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阪神タイガース 詳細年表④

今回は1946年(昭和21年)から1950年(昭和25年)までを掲載致します。
この時期の大きな出来事としては現在に繋がる2リーグ分立がありました。
この出来事は、各リーグ・各球団のとっても後に大きな影響を与えることになりました。

1946年(昭和21年)

1月1日

藤村富美男が主将兼監督に就任。
近畿グレートリングと西宮で対戦、5対3で勝利。
球団対抗の形をとった戦後最初のプロ野球試合であった。 

1月20、22日

東京・赤坂の田村駒治郎邸に全球団の代表者が集まり、リーグ戦再開を決定。
22日には新規加盟問題で緊急理事会を招集し、金星を承認、東京カッブス(東京野球株式会社)を拒絶、東西4チームの8球団維持を最良策としていた。 

2月16日

西宮球場内で開かれた理事会で理事会を代表者会議と改称することが決定。 

3月9日

藤井寺球場復興記念試合。
阪急に5対8で敗戦。 

3月16日

第十七回対阪急定期戦(西宮)。
翌日まで2戦連敗、阪急優勝。

3月24日

この日まで球団呼称を「阪神」と名乗り以後は「タイガース」と名乗る。
これは「陣容が整うまで」と保留していた元の名前に戻したものである。 

3月31日

第七回毎日杯争奪戦開催(西宮)。
1回戦でセネタースに敗れ敗退、阪急が優勝。 

4月6日

第四回名古屋優勝大会開催(鳴海)。
1回戦で巨人に敗れ敗退、巨人が優勝。 

4月20日

第八回読売優勝大会開催(後楽園)。
巨人に敗れ敗退、阪急が優勝。
「ベースボールマガジン」創刊、当初は月刊。 

4月27日

後楽園球場、西宮球場の二か所で公式戦開幕。
この年より8チームによるペナントレースとなる。
開幕前の毎日、読売、中日の各新聞会社主催の大会では、阪神は投手力不足による不安が大きく、前評判は芳しくなかった。 

5月30日

近畿戦で長谷川善三が遊撃手11捕殺のレコード。 

6月16日

セネタース戦(西宮)で小雨の中、呉昌征が戦後初、球団では三輪八郎以来6年ぶり2度目のノーヒットノーラン達成。

6月24日~7月21日

チームタイの14連勝を記録。
6月30日には阪急戦で2試合連続全員安打を記録。
7月16日には打撃10傑に渡辺誠、藤村、金田、富樫、土井垣、本堂、長谷川の7人が並び、チーム打率も3割を超えていた。
これを日刊スポーツ記者・高山方明が球界の命名第一号と言われる「ダイナマイト打線」と名付け、後世まで語り継がれる異名となった。 

6月29日

日本勧業銀行が引き揚げ者の援護資金に充てる目的で1枚10円の野球クジを後楽園で発売、一等賞1000円ということで人気、のち西宮でも発売された。 

6月下旬

富樫は若林が住んでいた仙台に行き球団への復帰を懇願したが、若林はこれを断った。

7月4日

戦前から若林と親交のあった大阪帝国大医学専門部在学中の伊藤利清が若林復帰を懇願するため、仙台市内の若林の自宅を訪ねた。しかし若林の返事はなかった。

7月7日

中部日本戦(後楽園)で藤村が戦後第1号本塁打を放ち、自ら勝利投手となる。

7月14日

近畿戦(金沢)が阪神33、近畿29、計62の塁打新記録となった。

7月15日

近畿戦で阪神8、近畿6の計14失策の新記録。

7月25日

巨人戦で金田正泰、1イニング2三塁打の新記録。

7月26日

パシフィック戦(西宮)で55分の新記録となる最短試合を1対0で勝利。

7月29日

パシフィック戦でチーム初の三重殺(無死一、二塁・藤村富―本堂―高山)。 

9月1日

阪急戦(西宮)で勝利、球団500勝。
文部省が野球統制令を撤廃、学生野球は自由を取り戻し自主運営の道を踏み出した。 

9月19日

中部日本戦(後楽園)の4回裏、12安打11点を奪ったが、うち9本が連続しておりプロ野球新記録となった。 

9月21日

グラブとスパイクが入った風呂敷を手にし、若林は仙台の自宅を出た。       大宮に着いた阪神の定宿・千葉県松戸の海老屋旅館に電話を入れ、球団代表・富樫興一に復帰手続きを依頼した。 

9月22日

巨人戦(後楽園)で若林復帰。
6回途中から登板、この試合阪神は7連続安打を記録、11対8で勝利。
復帰当初、若林は監督の藤村に指揮権の譲渡を申し入れたが藤村はこれを聞き入れなかった。 

