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阪神タイガース 詳細年表

私は神奈川県在住の阪神タイガースファンです。
タイガースファンになって以来、タイガースに関する書籍、映像、音声等かなりの数のものを見たり聞いたりしてきました。
現在もタイガースファンは全国に沢山おり人気球団となっていますが、今まで見てきたものから詳細な年表を作成しようと思いました。
もしタイガースの歴史に興味がある方は目を通していただければ幸いです。どうかよろしくお願い致します。

作成するにあたり以下のように注意致しました。
・主に阪神タイガースに関しての事件を扱い、シーズン中の試合に関する出 
 来事は毎年シーズン100試合以上を行っていることから主な出来事があ 
 った試合のことのみに留めました。
・同様に選手個人の事柄・記録等に関しての詳細は主に球団史に大きく係る    
 選手、監督等に関して掲載するに留めました。
 但しその判断は私個人によるものなので私個人の思い入れによる不平等・
 不満等はあるものと思うがご容赦いただきたく存じます。
・阪神タイガースのことではないが阪神甲子園球場、またはそれに関するこ
 とは必要に応じて記載させていただいた。
・同様に阪神タイガース自体の出来事ではないが阪神タイガースに影響が及
 んだことに関しても必要に応じて記載させていただきました。
・文献によって若干日にち・詳細が異なるものもあるため、そういった場合
 は私個人で判断、文献の信頼性等により異なり誤りもあることもあること
 をご了承いただきたく存じます。
・記載誤り、新たな項目については今後も修正を行っていきたいと思いま
 す。

まず今回は球団創立の1935年(昭和10年)までを記載させていただきたく思います。
よろしくお願い致します。

1842年

阪神電鉄・初代社長となる外山脩造、越後長岡藩士の家に誕生。

1865年

 
ハワイ・ホノルルに州立高校のマッキンレー・ハイスクールが創立。
この高校のマスコットがトラであり、密接な交流があったプリンストン大学にならったのではないかとされており、野球、アメリカンフットボールなどのスポーツ部のニックネームも「タイガーズ」だった。

1867年(慶応3年)

7月23日

兵庫県氷上郡黒井村(現丹波市春日町)に於いて後の阪神電鉄専務三崎省三誕生。

1887~1888年(明治20~21年)


外山脩造、欧米の商工業を視察中、ニューヨークの公園で電気で走る鉄道を見て、電鉄事業を思いついた。

1895年(明治28年)


外山脩造、藤田財閥創立者・藤田伝三郎らと阪神電気鉄道株式会社発起人 会を立ち上げた。
後の阪神電鉄会長・野田誠三、兵庫県姫路市で誕生。

1898年(明治31年)  

1月

阪神電鉄が関西私鉄五社の二番手で、神戸と大阪の財界人により、両都市をつなぐ路線として別の名前で創業。

1899年(明治32年)


外山脩造、阪神電気鉄道株式会社(阪神電鉄)設立。
前年創業した神戸・大阪間路線が阪神電鉄の名となる。 

6月

創立間もない阪神電鉄初代社長・外山脩三に見出され三崎省三、技師長として入社。

8月

三崎、外山から米国出張の指令を受け、翌9月から約4か月間、ニューヨーク、シカゴ、ミルウォーキー等27都市を巡る。
目的は大都市間の交通事業についての視察であった。

1903年(明治36年)


第一回早慶戦開催。

1905年(明治38年)

4月

阪神電鉄、大阪・出入橋~神戸・三宮間に本線開通、営業開始。
日本初の都市間高速鉄道で、これにより大阪神戸間の阪神地区には「阪神間モダニズム」と呼ばれる西洋色の濃い独特の文化が生まれた。 

1907年(明治40年) 

4月

阪神電鉄、西宮を流れる川の畔に香櫨園遊園地開設。
動物舎、奏楽堂、博物館等があり阪神電鉄も新駅を設置し、資本参加。
日本初のウォーターシュート(急流すべり)が話題になった。

