反出生主義の功利主義的検討による正義・哲学入門

はじめに

 反出生主義の名に馴染みがある者もあればない者もあろう。反出生主義とは端的に表現すれば「人間を新たに生み出すことを否定する思想」でありその最終的な目標として「人類絶滅」を掲げている。

 導出の理論的な根拠は功利主義である。より適切には功利計算の対象として選好ではなく快苦を採用した功利主義だ。快苦を対象とした功利主義においては、幸福の最大化と苦痛の最小化という観点から正義が構築されることとなる。

 この功利主義による検討からいくつかの(しばしば対立する)理由により、いずれにせよ「人間を新たに生み出すことの否定」とその結果としての「人類絶滅」が功利計算の結果導き出される正義であるとされる。本noteでは最も反出生主義者に有利な仮定を、仮に正しいものとして採用する。つまり「ホモ・サピエンスならびに同程度以上の知性を持つ理性的存在について、現存するものならびに今後うまれてくる全てのものは、その一生涯において生み出す幸福の総量よりも苦痛の総量の方が絶対に大きい」と仮定するわけである。

 もちろん現実においてはこの仮定は端的に誤りだと思われる。たとえば産まれたばかりの赤子に薬物で膨大な快楽を与えたうえで苦痛なく安楽死させればその子の一生における快苦の総量は快が上回ろう。ただし、これはベンサム的・量的な功利主義から一個人の快苦のみ観測した場合に得られる限定的な帰結であり、ミル的・質的な功利主義すなわち「満足した豚より不満足な人間である方がよい」とする立場などからは批判があろう。筆者はミル的な功利主義ならびに行為ではなく規則を対象に功利主義を構築する規則功利主義を批判し、ベンサム的な量的な功利主義、かつ行為功利主義を擁護するが、この薬物漬けの赤子の議論は忘れてよい。これから再度取り上げられることもない。本noteにおいては「これから産まれてくるであろう者を含めた全知的存在について、その一生涯において生み出す幸福の総量よりも苦痛の総量の方が絶対に大きい」ことが仮に正しいと設定されているからだ。先述の赤子は現実的に可能だが定義上存在しない。

 反-反出生主義者についてはかなり不愉快で受け入れがたい設定だろう。あまりにも反出生主義に都合がよすぎる。だが安心してほしい。本noteにおいては、上の仮定による功利主義のみによる検討から、あなたが子をなすことを否定するどころかむしろ是非子をなしてほしいと推奨することになる。

 このように言うと逆に反出生主義者は不安になるかもしれない。しかし、やはり安心してほしい。本noteは「人類絶滅」を擁護する。それどころか反出生主義者はまだぬるい、もっと徹底的にやれと批判することになる。


本論の特徴

1.本論においては功利主義的に反出生主義を検討する

 本論ではあくまで功利主義の範疇で、それも快苦を対象とした功利主義の範疇で反出生主義を検討する。

2.本論においては直観を用いた反出生主義批判を避ける

 1.から形式的に導かれることだが、ごく素朴に「子を産まないことは悪いことだ」「人類は存続すべきだ」という正義直観を筆者による攻撃の意図で用いることは本noteでは絶対にない。ただし、本noteはこのような感覚を持つことを否定するものではない。

3.本論においては自然に訴える論証を用いない。

 1.から形式的に導かれることだが、自然に訴える論証については以下を確認されたい。

 たとえば「生物が子をなそうとしないのは自然の摂理に反している」「進化論的に考えて生物は遺伝子の乗り物であり、淘汰圧により適応した遺伝子がプール内で最大化される。この試みに反するような試みは正義に反している」などといった類だ。本noteの筆者は自然に訴える論証の敵対者である。そもそも70年代の議論ですらリチャードドーキンスが「利己的な遺伝子」において自然に訴える論証を痛罵しているというのにしぶとく生きのこりすぎである。人類よりこっちの方がいいかげんに滅んで欲しい。ただし、本noteの検討では無関係なのでこの問題については議論しない。

4.本論では人の感情について人生における快苦総量以外考慮しない

 反出生主義についての生理的嫌悪感などは本noteの議論の対象にはならない。「反出生主義を口にするとまわりの人が悲しんで云々」も議論の対象にならない。ただし感情を無視するわけではない。なぜなら本noteは功利主義により反出生主義を検討するため、人生における快苦の総量は重要な問題である。ただし、「はじめに」で指摘しているようにその総量は本noteにおいて反出生主義者に有利なように「全知的生命体の人生の快苦の総量は必ず苦が勝る」と仮定している。

5.本論は哲学的興味による試みであり、政治的試みではない

 本論は「全知的生命体の人生の快苦の総量は必ず苦が勝る」とした場合に、功利主義がどのような「正義」を導くかを哲学的に検討するに過ぎない。つまり、その「正義」をいかに社会的に実現するかという政治的試みについては一切の興味がない。本論の興味は純粋に理論のみであり、実践には何ら興味がない。社会的実現が困難であろうと容易であろうと興味はない。そもそも本論は本論によって導出された「正義」を採用すべきだとは結論しない。しないべきだとも結論しないが。ただ、「反出生主義者」による目的達成が困難であろうという、同情的な検討は後述される。