9月26日

ゴールドスター戦(西宮)で、大観衆がスタンドに入りきらず、子供たちにけが人が続出、MPが空に向けて威嚇発砲し、混乱を鎮めるという騒ぎが起こった。
試合後、若林と藤村は負傷者が収容された病院を訪ねた。 

10月4日

チーム2度目の6連敗を喫する。 

10月

県立豊岡中学校のスポーツ振興資金に充てるため豊岡で有料紅白試合開催。

シーズンは59勝46敗、勝率.562、優勝の近畿から7ゲーム差の3位。
藤村の不幸による離脱後失速、若林の復帰も時として遅かったが.288という最高のチーム打率を残した。
金田が.347で首位打者。

11月9日

オールスター東西対抗戦開催。
西宮、その後後楽園で東京シリーズ開催。

11月21日

第九回読売優勝大会開催、1回戦で優勝したパシフィックに敗戦。       「日本野球選手会」結成、若林が副会長に就いた。
当時の選手会は「選手の待遇改善のみを要求するばかりではなく、プロ野球選手の地位向上、選手みずから省みて恥ずかしくない義務と責任を負うべきだとしていた。
この選手会結成にも特に若林は熱心で、阪神にあっても球団代表・富樫に、試合中の負傷を「公傷」として認めること、長い間プレーした選手には「年金」を用意すること、優勝時に「ボーナス」を用意すること等の要求を行い、富樫に出した「要望書」を連盟会長・鈴木龍二にも提出したこともあった。

11月26日

藤村が千葉県松戸の旅館「富吉」で結婚式を挙げる。
富樫の紹介で見合い、日本野球連盟会長・鈴木龍二が媒酌人を務めた。 

11月29日

神港夕刊新聞社と西宮市の共催で西宮市長杯争奪戦開催。        1回戦でパシフィックに敗戦、近畿が優勝。 

11月30日

代表者会議で優勝チームへの賞金10万円、ほか個人賞の表彰を決定。 

12月7日

第十八回対阪急定期戦。
2戦2勝で優勝。 

12月22日、23日

富樫専務が東京・小石川の「大国」での代表者会議に出席、甲子園球場の接収解除が近いことを示唆した。

この年、久万俊二郎、阪神電鉄入社。

1947年(昭和22年)

 

1月1日

若林が監督復帰、監督兼選手となり主将は藤村に。
関西正月大会開催、阪急と同率首位。 

1月10日

甲子園球場接収の部分解除が実現。
スタンド下の内部は進駐軍が倉庫に使用していたが、グラウンドとスタンドは使用可能になった。
戦時中に金属供出で大鉄傘はなく、空襲で被災した一塁側アルプス席は立入禁止だった。 

2月28日

小曽根貞松、二代目会長に就任。 

3月3日

連盟に最高委員を設置、選手争奪に伴う紛争に対処。 

3月8日

第十九回対阪急定期戦開催(西宮)。
2戦連敗。 

3月15日

巨人と在阪球団の阪急、太陽とのリーグ戦。
1勝2敗。 

3月22日

第八回毎日杯争奪戦開催。
決勝で阪急に若林の決勝打で逆転サヨナラ勝ちし初優勝。 

3月30日

甲子園で中等学校・春の大会が復活。 

3月

もう一つのプロ野球、国民リーグ(国民野球連盟)が誕生。
日本野球連盟は国民リーグとの関係を拒絶し、8球団本拠地から閉め出した。
結局国民リーグの運営は行き詰まり、公式戦開催はこの年の1シーズンだけで解散となる。 

4月13日

甲子園で「第1回甲子園ボウル」開催。 

4月14日

連盟と選手会との間で「選手自由憲章」を調印。
 基本精神は
1、 日本野球の繁栄を基調とすること
2、 経営者と選手は対等の地位に立つこと
の二点であった。 

4月29日

巨人戦で山口政信がチーム8年ぶりの満塁本塁打を放った。 

5月3日

若林が連盟から「名選手」として表彰された。 

5月10日

東急戦で17対0で勝利、チーム最多得点差完封記録。 

5月26日

甲子園球場に「ラッキーゾーン」お披露目。
これまでプロ野球公式戦796試合でオーバーフェンス本塁打が49本しか出ていなかった左右両翼91㍍、中堅118㍍、左中間・右中間128㍍の甲子園球場に若林が「外野に塀を作り、ファンが求めているホームランを出やすくしよう」と提案し阪神電鉄運動課長、辰馬龍雄(後西宮市長)が「面白いじゃないか」と採用、連盟会長・鈴木の了解を取り、突貫工事で金網のフェンスを造った。
左中間・右中間は108.5㍍となり20㍍近く短縮された。
この日の南海線では本塁打は出ず若林が1対0で完封。
このシーズン、タイガースのチーム本塁打は17本でまだラッキーゾーン設置の効果は出なかった。 