1908年(明治41年)


阪神電車では「市外居住のすすめ」という小冊子を出し、子育てには風光明媚で空気の綺麗な阪神沿線が最適であると説いた。 

11月~12月

初のアメリカ・プロチーム、リーチ・オールアメリカン来日、東京連合軍等と対戦し全勝。
リーチ・オールアメリカン来日により、神戸・東遊園地が使用出来なくなったシカゴ大学が球場を物色、大阪毎日新聞社が阪神電鉄に話を持ち込み、技術長・三崎省三、会計課長・山口覚二が二週間で香櫨園遊園地内にグラウンドをつくり上げた。

1909年(明治42年)


社団法人日本運動倶楽部運営の羽田運動場が京浜電気鉄道の助力を得て建設された。
電車会社が沿線に遊園地、運動場を建設し、経営に乗り出す先鞭をつけた。

1910年(明治43年) 

早大の招待によりシカゴ大野球チーム来日。
関西でも国際試合開催を計画した大阪毎日新聞が球場を物色、阪神電鉄に話を持ち込み、技術長・三崎省三、会計課長・山口覚二が応じる。
2週間で香櫨園遊園地内の運動場に急造の野球グラウンドを造る。 

10月25日~27日

シカゴ大学と早稲田の試合が行われた。
試合は開催出来たが、粗末なものだったため、本格的な球場建設の必要性を感じる。

1911年(明治44年)


この年から1940年(昭和15年)まで毎年春秋に開催されていた大阪実業野球大会 に阪神電鉄は何度となく出場し、好成績を残していた。

1913年(大正2年) 

9月

香櫨園遊園地が廃園。 

12月6日

日本における初のプロ野球試合、ニューヨーク・ジャイアンツ対シカゴ・ホワイトソックスが三田綱町の球場で行われた。

1914年(大正3年)


この年から阪神電鉄は「郊外生活」という月刊誌を発行し、沿線住民の生活啓蒙に努めた。 

4月

阪神電鉄が鳴尾競馬場内側の空き地を年800円で借り受ける契約を結んだ。

1915年(大正4年) 

8月18日

全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会=夏の甲子園大会)始まる、当初阪急沿線の大阪・豊中で開催。


この年、後に球団社長となる小津正二郎が三重県で生まれた。

1916年(大正5年) 

1月

阪急創業者・小林一三、プロ野球の構想を早稲田大野球部にもちかけるが河野安通志は「時期尚早」と回答。 

大阪実業野球大会、1回戦で阪神電鉄は百三十銀行に7対1で敗退。


この年、阪神電鉄初代社長・外山脩造、74歳で他界。

1917年(大正6年)


阪神電鉄、全国中等学校優勝野球大会主催者の大阪朝日新聞に大会の誘致を行い、阪神沿線・西宮の鳴尾競馬場内に野球場を造る(2面取れた、設計は三崎)。
第3回全国中等学校優勝野球大会がこの鳴尾球場で開催、以降この大会は1923年(大正12年)の第9回大会まで鳴尾球場で開催。
大阪実業野球大会・春季大会で阪神電鉄優勝、秋は津田勝五郎商店を破る。

1918年(大正7年) 

8月16日

第4回全国中等学校野球大会、各地に起こった米騒動のため中止。


この年、大阪実業野球大会、春秋共に決勝で津田商店を破り阪神電鉄優勝。

1919年(大正8年)


東京・戸塚球場で行われた美津濃主催の全国実業野球大会で阪神電鉄、優勝。

1920年(大正9年) 

5月

大阪朝日新聞社主催の全国実業団野球大会(鳴尾)に阪神電鉄出場、決勝へ進んだが増田貿易に敗れる。 

11月

コースト・リーグ主体のアメリカ職業野球チーム来日、全ナショナル等と対戦し全勝、鳴尾球場も使用された。

    
この年、大阪実業野球大会で阪神電鉄春秋優勝、前年秋から三季連続優勝となった。
鳴尾で行われた全国実業野球で阪神電鉄、東京電気に決勝戦で敗れる。
この年早大OBの河野安通志らが日本最初のプロ野球チーム「日本運動協会(通称・芝浦協会)」設立。
この年、阪急が大阪・神戸間に神戸線をはしらせた。

