)が甲子園で開幕。
この秋のシーズンは初のペナントレースが展開する大阪第一次(甲子園)・東京第一次(上井草)・大阪第二次(甲子園)・東京
第二次(洲崎)の総当たりリーグ戦4回と、名古屋(鳴海)・大阪(宝塚)のトーナメント戦2回を行った。
9月25日
大阪リーグ第一次リーグ戦の優勝がかかった巨人戦(甲子園)で沢村にノーヒットノーランを喫し敗れた。
ノーヒットノーランはこれがプロ野球初の快挙であった。
9月29日
名古屋戦に7対1で勝利、大阪第一次リーグ戦を2位で終えた。
10月2日
この日からの名古屋優勝大会、名古屋軍に10対5、大東京に11対2、決勝戦でセネタースに5対1で勝利し優勝。
10月20日
17日からの宝塚球場での阪急との第二回定期戦、2勝1敗で雪辱。
この定期戦前に本社重役陣からは「どんなことをしても必ず勝利を収めろ」と至上命令が出されており、敗戦を喫すれば解散もあり得るという社命を受けた背水の陣で臨んだ結果の勝利であった。
勝利の夜、鳴尾の「みやこ」で祝勝会が催され酒もふるまわれ、球団首脳陣が選手と一緒になって喜びを嚙み締めた。
10月23日
この日から始まった大阪優勝大会、準決勝で阪急に0対3で敗れ、3位決定戦で金鯱軍に4対2で勝利し3位。
この日の大東京戦(宝塚)で、伊賀上良平がボンナから満塁ホームランを放つ、これは球団第1号の満塁弾であった。
10月24日
大東京戦で「1試合13盗塁」の日本記録。
11月2日
後楽園球場建設のための発起人総会開催。
創立委員にタイガース会長・松方も就任。
11月
甲子園球場、外野席を改造して内野スタンドと同じ高さに引き上げる。
この改造までの12年間で観覧席に飛び込む本塁打は1本も出なかったことから、いかに改装前の甲子園が広かったかわかる。
11月6日
この日の大東京戦(上井草)から22日の阪急戦(甲子園)まで9連勝を記録。
この年の最多連勝記録であった。
11月12日
東京第一次大会の最終日、4対1でセネタースに勝利、名古屋軍と同率の1位となり優勝となった。
この大会ではホームランが4本出たが、そのうちの3本がタイガース、藤村、松木、景浦が放った。
11月23日
大阪第二次リーグ戦の最終日、巨人との優勝戦に2対7で敗れ巨人と同じ5勝1敗の同率首位となり優勝。
11月29日
この日から秋季大会最後の第二次東京大会が完成したばかりの洲崎球場で開催。
11月30日
大東京戦(洲崎)、松木が遠藤忠二郎に死球を受け入院。
12月7日
第二次東京リーグ戦はタイガースと阪急が5勝1敗で同率首位となり優勝。
秋季の公式戦は4回のリーグ戦と2回のトーナメント大会を合計した勝ち点制を採用していたが、タイガースと巨人がリーグ1位で並び両チームは王座決定戦に臨むこととなった。
12月9日
この日から秋のシーズンの3試合制のプレーオフ、年度優勝決定戦。
秋のシーズン、勝ち点合計でタイガースと巨人が並んだことにより洲崎球場で行われた有名な「洲崎の決戦」である。
この日の試合で、石本は景浦に賞金を出したが、これによりプロ野球界に賞金制度が生まれた。
12月11日
タイガースは沢村の3連投の前に1勝2敗で敗れる。
注目は沢村―景浦の対決で「プロ野球は沢村が投げ、景浦が打って始まった」と言われることになる。
タイガースはプロ野球初代日本一の座を逃したが、7月以降の公式戦は37試合28勝8敗1分け、勝率.778で巨人や阪急に大差をつけており、「沢村さえ打ち込めば優勝できる」という機運が高まっていた。
秋のリーグ戦では藤村が2本塁打で初代本塁打王(ほか2人がタイ)、景浦
が0.79で最優秀防御のタイトル獲得。