5月31日~6月2日

東急戦、巨人戦、太陽戦で3試合連続サヨナラ勝ち。 

6月2日

プロ野球を冷遇していた東京の毎日新聞がはじめてプロ野球の記事を掲載、関係者を驚かせプロ野球参入のウワサがたった。 

6月1日

近畿グレートリングが「南海ホークス」と改称。 

7月17日

中日戦で御園生が完投で100勝達成。 

8月13日

甲子園で中等野球・夏の大会も復活。 

8月16日

松本県営球場での東急戦で、特別ルールでプロ野球記録となる双方9本の三塁打が生まれ、阪神21安打、東急20安打の計41安打、63塁打のプロ野球最多記録となった。 

10月26日

後楽園での巨人戦、7対0で梶岡が完封しペナントレース優勝。 

11月2日

阪急戦(後楽園)、一番から五番まで3安打、9人全員5打数、四球0というプロ野球唯一の珍しい記録で9対0で勝利。 

11月3日

中日戦で若林が救援で勝利を挙げ、スタルヒン(パシフィック)に次ぐプロ野球二人目の200勝達成。

シーズンを79勝37敗3分け、勝率.681、5月30日首位に立ち、最終的に2位・中日に12.5ゲームをつけ戦後初優勝を飾った。 この年の優勝の要因はメディアに「ダイナマイト打線」と呼ばれた金田、塚本、本堂、藤村ら攻撃陣であった。
藤村が75打点で打点王、御園生が13連勝を含む18勝6敗で最高勝率(.750)、この年入団した梶岡忠義が22勝を挙げた。
30歳の若林が43試合登板、26勝12敗、10完封、投球回数331回2/3の成績で2度目の最高殊勲選手(MVP)に輝いた。

11月15日

東西対抗戦がこの日から開催され、4勝を稼いだ若林が最高殊勲選手に選ばれた。

11月29日

連盟と選手会で「野球協約」を締結、翌年からの発効となった。       自由憲章には移籍権発生に関する、現在のFA制度の前身となる「十年選手制度」が明文化された。

12月4日

第二回西宮市長杯争奪戦開催。
阪神、阪急、南海がともに2勝するが、チーム打率が最高の南海が優勝となった。 

12月15日

若林がノンプロ・全大阪でプレーする別当薫獲得のため、変装したうえで別当が出場していた甲陽中OB野球を密かに観戦。 

12月16日

若林は大阪市内で別当と密会し、入団の快諾を得た。 

12月23日

連盟納会で選手会代表の若林は二シーズン制の導入を訴えたが却下された。

この年、石本が野球殿堂入り。
この年、「沢村賞」が制定。

1948年(昭和23年) 

1月1日

関西正月大会開催。
3勝2敗で2位、首位は大陽。 

1月19日

三日間、箱根湯本・三昧荘で代表者会議(通称箱根会談)が開かれ、球団の本拠地を定めた。
阪神=甲子園とすることに当然異存はなかった。
株式会社日本野球連盟の創立等も決定。 

1月

別当が富樫に連絡してきて入団の意思を伝えた。 

2月4日

南海も本拠地を甲子園とすることが決定。 

2月28日

小曽根貞松会長、辞任。

3月1日

日本野球連盟が文部大臣より「社団法人」の認可を得た。
若林が監修・発起人となり月刊誌「ボーイフレンド」創刊。
若林は、この書籍の中で2リーグ制を提唱、大リーグとの決戦などの夢を綴った。
同誌は若林の阪神退団の1949年(昭和24年)末まで発行された。     この頃若林は、一向に上がらぬ給料に不満が募っていた選手のため、各球団のスター選手と契約、契約金を前払いし、選手のブロマイドを作って売り利益を還元するブロマイド商法を実行に移し、女性ファンも増加させて時流に乗った。
これは日本プロ野球史上初のブロマイドであった。

3月6日

第二十回対阪急定期戦で翌7日とも2戦2勝で優勝。 

3月12日

法人化された連盟の最初の理事会が甲子園で開かれた。
第一部会員(球団)は阪神、巨人、急映、金星、中日、阪急、南海、大陽の八社であった。 

3月15日

この日から開催の第九回毎日杯(甲子園)で優勝。 

3月24日

この日から開催の第六回中日大会(鳴海)で優勝。

3月27日

この日から開催の第十一回読売大会(後楽園)で優勝。
比較的トーナメントには弱かった阪神が三大会優勝という快挙、別当が9試合に出場、6本塁打、打率.467、打点23の活躍。