1921年(大正10年) 

過去に氾濫を繰り返した武庫川を大々的に改修する計画が兵庫県議会を通過。
戸塚で行われた全国実業野球大会、阪神電鉄、セールフラザーに決勝戦で14対0と大敗。


この年、久万俊二郎誕生。
この年日本で二番目のプロ野球団、天勝野球団が設立された。

1922年(大正11年) 

10月30日

阪神電鉄、武庫川支流の枝川、さらに支流の申川の河川敷22万4千坪を兵庫県の払い下げを受け購入。
県は氾濫を繰り返す武庫川の堤防強化のため、支流を廃川とする方針であった。阪神は廃川鉄橋(今の甲子園駅)の北側を住宅地、南側をスポーツセンターと遊園地にする計画であった。


この年、全国実業野球大会で阪神電鉄、三年ぶりに優勝。
野田誠三、京大工学部を卒業、阪神電鉄入社。

1923年(大正12年)

8月19日

全国中等学校優勝野球大会・第9回大会準決勝、甲陽中―立命館中戦に於いて朝から超満員となった観客が、観客席からグラウンドになだれ込み試合が1時間以上中断するという事件が起きる。
阪神電鉄本社は、都市交通視察のため米国出張でニューヨーク滞在中の車両課長・丸山繁に「米国の球場を調べ、設計図を持ち帰れ」と指示、「鳴尾がパンク」の電報を受け取った丸山はポログラウンズの設計図を持ち帰る。
阪神電鉄は「鳴尾パンク事件」で主催の朝日新聞の要請もあり大球場建設を急ぐこととなった。
決断を下したのは、当時社長不在で実質ナンバーワンの実力者である専務の三崎であった。
設計責任者は京都帝大(現京都大)卒業入社2年目、のち電鉄社長、タイガースオーナーとなる野田誠三。
学生野球界の大御所、小野三千磨、加藤吉兵衛、小西作太郎、佐伯達夫、腰本寿ら12人による球場建設顧問委員会で意見を集めた。 

9月1日

関東大震災、芝浦協会は本拠の芝浦球場を資材置き場として戒厳司令部に接収され、財源難も伴い解散。
天勝野球団もこの混乱により解散した。 

9月

後にタイガースに入団する若林忠志がマッキンレー・ハイスクールに入学。

11月28日

設計図が取締役会で承認され、「枝川運動場」(仮称)建設決定。

11月

中央運動社創設の京阪神実業大会に阪神電鉄出場、神戸鉄道局に敗れる。
全国実業野球大会(戸塚)、阪神電鉄、広瀬大吉商店に敗れ連覇を逃す。

1924年(大正13年) 

1月1日

三崎が初詣に出かけた西宮えびす総社には「大正十三年甲子之歳」と横幕、看板が掲げられていた。
この歳は十干十二支の最初の組み合わせ、甲子という60年に一度の縁起の良い年であることから球場名は「甲子園」とした。 

2月27日

経営難の芝浦協会を阪急が引き受け、宝塚運動協会(通称宝塚協会)として再起。 

3月11日

「甲子園」地鎮祭 

3月16日

甲子園工事着工、工事請負は大林組、総工費約100万円。 

4月

第一回選抜中等学校野球大会(現選抜高等学校野球大会)が名古屋・山本球場で開催。 

7月末

甲子園第一期工事完了。 

7月31日

鳴尾村一帯で提灯行列が行われる。 

8月1日

「甲子園大運動場」(甲子園球場)完成。
開場式式典は午前7時から総鎮守、鳴尾八幡宮宮司・田中良全の祭文奏で始まった。
三崎、野田出席。
球場開きを記念し、阪神沿線150の小学校から2500人が集まり、陸上競技大会が行われた。
甲子園はフェンウウエイパーク、リグレー・フィールドと並び「世界の三大スタジアム」の一つと称される。 