景浦は好投手であり、4番打者という二刀流の活躍を見せた。
この年、後の球団社長、長田睦夫、小津正次郎が阪神電鉄に入社。
1937年(昭和12年)
1月1日
前日大晦日に大阪を発ち、除夜の鐘を広島で聞き、元日から正月大会と称すオープン戦を広島・呉で行う。
大会は広島、甲子園、神戸と7日まで続き、7勝1敗。
8試合で計86点を挙げ、猛打タイガースの名が知れ渡った。
第1期黄金時代の幕開けを告げる。
1月28日
新戦力右腕、関西大学のエース・西村幸生が加入。
この他にも本堂保次ら14人がこの年入団、戦力を充実させた。
一方、小川年安、平桝敏男が応召された。
2月5日
日本職業野球連盟創立一周年定時総会が銀座・菊正ビルで開催。
副理事長であった富樫興一が理事長に就任。
後楽園イーグルスの加盟で8チームとなる。
2月12日
甲子園でキャンプ開始。
2月24日
キャンプ終盤のこの日から3月2日まで、投手をプレートの前から投げさせ速球対策の打撃練習を行う。
石本の指示で「打倒沢村」に向け、甲子園球場入り口を閉ざした「秘密練習」であった。
これは主将・松木とこの年ハワイから入団した“カイザー”田中義雄のアイデアであった。
このとき、打撃投手を務めた青木正一・投手、加藤信夫・野手は資料上、初めて名前が見られる打撃投手とされる。
3月12日
この日から3日間、甲子園球場で「球団結成一周年記念試合」を行う。
巨人、セネタース、金鯱を招き4チームによるリーグ戦。
初日は金鯱に7対6で辛勝、2日目はセネタースに8対1で勝利。
最終日は巨人・沢村を打てず0対2で敗れ、2位に終わる。
3月19日
三回目のタイガース対阪急・定期戦開催、2連敗後3連勝、3勝2敗で勝利。
3月26日
上井草球場で春のリーグ戦開幕。
公式戦は春秋2季制の8球団・総当たりリーグ戦となった。
5月1日
巨人戦(洲崎)で沢村に自己二度目となるノーヒットノーランを達成される。
5月30日
巨人戦で松木が沢村から初めてホームランを放ち6対3で勝利。
6月13日
イーグルス戦(洲崎)で門前真佐人が「1試合最多二塁打」(4本)を記録。
6月26日
春のリーグ戦は快調だったが、この日と翌日に巨人との2連戦でまたも沢村の前に敗れ0.5ゲーム差で巨人に優勝をさらわれる。
春のリーグ戦、沢村に1勝5敗と牛耳られた。
春のリーグ戦では.338で松木が首位打者、本塁打王も4本で巨人・中島
と並び獲得、景浦が47打点で打点王を獲得。
7月18日
洲崎球場で国防費献納東西対抗職業野球戦開催。
試合に先立ち.338で春季リーグ首位打者になった松木に楯、銀製バットが渡された。
試合は巨人に勝利。
献納金額は4381円62銭という充分な額となり成功裡に終わった。
7月21日
夏のオープン戦で遂に沢村を攻略。
松木は「打倒沢村が達成され、タイガースにとって記念すべき日」としている。
試合の行われた横浜公園球場から東京に引き上げるバスの車内は大騒ぎで、専務・富樫は途中バスを止め、ビールの木箱を買って持ち込み、全員で乾杯した。
宿舎に戻ると「沢村攻略賞」として全員に金一封(10円)が出された。
この試合以降、沢村とタイガース打線の力関係は逆転した。
8月29日
西宮球場で秋のリーグ戦開幕、タイガースは巨人・沢村を打ち込み10対5で勝利。
9月8日
この日から10月4日・金鯱戦(後楽園甲まで戦前最高となる14連勝を記録、1リーグ記録となった。
さらに連敗は一度だけという安定した強さで2位・巨人に9ゲーム差をつけ優勝。
9月11日
旧陸軍砲兵工廠跡地に後楽園球場が完成、開場式後のこけら落としに紅白戦が行われ、若林、松木らも出場した。