オープン戦から、大物ルーキー・別当が本塁打を連発し、「別当ブーム」が起こり、話題をさらい、本当の意味で「ダイナマイト打線」完成は別当入団からとも言われる。

4月

株式会社日本野球連盟発足。
学制改革により新制高等学校と新制大学が発足、それまでの全国中等学校優勝野球大会も全国高等学校野球選手権大会と改められた。

5月1日

連盟が「週刊日本野球」を創刊。 

6月18日

南海戦(甲子園)でサヨナラ打を放った土井垣に向けてスタンドから座布団の雨が降るという甲子園のプロ野球で前例のない異様な光景を生み出した。      それだけファンはこの勝利に酔いしれた。

6月27日

南海戦(甲子園)で別当が二盗を企てた際、左足腓骨を斜骨折して入院。

7月

田坂岩男、取締役就任。
富樫、田中の両専務を補佐し、経理部門を担当。

8月

「栄冠は君に輝く」(全国高等学校優勝野球大会の歌)が夏の甲子園大会で合唱された、以来、夏の開会式で毎回歌われている。
歌詞は全国から公募し5252編の中から加賀大介の作品が最優秀に選ばれ、作曲は古関裕而が行った。
この大会歌は伊藤久男が歌い日本コロムビアからレコードが発売された。

8月11日

大陽戦で若林と大陽・木下勇の合計投球数が「165」の最少記録。(1940年8月11日の戦前の記録は除外されていた)

8月16日

米大リーグの生んだ偉大な球人、ベーブ・ルース死去。

8月17日

横浜ゲーリッグ球場で巨人対中日がプロ野球初のナイトゲームとして行われた。
阪神はこの日同球場でデーゲームの大陽戦を行う二部興行であった。

8月22日

戦線離脱していた別当が復帰。

8月24日

南海戦(神宮)で梶岡忠義が球団史上3人目のノーヒットノーランを達成、3対0で勝利。
阪神が神宮球場を初めて使用した日での達成であった。

9月4日

西京商業・北本重二投手の登録申請を連盟に提出。

9月6日

大陽戦で真田重蔵(後に阪神)にノーヒットノーランを喫し、0対3で敗戦。     この敗戦でチームタイの6連敗。

9月7日

大陽の北本の登録申請書が連盟に届いた。
阪神は田中常務が北本自身と、大陽は父と契約をまとめたことから起きた二重契約問題で、契約日で遅れた阪神が折れる形で解決した。

10月2日

藤村が金星戦(甲子園)でプロ野球史上初のサイクル安打達成。      当時、日本に「サイクル安打」の概念はなく、17年後の1972年(昭和47年)に阪急在籍のダリル・スペンサーが達成したことがきっかけとなり、第1号だった藤村の偉業に光が当たった。

10月3日

巨人戦(甲子園)で藤村の捕手・武宮への体当たりを巡り、巨人が抗議し、46分の紛争。
試合は6対5でタイガース、サヨナラ勝ち。
この体当たりは「猛人」藤村を象徴するプレーとして語り継がれる。 

10月16日

中日戦で、別当、藤村富、玉置が1イニング3本塁打、さらに別当、藤村富は2打席連続で本塁打を放ち1試合5本塁打。

シーズン最終成績は70勝66敗4分け、優勝の南海に17ゲームの大差をつけられての3位。
チーム打率.262と打率1位は保ったが、若林、別当、藤村富、土井垣、金田、呉、長谷川、玉置、野崎ら故障者が続出した。
藤村がプロ野球史上初の100打点突破(108打点)、2年連続打点王となる。
この年ペナントレースでは、連盟と共同通信社と協定を結び地方巡業試合を行い、五十近い都市で公式戦を開催、後年全国的にプロ野球が人気を得る伏線になった。
また同一カードで地方を巡業することが主催社の負担を軽くすることから部分的に三連戦方式が初めて採用された。

11月20日

第十二回オールスター東西対抗戦開催。
東軍が5勝4敗で優勝。

12月4日

本堂保次が大陽球団との契約更改を拒否し、阪神に復帰。
しかし本堂が拒否した理由に大陽の選手に対し陰当を欠く発言があり大陽球団が連盟に提訴、一年間出場停止の処分を下した。

この年、若林は「タイガース子供の会」を自費で立ち上げ、自ら代表に就く。
球団公認で、同会は若林退団後も活動し2003年(平成15年)まで存続、翌2004年(平成16年)からは「阪神タイガース公式ファンクラブKIDS」として今に通じている。
この年、「デイリースポーツ」が神戸で創刊。

1949年(昭和24年) 

1月2日

朝日新聞厚生事業団主催正月大会開催。
5試合を3勝2敗。

2月10日

本堂が阪神復帰、八百長発言で連盟から「一年間の出場停止」処分を通告された。 

2月19日

第二十一回対阪急定期戦。
2勝1敗で優勝。 

2月23日

GHQ(連合国総司令部)経済科学局長、ウィリアム・F・マーカット少将が日本野球連盟コミッショナーに就任した正力松太郎に2リーグ制を持ちかけた。       このころからマッカートは経営者側代表として正力、選手代表として若林に向けて2リーグ制推進を呼びかけていた。 