8月13日

甲子園で大阪朝日新聞社主催「第10回全国中等学校野球大会」(夏の大会)開催。
夏の大会4日目で観衆4万人を数え満員、当時アルプススタンドも無く収容人員は4万5千人だった。 

8月16日

第一神港商業対早稲田実業戦で神港の山下実が右中間を破るランニングホームランを放った。
これが甲子園初のホームランであった。
この大会計19本のホームランが出たが、いずれもランニングだった。 

11月23日

全国実業野球大会、阪神電鉄が尾張電鉄の新球場で神戸鉄道局を破り二年ぶり三度目の優勝。 

11月

早大OBの稲門倶楽部と慶応先輩団で組織された三田倶楽部の試合が関西で初めて宝塚と甲子園で行われた。 

12月

甲子園外壁にツタ植栽。


この年、阪急電鉄の創業者、小林一三が関東大震災で打撃を受け解散した日本運動協会を引き取り宝塚運動協会と名付ける。
甲子園球場完成後、甲子園駅前の広場には外山の銅像が建てられる。
この銅像は戦時中の金属供出で取り払われてしまうが、台座は戦後まで残った。
この年、阪神電鉄、京阪神実業大会で杉村倉庫と優勝を争う。
この年、内務省が明治神宮競技大会を主催。
この年のパリ五輪に、戦時中に甲子園球場長となる石田恒信が水泳平泳ぎで出場。

1925年(大正14年)
 

3月31日

大阪毎日新聞社主催「第2回全国選抜中等学校野球大会」(春の選抜野球)が甲子園で開催された。
それとともに入場料を取るようになった。
甲子園外野右翼にスコアボード完成。(初代)
売店で人気だったのは、今も名物の〝コーヒーとカレーライス〟であった。


この年、慶応、早稲田、明治、法政、立教、東大で東京六学野球連盟が結成された。

1926年(大正15年~昭和元年) 

大阪朝日新聞の歌詞公募によって、全国中等学校優勝野球大会の初代大会歌「全国中等学校優勝野球大会の歌」(福武周夫・作詞、信時潔・作曲)が制定され、鳥取春陽により吹込まれたレコードが日本蓄音器商会の傍系会社オリエントレコードから「野球大会の歌」として夏の大会に向け製作され発売された。 

10月22日

明治神宮外苑野球場完成。
東京六大学野球連盟の本拠となり、ここで活躍した明治の松木謙治郎、法政の若林忠志、慶応の小川利安、立教の景浦将、早稲田の小島利男らが初期のタイガースで活躍することになる。


この年、阪神本線の甲子園駅から浜・甲子園までの路面電車・甲子園線、開通。

1927年(昭和2年) 

4月5日

甲子園で大毎対ローヤル・ジャイアンツの試合が行われ、ジャイアンツ4番のディクソンが中堅フェンス直撃の打球を放つ。
当時甲子園のフェンスは中堅の最も浅いところでも約127メートルあり、オーバーフェンスはもちろんフェンスを直撃した選手には賞金百円、当てた場所の氏名が記録された。
このディクソンが1号であった。 

大阪実業野球大会で阪神電鉄優勝。 

8月13日

甲子園で開催の第13回夏の大会で日本初のスポーツ実況中継(ラジオ)。

1928年(昭和3年) 

スタクトン邦人チーム来日、早稲田、明治等と対戦したが、このチームにハワイから19歳の若林忠志が同行していた。 

12月

甲子園の外野に芝生が張られた。


この年、国道線の上甲子園から甲子園間が開通。
この年、第5回全国高等専門学校野球大会の決勝大会が甲子園で行われた。
以後1934年(昭和9年)の第11回大会まで甲子園でこの決勝大会が行われた。

1929年(昭和4年)