9月12日
後楽園球場初の職業野球公式戦で巨人と対戦、沢村を攻略し9対8で勝利。
秋のリーグ戦、タイガースは沢村と4度対戦したが1敗もしなかった。
10月31日
巨人戦、スタルヒンを攻略、4対3で勝利し秋季リーグ優勝が決定。
11月15日
ライオン戦(後楽園)で松木がプロ野球最初の一回表の先頭打者本塁打を放った。
11月20日
オールスター戦、最初の東西対抗戦が甲子園で開催、企画は大阪・朝日新聞。
テナー歌手・藤原義江から聞いた大リーグ・オールスターゲームがヒントになった。
アマチュア野球に力を入れていた同社は表立つことを避け、朝日社会事業団主催の形をとり2年後まで続いた。
利収益金は本社歳末同情週刊の義金として繰り入れる、とされた。
11月30日
秋季リーグは39勝9敗1分け、勝率.813で連敗は一度だけ、巨人、阪急、セネタースには全勝で優勝。
2位・巨人に9ゲームの差をつけての驚異的な成績での優勝。
秋季は沢村に3勝0敗と遂に「秘密練習」が実を結んだ。
西村が15勝、防御率1.48で一位。秋季は巨人戦7戦し7勝したが、5勝が西村だった。
景浦が.333で首位打者。
秋
優勝を祝ってオーナー・松方はナイン全員を阪急電鉄宝塚沿線、売布(めふ)駅北の自宅に招待した。
これがきっかけでキャプテン・松木は松方の酩酊中の介添え役、マッサージ役を務めた。
12月1日
年度優勝決定戦、巨人本拠地・後楽園で開幕。
アメリカ・ワールドシリーズにならい7回戦制が採用された。
12月7日
王座決定戦を4勝2敗で優勝。
西村は3勝無敗と活躍し「初代巨人キラー」とされる。
この西村を大和球士は主戦投手をもじり「酒仙投手」と名付け、酒豪伝説が伝わる。
この年、試合に勝つと球団から賞金が出ていた。
巨人、阪急戦20円、他カード10円を監督が割り振った。
西村は巨人に強く、完投勝利が多いため、登板ことに10円を手にし、それでおでん屋、屋台で全額飲んで帰っていた、銚子1本30銭の頃である。
この頃、東京遠征時の定宿、龍名館分館に於いて、西村は巨人に打たれた際の石本の叱責、門限遅れで責められた際の翌日、消灯後の午後11時頃、石本の部屋に入り殴りかかった、という逸話がある。
他にも、甲子園付近でライオン軍選手と放歌高吟し警察沙汰になったりしたが、反面西村は影では誰よりも練習をしていた、と言われている。
先の景浦の石本への反発等、管理を嫌い、グラウンドでは結果を出すという猛虎魂の土壌は既に培われていた。
御園生が秋に11勝0敗で最優秀勝率投手。
観客動員は51万5千人となった。
12月9日
大阪毎日新聞社主催によるトーナメント大会「日本職業野球大毎杯争奪戦」がこの日から開催。
ライオン軍、三位戦でのイーグルスに敗戦、巨人が優勝。
12月15日
読売新聞社主催のトーナメント大会「日本職業野球優勝大会」がこの日から開催。
翌16日にセネタースに敗れた、名古屋が優勝。
この年、甲子園で第2回全国実業専門学校野球大会が開催された。
1938年(昭和13年)
1月9日
4万人を超える観衆を集め、全日本スキー・ジャンプ甲子園大会開催。
この頃、甲子園球場では野球以外の催し物も多く、野外映画大会、六代目菊五郎一座を招いての野外歌舞伎が人気を呼んだ。
2月5日
連盟理事会で鈴木の理事長就任が決定。
戦時体制下の時局に対応すべく皮革製品、毛織物等準戦時品を節約することを申し合わせ、傷病兵を後楽園に招いての試合も決定された。
2月11日
連覇をねらい広田神社参拝。
松木と西村がお神酒のおかわりをして話題となった。
2月12日