2月25日

甲子園球場正面入り口傍らに建設したベーブ・ルース碑の除幕式。       翌日から巨人、南海を招いてリーグ戦を行った。
阪神は3敗1分け。 

3月11日

第十回毎日杯争奪戦開催(西宮)。
優勝戦で南海に敗北。 

3月18日

第十二回読売優勝大会開催(後楽園)。
決勝で東急を破り優勝。 

3月25日

第七回名古屋優勝大会開催(中日)。
準決勝で優勝した中日に1対2で敗退。
3大会共、結果的にこれを最後に幕を下ろした。 

4月2日

江藤正を登録申請、承認された。
しかし南海が重複して申請、9月14日阪神から南海にトレードする形で落着する。 

4月13日

この日の東急戦(西宮)で東急・櫟信平が放った右翼の打球を本塁打と判定した審判団に対し無効試合の提訴、連盟は審判団のミスジャッジを認め無効試合を決定。 

4月15日

日本野球連盟コミッショナーの正力松太郎が「三大声明」を発し、東京で記者会見を開き、「2大リーグの育成」「東京に新球場建設」「米球団の招待」を公表。 

4月16日

南海戦(後楽園)で金田正泰がサイクルヒット達成。
前年の藤村以来球団二度目の達成だが、一リーグ時代これ以外の達成は無く、この珍重すべき記録は阪神独占となる。 

4月24日

巨人戦(甲子園)で観衆が場内にあふれ、整理のため28分間中断、進駐軍が空砲を撃ち静めた。

5月2日

正力は公職追放中のためコミッショナーを辞任、連盟名誉総裁となった。 

5月4日

巨人戦(後楽園)で球場スコアボードの誤りから西江一郎が1試合に二度出場し規則違反、関係者は処罰の対象となった。

5月11日

この日から5月15日まで甲子園球場で行われた公式戦7試合を「第2回甲子園キング選定大会」と釘打ち開催。

5月22日

広島綜合球場での東急戦で観衆が場内にあふれ、諸規則取り決めのため試合開始が30分遅れた。 

7月4日

連盟から本堂への一年間出場停止処分の裁定分中の「諒とすべき事態」を生かし、阪神からの登録申請を三か月止めたのち承認、翌日から本堂はメンバーに加わった。
4月13日の東急戦の記録が取り消された。(阪神の敗戦が一つ減った。) 

8月1日

若林が目黒雅叙園で高松宮宣仁親王と懇談、「タイガース子供の会」の活動を伝え、活躍に励むようにと伝言をいただいた。 

8月8日

毎日新聞東京本社・社会部長で、毎日球団代表となる黒崎貞治郎がタイガースからの主力選手引き抜きに取り組むため若林を大阪・北新地の割烹「甚五郎」に呼び出し会談、監督就任も要請したとされ、若林の心をつかんだ。 

8月10日

大陽戦で別当がチーム初の1試合3本塁打。 

8月14日

大陽戦(門司)を18対5で勝利し、10日(高松)、12日(松山)に続き3試合連続二ケタ得点の球団始まって以来の記録をつくった。
同一チーム相手としては一リーグ時代唯一のものになった。 

9月1日

ラビットボールの採用。

9月4日

巨人戦(後楽園)で0対9で完封負け、連続得点記録が95試合でストップ。1リーグ記録、昭和53年ヤクルトの129で破られた。 

9月21日

毎日新聞から日本野球連盟に加盟申請が出された。
正力の働きかけによるものだったが、これが二リーグ制の導火線となった。 

9月23日

球団初の7連敗を喫する。 

9月23日頃

球団常務・田中義一の命を受けた土井垣武、外野手・中田金一が名古屋で町工場を営んでいた松木謙治郎を訪れ、監督としての復帰を懇願したが松木は断った。
その後も松木への監督打診があったが、松木は球団幹部との面会もすべて断った。 

9月29日

日本野球連盟、日本野球クラブで最高顧問会議を開き、「10チーム案」が出される。
これは、現状の8チームから2チーム増やして、10チーム1リーグで優勝       を争う案であった。

9月30日

日比谷の東拓ビル内「ツクバ」で各球団の代表者会議が開かれる。      「10チーム案」、「新規参入を認めない」の二つの意見に分かれた。      当初、阪神は新規参入に賛成の立場をとっていたが、あくまでも〝様子を見ながら〟の賛成をしながら新規参入をもくろむ毎日新聞の動きを見ていた。      議論は翌日まで2日間に及ぶが、いったん散会となる。 