前年、甲子園一帯で開いた阪神大博覧会の施設を再利用し、浜甲子園に甲子園娯楽場(後の甲子園パーク)を開く。
動物園、水族館、遊園地の総合レジャーランドであった。

2月23日

三崎、61歳で永眠。 

6月30日

阪神電鉄、宝塚運動協会と宝塚で対戦、6対3と敗れるも善戦。 

7月20日

甲子園にアルプススタンド完成。
木造20段だった両翼ファウルゾーン部分を内野席と同じ50段の座席を有する鉄筋コンクリート造りとした。 

7月

阪急の経営に移った宝塚運動協会も昭和金融恐慌、第2のプロチームの不在等から解散。 

8月13日

大阪朝日新聞に漫画家・岡本一平の甲子園のスタンドのイラスト、「そのスタンドはまた素敵に高く見える、アルプススタンドだ」との文が掲載された。
以降「アルプススタンド」の名称が定着していった。


この年、職業野球の〝生みの親〟といわれる、読売新聞社長・正力松太郎、後に職業野球連盟を立ち上げる鈴木惣太郎らと、アメリカに働きかけ、ベーブ・ルースの来日を働きかけるが成功にいたらなかった。
1921年(大正10年)代の阪神・阪急による計画的な街づくり開発によって、「阪神間」で花開いた建築・芸術・生活様式は〝阪神間モダニズム文化と称され、特に甲子園をはじめとする「七園」(西宮七園は甲子園、甲陽園、香櫨園、苦楽園、甲東園、昭和園、甲風園の阪神・阪急沿線のブランド住宅)の名は、付加価値の高い生活の場となっていった。

1930年(昭和5年)


武庫川湖畔に甲子園ホテル開業。
「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と併称される超一流ホテルであった。
設計は「近代建築の三大巨匠」フランク・ロイド・ライトの弟子、遠藤新が担当。

1931年(昭和6年)

7月18日

甲子園球場アルプススタンドに鉄傘建設。
内野スタンドにしかなかった鉄傘(スレートの屋根)がアルプススタンドまで延び、「大鉄傘」と呼ばれ外野を除く全スタンドが屋根で覆われた。 

10月29日

全米チーム14名の大リーグ選手来日。
読売新聞社がルー・ゲ―リックを中心とした全米軍、大リーガーを来日させ日本は国内最高水準のチームが臨んだが17戦全敗。
11月22日、23日、26日は甲子園で試合が開催された。
日米野球時、鈴木惣太郎と後に巨人の球団代表となる市岡忠男は職業野球を興すことを誓った。 

11月22日

大リーグ選抜のラルフ・シナーズが早大戦で甲子園の中堅外野フェンス直撃の三塁打を放った。
この時レンガ塀の打球が当たった場所には記念の〇印がつけられた。


この年、「全国中等学校野球優勝大会の歌」が戸山学校軍楽隊の吹込みレコードによりポリドールから発売された。

1932年(昭和7年) 

3月28日

文部省が「野球統制令」の4月1日施行を発令。
学生は学校長と文部省の承認なしに対外試合を行ってはならない等学生野球をすべて拘束するものであった。 

10月1日

甲子園1塁側アルプススタンド下に室内体育館、3塁側アルプススタンド下に長さ25メートルの室内温水プールが完成。
室内プールは国内初の一般開放された温水プールであった。
現在は両方とも室内練習場。

1933年(昭和8年)


田中隆造、阪神電鉄入社。

1934年(昭和9年) 

3月

甲子園「第一期改修工事」が行われた。
センバツを前に観客収容人数増をねらったものであった。
外野中央に凸形と時計台がシンボルの新スコアボード完成(2代目)、グラウンドの大きさにも手をつけ狭くなった。 