甲子園でキャンプイン。
3月5日
第四回対阪急定期戦がこの日から開催、3勝1敗で3連覇を果たした。
3月19日
タイガース結成二周年記念試合を名古屋、ライオンを招き開催。
いずれも一方的に勝利。
3月29日
南海の連盟加盟が承認された。
阪神・細野と阪急・岩倉具光が南海・小原英一に働きかけた。
南海の加盟金問題で、連盟内部の意見が分かれたとき、阪神、阪急両電鉄は「南海の加盟が認められなければ連盟脱退も辞さず」との態度に出ていた、とされる。
4月23日
第二回大毎杯争奪戦がこの日から4日間開催、優勝戦で巨人に敗れた。
6月4日
御園生が昭和12年春から18連勝を記録。
6月19日
阪急戦(甲子園)で敗れ、御園生の開幕以来の6連勝、前年からの通算18連勝(球団記録)の記録が途切れた。
7月13日
セネタース戦(後楽園)で勝利し春季リーグ優勝。
7月17日
巨人との春季リーグ最終戦で勝利、29勝6敗と圧倒的な強さで春季リーグを終え優勝。
この時の勝率.829は今もプロ野球最高記録である。
まさにこの頃は黄金時代と言える。
西村が11勝4敗、御園生が10勝1敗と投手陣の主力となり、打線もチーム打率.268と上位から下位までむらなく打ち、他球団の投手陣を圧倒した。
7月22日
読売新聞主催第二回日本職業野球大会、この日から三日間後楽園で開催。
セネタース、名古屋、イーグルスを降し初優勝。
7月25日
大会四日目・五日目はチームを大阪軍、中京軍、東京軍に分けて三都対抗戦決定戦というオールスター・ゲームが企画されており石本監督ほか西村、御園生らが大阪軍で出場、結局三すくみの形で終わった。
7月30日~8月19日
秋季リーグが始まるまでの間、広島、九州に続き朝鮮、満州まで転戦した。
8月27日
戦力的に春のリーグ戦出場は遠慮した南海が新加入し、9チームで秋季リーグが後楽園で開幕。
タイガースは29日にセネタースに11対0と圧勝、以降も後楽園、西宮で5連勝と好調であった。
9月7日
景浦が戦前最高となる14試合連続得点を記録。
9月15日~9月18日
遠征の疲れからか、西村、御園生が不調、甲子園で南海、金鯱、イーグルス、巨人に連敗し球団初の4連敗を喫する。
10月下旬
9連勝で追い上げたが、巨人に優勝をさらわれる。
この年のシーズン中、石本は藤村富美男には打者としてのセンスがあると判断し、野手転向を命じた。
景浦が春に31打点で打点王、西村が春に1.52で最優秀防御率投手、御園生が春に10勝1敗で最優秀勝率投手となった。
この頃、巨人は沢村が徴兵で入隊し、スタルヒンがエースとなっていた。
11月26日
この日から甲子園で開幕した年度優勝決定戦は3年連続でタイガース対巨人の対決となった。
この日の試合後、試合中の判定に納得も行かない巨人の監督・藤本と三原が塁審・杉村を追い連盟室に殴り込むという事件が起こり、三原は連盟から厳しい処分を受けることとなった。
12月2日
この日後楽園で巨人に4対2で勝利、4連勝で2年連続日本一の座についた。
12月5日
日本工業倶楽部で連盟首脳会議が開かれ、初めて選手の契約に関して、報酬等の枠がはめられた。
タイガースからは細野が出席。
12月10日
阪急との第五回定期戦を戦ったが1分け3敗で終えた。
12月18日
優勝記念の有料紅白試合を甲子園で行った。
大阪朝日新聞社会事業団の申し入れで歳末同情週間の義損金募集に協力することから有料となった。
タイガース初の有料紅白試合とされている。
この年、現行のプロ野球組織で朝鮮人選手第一号としてパク・ヒョンミョンが入団。
1939年(昭和14年)
1月1日