10月

前年、発足した「タイガース子供の会」が機関紙「少年タイガース」を創刊。
若林の妻、房や娘たちが甲子園球場前で入会申込書を配り、会員は全国で8500人を超えた。

 

10月8日頃

連盟・鈴木龍二の密命を受け、東急球団代表・猿丸元が持参した「1リーグ
・10球団→2リーグ・12球団→2リーグ・16球団」への移行を推進するという内容の「連判状」に、オーナー・野田が署名し印を押した。この時、代表・富樫は不在であった。 

10月12日

3Aのサンフランシスコ・シールズ、日米野球のため来日。        連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官、ダグラス・マッカーサーの招待、進駐軍慰問を兼ね来日、巨人、全日本、全関東、全関西らと対戦した。 

10月21日

シールズが試合を行う西宮球場で富樫が毎日加盟に反対する巨人の球団代表・四方田義茂と接触、四方田から「甲子園球場を満員に出来る巨人戦をなくしていいのですか」と訴えられ、提携を約し今に続く「伝統の一戦」を守った。
この時、富樫が「巨人側につくかわりに、阪神をやめたときはリーグで引き取る」という証文を四方田との間で取り交わした。
実際、連盟は富樫が阪神退団後も他界するまで身分を保証し、顧問として面倒をみた。 

10月26日

日米野球の合間、大阪でマスコミ非公開の秘密会議で連盟代表者会議が開催され、後の阪神の「寝返り」が明らかとなり、連盟は分裂状態となる。 

10月27日

土井垣が名古屋から乗り込んだ東京行きの列車内で毎日・黒崎と遭遇。 

10月28日

毎日社長・本田が土井垣に入団を要請。 

10月30日

大映、東急、南海、阪急、阪神の連判状の5球団の幹部が集まり、「翌日の会議で1リーグ・10球団が多数決で決まらないようなら、5球団は連袂脱退して、新リーグをつくる」ということまで決めようとしていたという毎日側会議へ出席するため上京した野田を四方田がつかまえ、阪神電鉄東京支社で面会、出席を阻止した。 

10月31日

連盟代表者会議で、冨樫は「毎日の加盟に伴う2球団増の1リーグ・10球団制」に反対した。
野田は、毎日の加盟には賛成だが野球のことは富樫に任せてあると逃げに回った。
後に野田は「毎日の加盟には賛成だが2リーグに分かれた場合、毎日と同一リーグでやる約束はしていない。裏切ったのではなく経営上から当然の道を歩んだだけだ」語っている。
この時、阪神は寝返ったようにみえるが、実ははじめから親会社の重役会議で1、毎日を入れる、2、巨人とは離れないという線を決定しており、矛盾する読売、毎日の両者を立てるため、野田と富樫が役割を演じ合ったのではないかとされる。
当時「阪神の裏切り行為」として喧伝され、批判の対象にされたが、2リーグ分裂が必至になった時点で、読売側の誘いに応じたからといって、必ずしもそれが背徳行為になるとするのは、10球団制と2リーグ制を混同したものの誤った結論とされる。

11月6日

甲子園で1リーグ時代最後の巨人との「伝統の一戦」(甲子園)。
この試合は落とすが、連盟発足からの対巨人通算成績は85勝84敗3分けで、1リーグ時代はほぼ互角ながら、1試合勝ち越していた。 

11 月10日

若林が毎日・黒崎と会談、監督兼投手で入団要請を受けた。 

11月13日

大陽戦(沼津)で若林が史上初の500試合登板達成。 

11月16日

阪急戦(明石)で若林が阪神での公式戦最終登板、しかし1対7で完敗。 

11月17日

毎日新聞大阪本社で新球団結成式が行われた。 

11月18日

甲子園球場・貴賓室で最高殊勲選手選考委員会がひらかれ、藤村富が選出された。 

11月21日

無効試合となった4月13日の東急戦の再試合が後楽園で行われ、10対7で勝利。

シーズンは65勝69敗3分け、勝率.485で6位、球団創設以来最悪となった。
優勝は巨人。
藤村が46本で初の本塁打王に輝く、この年のタイガースで注目された別当との本塁打王争いを制してのものだった。
藤村はこの年から「物干し竿」と呼ばれた37㌅(94㌢)の長尺バットを使用し、本塁打狙いの打法に改造していた。
打点は142打点を挙げ、3年連続打点王。
藤村の46本塁打、187安打、142打点はいずれもこの時点での日本記録であり、打率は2位(.332)となり三冠王は逃すが、最高殊勲選手(MVP)に選出された。
打球がよく飛ぶ「ラビットボール」が採用され、ラッキーゾーン設置の効果も出てチームは137試合で141本の本塁打を記録した。