6月9日

正力、貴族院議員で大隈重信の養子である大隈信常と職業野球団結成のための発起人会開催。 

8月11日

甲子園敷地内に野球塔建設。 

11月2日

 ベーブ・ルース率いる大リーグ・オールスターが横浜港に到着。 

11月24日

来日した大リーグ・オールスターと全日本の試合を甲子園で行った。 

11月25日

甲子園で日米混合紅白戦。
阪神電鉄は日米野球の興行権を1万7千円で譲り受けていた。
甲子園は大観衆で埋まり2日間で7万円(今の貨幣価値で1憶2千万円を売り上げた。
このときのギャランティー支払いがもとで阪神電鉄は巨人の株を持つ。
このとき、全米チームは甲子園ホテルに宿泊、サインボールが残っている。 

12月26日

大隈を社長、正力らを取締役として「株式会社大日本東京野球倶楽部」創立、現在の読売ジャイアンツ(巨人)。
野球殿堂制度もこの年創設された。


この年、現在のJR、当時の省線が吹田・明石間を電化、同区間に三本の電車路線がならび、阪神・阪急両電鉄の競争もエスカレートしていった。

1935年(昭和10年) 

1月

ベーブ・ルース、日米野球時に甲子園で柵越えを打てなかったことがよほど悔しかったのか、「バカバカしい大きさだ」と甲子園への恨み節を吐いた。
アメリカチーム団長、コニー・マックも同様の発言で甲子園を批判した。
この頃、阪急の小林一三は関西四電鉄(阪神、京阪、大軌=近鉄、阪急)でプロ野球リーグの構成を計画、阪神にも加入を勧誘していたが阪神は参入をしぶっていたとされる。 

この頃まで阪神電鉄野球部は活動を続けた。 

春先

関大野球倶楽部(OB会)理事長・田中義一、関大後輩で倶楽部マネージャーだった中川政人を伴い大阪・梅田の阪神電鉄本社を訪れ、球団結成を働きかけた。
阪神側は事業課長・吉江昌世、同係長・富樫興一が応対。
この頃、巨人の総監督(後の球団代表)・市川忠男が富樫に球団結成の話を持ちかけた。
早稲田大学で市岡、慶応義塾大学で富樫は野球部に所属していたことから二人は旧知であった。 

5月

阪神電鉄の人事異動により今西与三郎が社長、専務・石井五郎、常務・岡喜太郎、支配人・細野躋が就任。 
 

7月6日

市川忠男が、後に「プロ野球の父」と呼ばれる読売新聞・正力松太郎の使者として阪神電鉄本社を訪れ球団設立を誘った。
応対した事業担当役員の細野は、甲子園で「試験試合」を行い、その結果で判断するという条件を読売側に示し、臨時に全大阪チームを組織し全国各地を転戦中の巨人と対戦することが決定。 

7月16日

巨人が北米大陸遠征を終え帰国。
五か月に及んだ遠征米国本土、カナダ、メキシコ、ハワイなどを転戦、マイナーや大学のチームと110試合を戦い74勝34敗1分の戦績を残した。 

8月

「日本野球協会」設立。 

中等学校野球二代目大会歌「全国中等学校優勝野球大会行進歌」(富田砕花・作詞、山田耕作・作曲)が制定され、夏の大会に合わせてコロムビアからレコードが発売された。 

10月1日

球団設立準備事務所を本社から数キロ離れた大阪・中之島の堂島河畔(当時、大阪市北区中之島2丁目25)、江商ビル407号室を月140円で借り構える。
部屋はわずか12坪(約40平米)で机が5個置かれ、電話が1本引かれており、常駐の事務員はタイピストの増田という女性1人のみ、入り口に看板も無かった。 

10月10日

ライバルの阪急に気づかれないよう極秘裏に準備を進めていたが、この日、読売新聞が「大阪でも職業野球団結成」と報じ、世間に広まってしまう。 

10月

設立総会に先がけ、チーム作りを進める。 

10月17日

巨人対全大阪の試験試合開催。
前日16日は土砂降りの雨で、試合開催が危ぶまれたが、当日未明に雨があがり水はけの良い甲子園は絶好のグラウンドコンディションとなる。
この日、もし試合が雨天中止となっていれば、阪神の球団発足は遅れたであろう。
8千人の観衆が入り内野席は9割方埋まり、有料入場者数は4486人と巨人球団史にあり当時としては望外の入りであった。
試合は2対1で巨人の勝利。
巨人・沢村栄治の快速球にスタンドは沸き、観戦した細野も満足し、興行的に成り立つと判断。
役員会を招集し、全会一致で球団設立を承認。
社長・今西与三郎も先の田中、中川の話を聞き、球団設立を決断。 