10日まで開催の関西正月大会で首位。
1月
藤村、応召され故郷の広島師団歩兵第11連隊に入営。
2月4日
甲子園で「戦車大展覧会」開催。
防空展覧会も開かれ、多くの施設が軍に徴用された。
3月1日
日本職業野球連盟が「職業」の二文字を削除して、「日本野球連盟」と改称。
3月3日
この日から3日間行われた阪急との第六回定期戦は1勝2敗の後、雨で以後の試合が流れ無勝負となった。
3月10日
この日から3日間行われた在阪4球団のリーグ戦は2勝1敗で阪急に次いで2位。
3月15日
翌16日と行われた連盟理事会で公式試合の分配方法を改め、勝利チーム優遇となった。
3月18日
初の1シーズン制の公式戦開幕。
プロ野球4年目のこの年、春秋2シーズン制を改め、1シーズン制に移行。
これにより、3年連続で巨人と争っていた年度優勝決定試合はなくなり、春夏秋3季の勝率1位を連盟表彰した。
3月19日
巨人戦で岡田宗、堀尾が1イニングに二人が本盗を記録。
春シーズンは残り6試合時点で首位にいたが4連敗で脱落、阪急が首位で表彰を受けた。
6月29日~7月11日
大東京ライオン軍の宣伝巡業に秋田~函館~釧路に帯同し3勝3敗。
7月23日
第三回読売優勝大会、優勝した金鯱と対戦し敗れた。
7月24日
花形選手選抜対抗戦開催。
選手を出身地別に二分し、タイガースの選手もそれぞれに配置され出場。
7月25日
第二回三都対抗戦。
8月26日
甲子園で六代目尾上菊五郎一座による「野外歌舞伎」開催。
夏シーズンは24勝8敗と勝ちまくり首位。
9月12日
南海戦(甲子園)で4回に二死後9点を奪われ球団ワースト記録となった。
9月20日
南海戦で富松が4月22日南海戦に続いて4打席4四球の記録。
秋シーズンは スタートでの不覚が響き2位、首位は阪急。
1年の通算成績は63勝26敗4分けで2位、3季とも2位の巨人が優 勝。
タイガースは巨人に7勝5敗をはじめ全球団に勝ち越すが、下位球団への取りこぼしが響き優勝を逃した。
昭和11年以来、常に首位だったチーム打率が.239まで落ち、巨人が.269で初めてトップになった。
また、1937年(昭和12年)からの日華事変(日中戦争)の戦局が拡大し、軍務で戦列を離れる選手が相次ぎ、この年、藤村、山口、藤井、塚本、玉井栄、御園生らが抜け大きな戦力ダウンとなっていた。
御園生が14勝3敗で最優秀勝率投手、若林が1.09で防御率一位となり優秀投手。
11月18日
第七回対阪急定期戦。
オールスター東西対抗戦が間に開催され12月までずれ込み3勝1敗で阪急が優勝。
12月8日
この日から巨人、セネタース、阪急と東西優秀4チーム対抗戦が3日間開催。
セネタースが3戦全勝で優勝、タイガースは全敗で最下位だった。
12月15日
阪急、南海との三電鉄リーグが設けられ、22日の優勝決定戦で阪急に勝利し優勝。
暮れ
監督・石本退団。
契約期限切れと3連覇を逃した責任からの辞任で、球団は慰留に努めたが、翻意ならず、新監督には助監督を務めていた主将の松木が就任。
それに伴い主将の若林が助監督、後任の主将に田中が就任。
石本は監督就任272試合目で200勝を達成、これは史上最速、勝率.749という驚くべきものであった。
この年以降、試合中に「軍務公用」での呼び出し放送が何度も流れ、時には招集令状の放送もあり、呼び出された男性が観客席で一人立ち上がると、観衆は拍手で送り出していた。
この年入営した主な選手は景浦、藤村富美男、山口政信、藤井勇ら。
そんな時世の中、開催されたリーグ戦は、1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)まで巨人が5連覇を達成。