11月22日

東京・目黒雅叙園で開催された連盟代表者会議で初めて議事録に「二リーグ」が記され、「二リーグ」制移行が決まった。
阪神は親毎日派の事前の誓約を反故にし、読売側のリーグにとどまると通告。
冨樫は巨人・四方田義茂と提携の道を探る。

11月26日

東京・丸の内の東京会館別館で開催された顧問(オーナー)・代表者合同会議で日本野球連盟は解散、巨人、阪神側はセントラル・リーグを宣言した。       会議後、毎日新聞東京本社別館で阪急、大映、東急、に新加盟の毎日、近鉄、西鉄が集まり、屋上からは「太平洋野球連盟生まれる」という垂れ幕が下がった。
球界再編は正力のリーグ拡大構想から新規加盟申請が相次ぎ、二リーグ分立という形で決着する。
後に「寝返り」などと裏切り者扱いされた阪神だが、一リーグ制から二リーグ制に変わった状況では、背徳行為とは言えないであろう。       この頃、日本野球連盟には加入申請が相次いでいたが、正力指名の毎日の加入に同意する旨の盟約書・連判状に阪神ではオーナー・野田誠三が署名、球団代表の富樫の欄は空白だった。
これにより、14年の歴史を築いた日本野球連盟は解体され、プロ野球協議会が新設、議長に正力が選出され、セントラル・リーグ、太平洋野球連盟が誕生することとなった。 

12月1日

大陽と松竹の提携合併による「松竹ロビンス」が成立、セントラル・リーグ結成。 

12月2日

オールスター東西対抗戦開催。
2日後楽園、4日中日、6日甲子園で行われ、一リーグ時代最後の東西対抗となった。

12月10日

シーズンを5位で終えた阪神はこの日から12月25日まで、発足したばかりのセ・リーグPRを兼ねて巨人と帯同遠征を行い、浜松から山陽路、九州と巡った。
スポニチが若林の阪神退団・毎日移籍を報じた、10月下旬に若林はこの決断をしていた。
この遠征期間中は引き抜き、引き止めの策動が行われており、土井垣も毎日からの手付金を受領していた。  

12月14日

 遠征中、若林は奈良少年刑務所を訪問し講演を行い優勝盾を寄贈。

  

12月15日

セントラル野球連盟発足。
阪神、巨人、中日、大陽(松竹)に新加盟の大洋漁業、西日本、広島カープスの7球団が東京・有楽町の読売新聞社本館で代表者会議を開き正式に結成、翌年には国鉄が加盟し8球団となった。
初代会長に読売新聞の安田庄司が就任。  

12月18日

平和台球場での巨人とのオープン戦で、入場時の混乱で小学生二人が死亡、一人が重傷を負った。  

12月22日

四方田(セ)、猿丸(パ)、鈴木(連盟)会談。
10年選手移籍制限に意見一致せず、球界は選手争奪の戦国時代に入った。  

12月24日

倉敷で毎日・黒崎に対し、若林、土井垣、本堂、呉が契約書にサイン。  

12月25日

連盟が定めた所属球団との優先交渉期限であったこの日、阪神は毎日入りを決めている若林、呉に条件提示を行うが2人は拒否。
この日の試合後、若林が選手たちのもとへ退団の挨拶に行こうとするが、球団職員に拒否される。
土井垣が毎日と正式契約。  

12月27日

 別当が阪神の慰留を拒否し、毎日入りを表明。  

12月28日

 田中が松木に監督就任を要請。  

12月29日

松木が監督就任要請を受諾、41歳、選手兼任で監督就任。         主将の藤村を助監督、御園生を主将に指名した。  

12月30日

松木の監督就任を発表。
若林、別当、本堂、呉が毎日新聞大阪本社で誓約書に署名。  

12月31日

若林、別当、呉、本堂、土井垣、大館の主力選手の毎日移籍発表。
阪神から毎日への大量引き抜きは、阪神が新加入賛成から反対に寝返ったことの意趣返しだったとされる。
またこれは当時の阪神球団への待遇面の不満からでもあった。
戦争で被害の大きかった阪神電鉄は復興に莫大な金がかかり、赤字の球団に対し、給料も上げられない事情があった。

二リーグ分立により球界は無法状態に陥り、引き抜き合戦が展開され、翌年開幕まで、50人以上の選手が移籍する。
阪神では、在籍時球団最多の233勝を挙げた若林、別当、土井垣、本堂、呉らの主力選手が新球団・毎日オリオンズに移っていった。こうした情勢に対応、自らの手で選手を育てる以外、近い将来チームの戦力増強をはかる術はないという判断から二軍制度を設けた。
フロントも浅野秀夫を球団総務課長、森田忠勇が二軍担当、青木一三が二軍マネージャー補佐に就いた。この年から、プロ野球のラジオ中継が本格的に増加していった。