10月22日

広陵中の捕手、門前真佐人が富樫、中川に呼び出され対面、契約を交わし契約第1号となる。 

11月6日

初代主将となる大連実業団の松木謙治郎と契約。 

11月11日

後に「ミスター・タイガース」と呼ばれる藤村富美男、契約。 

11月

冨樫、田中が東京・渋谷区隠田(現同区神宮前)の若林忠志の自宅を訪れ勧誘するが断られた。 

12月1日

早大出身の初代監督・森茂雄と契約。
候補には、関大出身の本田竹蔵、明大助監督・谷沢梅雄らが挙がっており、谷沢は監督就任が決定していたが、明大監督就任のため断念していた。 

12月6日

急ぐ阪神はこの日、稟議書の決裁が下り、準備事務所にも「大阪野球倶楽部」の看板を掲げる。 

12月10日

「株式会社大阪野球倶楽部」(大阪タイガース)設立の第一回株主総会。
資本金20万円。
阪神は大阪・出入橋―神戸・三宮に電車を走らせて30年で、球団を持つことになった。
球団は近代住宅都市の文化資産そのもので、阪神間モダニズム文化の象徴的な存在でもあった。
球団名を社内で多数を占めていた「阪神野球倶楽部」ではなく「大阪野球倶楽部」としたのは今西の鶴の一声であった。
「阪神地区だけでなく、大阪の人たちもファン対象にしたい」との思いがあった。
巨人の「大日本東京野球倶楽部」への対抗心もあった。
初代会長(球団オーナー)は今西の祖父の縁から明治の元勲、松方正義の四男、松方正雄が就任。
当時、松方は日本放送協会(NHK)大阪放送局(JOBK)理事長や川崎造船所監査役等を務め関西財界に顔がきき、今も広く関西財界に支持される阪神の土壌は創設期に果たした松方の功績によるところが大きい。
専務・球団代表には富樫、田中は常務、中川は支配人となる。
大林組社長・大林義雄が監査役に就任。
球団のニックネームは電鉄社員内で公募、この日の直後から募集を開始。 
この時点で契約選手は9名、当時田中、中川には関西大学OBの本田武蔵を迎え、関大中心の球団を作る構想があったが阪神電鉄の構想は東京六大学各校と甲子園で活躍する中等野球界から選手を獲得するということであり、関大OB側から話が違うという理由で契約破棄が続出したこともあり選手獲得には難航していた。 

12月25日

川崎コロムビアに在籍していた若林と、今でいう契約金「割増前渡給料」は支度金9000円、移転費1000円の計1万円で契約合意。
大卒初任給90円、東京―大阪汽車賃6円の時代であり1万円は相当破格であった。
事業課長・吉江昌世が東京で契約合意し、本社経理に送金を依頼、野村銀行(現りそな銀行)堂島支店から振り込まれたが、東京で銀行に受け取りに行くと、あまりの大金に銀行が阪神電鉄幹部の身分を怪しみ、送金を拒んだ逸話が残っている。
球団から現役引退後は、指導者、大リーグにあるゼネラル・マネージャー(GM)の椅子も用意すると伝えられていた。 

12月

岡田宗芳、伊賀上、小川年安らを獲得し、12人で年が暮れた。


この年、全国実業専門学校野球連盟の関西高専大会が甲子園で行われた。
この大会に出場した高松高商には、タイガース社長となる小津正次郎(旧姓・桑名)が在籍していた。
この年、巨人はアメリカに遠征し、三か月でマイナーや大学のチームと110試合を戦い、74勝を記録。 

     

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