1940年(昭和15年)
1月1日
正月大会開幕、阪急とともに4勝2敗で首位。
1月
この月公開された「秀子の応援団長」は巨人のメンバーが出演する野球映画だが、タイガースなど各球団の練習風景が登場した、ただし有名選手は登場していないのでエキストラを使っている可能性が高いとされる。
3月2日
第八回対阪急定期戦開幕(西宮)、3勝1敗で優勝。
3月10日
合宿所が協和寮となった。
春
西村が右肩を痛め退団。
若林に「おでん屋のおやじになる」と言い残し、満州(現中国東北部)に渡った。
新京(現長春)の満州電電から誘われていたが、この実業団時代の活躍は伝わっていない。
4月14日
阪急戦で浅野勝三郎にノーヒット・ノーランを喫し、敗戦。
4月29日、5月1日
甲子園で新人による東西対抗戦が行われた。
6月23日
阪急戦で初回、松木、本堂、田中義(2)、堀尾で1イニング5盗塁を記録。
春シーズンは5位に終わる。
7月26日
満州での公式戦開催に向け連盟理事・選手一行173人、神戸港から郵船吉林丸で大連に向け出航。
8月3日
紀元二千六百年奉祝事業として、満州で公式戦を行う。
満州シリーズ中のこの日、三輪八郎が巨人戦(大連)でノーヒットノーランを達成、タイガースとして球団初の快挙であった。
巨人の敗因は前夜の南京虫の来襲による主力選手の睡眠不足が敗因とも言われている。
8月11日
満州に於いて、若林が阪急戦(大連)で試合時間56分という最短記録(当時)試合で勝利。
投球数は80球、阪急の森弘太郎は77球で両軍投手共無四球完投した初の「双方無四球」試合であった。
この試合は途中で阪急監督兼捕手・井野川利春のレガースが壊れ、取り換えるのに4分かかったので若林は「実質52分だった」と記憶していた。
9月1日
大阪毎日新聞西部支社主催の優勝大会開催。
4戦全勝で優勝。
9月15日
連盟理事会で新綱領が発表され、最後まで戦うのが日本精神という理由から引き分け試合廃止、球団の名称の日本語化、ユニフォームの胸マークから英語を駆逐することが決まった。
さらに発足当初に定めた要綱から「将来、アメリカと戦う」という下りを消した。
9月25日
秋シーズン開幕、「タイガース」はこの日から「阪神」と改称。
10月15日
野球用語の英語駆逐も始まり、監督は「教士」、リーグ戦は「日本野球連盟戦」、プレーボールは「試合始め」と改められた。
選手は「選士」となり、勤労動員で戦闘機製造の川西航空機鳴尾工場等で働き、試合は土日を中心に行われた。
10月17日
この日から第四回読売優勝大会が行われ、黒鷲に3対1で敗退、巨人が初優勝。
秋シーズンは健闘したが2位となり巨人に2連覇を許した。
この年は主力の応召で戦力低下したが64勝47敗3分、勝率.634で2位と健闘。
12月12日
甲子園で「巨人優勝記念試合」が催され、8対2と一方的な敗戦を喫しファンを失望させた。
12月20日
第九回対阪急定期戦が三日間開催され、阪急2勝1敗後雨で打ち切り、無勝負となった。
この年から1941年ごろ、甲子園球場では試合後、本塁前に「お立ち台」が置かれ、場内放送で呼ばれた選手が台に上がり、応召の「儀式」が行われた。
このときは「六甲おろし」ではなく、陸軍省選定「出征兵士を送る歌」が大銀傘にこだました。
しかし、この「儀式」は軍部からの命令でわずかな期間で姿を消し、球団史にも記述は無い。
この年、御園生らが入営。
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