1950年(昭和25年) 

1月2日

正月大会開催(西宮、甲子園)。
セの阪神、松竹、パの阪急、南海、東急が参加、3勝2敗。
関西正月大会はこの年最後となった。 

1月18日

セントラル・リーグが東京劇場で結成披露式を行った。 

1月26日

あまりにもひどい引き抜き合戦をみたGHQマッカート少将が、両リーグに対して、「引き抜き行為を一掃するよう」声明書を発表。
セ・パ分裂の際、巨人側に寝返ったことで毎日は、阪神を目の仇にし、阪神が引き抜きの被害を一番受けた。 

2月

奈良少年刑務所で「若林杯争奪」の第1回大会開催。
当初は野球、後にソフトボール大会として毎年開催され今も続いている。

 

2月6日

セ・パ両会長が、選手争奪に関する覚書を取り交わした。 

2月13日

阪神、毎日両球団は大阪で会談し、移籍に関する覚書を交わし、一応移籍騒動は決着する。
この覚書は両リーグ会長の判も押された物々しいものであった。 

3月3日

セ・リーグ結成記念トーナメント大会「春の野球際」開催(甲子園)。      3位決定戦で敗北、優勝は西日本。 

3月8日

日本選手権試合、本年より挙行決定。 

3月10日

セントラルの八球団は、下関市営球場と平和台球場に分かれて、開幕シリーズ開催。
阪神は下関で中日に0対5で完敗。

3月16日

国鉄戦(倉敷)で田宮謙次郎が9回2死まで無得点無安打無四球で日本プロ野球史上初の完全試合達成目前に迫りながら安打を浴び、大記録を逃す。      直後、田宮は肩の故障が悪化し野手に転向。 

3月30日

大洋戦(松山)で後藤次男が1試合16塁打を記録(3本塁打、2二塁打)。

3月

藤村富らタイガースナインが出演した松竹映画「栄光への道」公開。

4月2日

松竹戦(衣笠)で後藤次男が第1打席で左本塁打、8打席連続安打の記録。
この間、塁打25となり「連続打席最多塁打日本記録」となった(当時)。 

4月12日

選手引き抜きに関する諸問題の解決のため組織された調停委員会が答申書発表。

4月18日

中日戦(西大寺)で両チーム本塁打11のセ・リーグ新記録(阪神4、中日7)。 

3月~7月

二軍が松竹、巨人の二軍と帯同遠征に出る。

4月25日

中日戦でプロ野球初の「偵察作戦」を藤村の提言により敢行(相手の先発投手が読めない時、登板予定の無い投手をスタメンに入れる作戦)。 

藤村が歌う「僕等の野球」がコロムビアから発売。 

5月25日

藤村が広島戦(甲子園)で2度目のサイクル安打達成。 

7月4日

くすぶり続けていた両リーグ間の引き抜き問題が両リーグ会長の会談で和解した。 

7月21日

富樫が病で専務取締役辞任、田中義一常務取締役が球団代表に就任。

8月3日

西日本戦(甲子園)で9本の二塁打を放ってセ・リーグ新記録。 

9月21日

広島戦(飯田坂下)で藤村が球団初の通算100号本塁打達成。       同試合で藤村、徳網、白坂の1イニング3ホームランも記録。 

9月30日

国鉄戦(甲子園)で藤村が史上3人目の1000本安打達成。 

10月6日

中日戦(大阪)で22失点の球団最多失点記録、両チーム計39安打のセ・リーグ新記録。 

11月7日

国鉄戦で渡辺博之が5度出塁し5残塁の記録。

シーズンは70勝67敗3分け、4位(8球団中)でAクラスに食い込む、松竹ロビンスがセントラル・リーグ初代優勝チームとなった。
藤村が.362でセ・リーグ最初の首位打者を獲得、シーズンで放った191安打は1994年(平成6年)、イチローが210安打を放つまで長くシーズン最多安打だった。
打点王は逃すが146を挙げ自己最高を更新。

11月22日

この日から日本プロ野球史上初の日本シリーズが松竹と毎日の対戦で行われ、28日に毎日が制した。

12月9日

セ・リーグ東西対抗戦開催。
セ、パ両リーグ別個で東西形式のオールスター・ゲームが行われた。      セは24日まで9試合を行い、藤村富が最高殊勲選手、長谷川が最優秀選手となった。

12月17日

プロ野球機構と日本社会人野球協会との間に「4月1日から11月30日の間はノンプロ所属選手を引き抜かない」とする暫定契約が結ばれた。

この年、二軍は松竹、巨人の二軍と帯同、長期にわたって北海道各地を転戦した。日本プロ野球で各球団に二軍が普及していくのはこの1950年代以降のことである。
シーズンオフに西日本が消滅、セ・リーグは7球団となった。


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