6.本論は必ずしも自殺を推奨しない

 反出生主義者に対する誤解に基づいた典型的な指摘に「じゃあお前命断てよ」がある。本noteにより仮定された反出生主義者はそう言われたらさっさと死ぬべきだろうか。特に「人生における快苦の総量は常に苦が大きい」とき自殺しておくべきだろうか。必ずしもそうではない。

 まず純粋に「人生における快苦の総量は常に苦が大きい」という前提を検討した場合だ。この定義から理論的に可能な人間に「0歳~30歳までに得る苦痛が9999で快楽が0、31歳~死没までに得る幸福が10で苦痛が5」の反出生主義者31歳Aさんがいるとしよう。

 「じゃあお前命断てよ」と言われた場合この反出生主義者は人生における快苦の総量については苦が大きいにもかかわらず、31歳から死ぬまでの間については幸福の方が大きいので生きるべきである。ただしこれは快苦を単純に差し引きできると想定した場合だ。功利主義にはそれはできないとする立場もある。また、上のようなヘンテコ人間は「理論的に可能」なだけであって通常あり得ないとする指摘もある。しかしそれについては「通常あり得ない」をきちんとした実証調査をもってして証明する必要があるだろう。なお、筆者の感覚としては人生の晩年は歩けなくなったり大病をしたり認知症に伴ううつを煩ったり……と苦痛がとても大きそうなイメージはある。ただあくまでイメージだ。快苦の量について定量的に比較検討したわけではない。まあこれでは屁理屈だと感じるかもしれない。

 次に考えられる批判は「自殺する個人の快苦」しか念頭に置いていないということだ。これについてすぐ思いつくのが「自殺による他人の迷惑理論」だ。つまり自殺により、一個人の苦痛が自殺しないで一生生きたときよりマシなものになっても、まわりの迷惑を考えると全体的に苦が大きくなるという理論だ。個人的にはあまり好きな論法ではない。エレガントでないと感じる。少なくとも本noteの仮定は「人生における快苦の総量は常に苦が大きい」だけである。先述したヘンテコ人間を想定していいのなら「大局的に見てその人が自殺して社会が功利改善しちゃったマン」を想定することは理論的に不可能ではない。もちろん規則功利主義を用いるのであれば、規則の観点から効用を考え、自殺は駄目だと言えるかもしれないが本noteで先述したとおり筆者は行為功利主義者だ。この論法は使わない。

 後の議論で詳述するが筆者の主張は逆説的だ。「反出生主義者は基本的には自殺すべきではない。なぜなら、反出生主義の最終目的に寄与しないからだ」である。忘れてはならない。反出生主義者の最終目的は「人類絶滅」である。これを主導するためには反出生主義者は指導的立場にあらねばならない。反出生主義者が反出生主義を掲げた瞬間に自殺していては、反出生主義者が減るよう淘汰圧がかかるだけだ。指導的立ち位置に就くどころの話ではない。「人類絶滅」計画達成に際して何のいいこともない。だから反出生主義者は自殺すべきではないのである。ここで「ん?」と思った人は賢い。

 「自殺しようがしまいが、子をなさないならどうしたって反出生主義者が減るよう淘汰圧がかかるのでは?」と。もちろん遺伝子というのは単純ではなく形質と遺伝子が一対一対応しているわけではない。「反出生主義と反出生主義遺伝子」が一対一対応しているわけではないのだ。ただ、「結果的に反出生主義的傾向獲得に寄与する特質を持つ遺伝子群」は反出生主義者が反出生主義を掲げる度に自殺しているとプール内で多少の影響は受けるかもしれない。ただこれについても、一つの遺伝子が一つの特徴にしか影響を与えないとは限らないので、この遺伝子が別の部分で大活躍していてあんまり大きな影響はなかったということは勿論あるが……生物の話はこのくらいにしよう。あくまで本論は哲学の話だ。

 ただ、筆者は反出生主義を推し進める者はぜひとも子をなすべきであると後に推奨していくことになる。さて、ここでもうひとつ。反-反出生主義者から反出生主義者への典型的な誤解に基づき批判をあげたが、反出生主義者からの典型的に内部から痛烈に批判されるべき回答がある。「我々は人類は誕生すべきではないと言っているのであって人類は自殺すべきではない」――ここまではよい。問題は「自殺すべきではない」理由だ。「それは自殺が悪いことだからだ」――疑問の余地はあるがよかろう。「自殺が悪いことなのは規則功利主義に照らして反するからだ」――筆者は規則功利主義を後に批判していくことになるが、反出生主義内部では概ね合格の解答になると思料する。問題は「自殺が悪いことなのは正義に照らして自明だ」とする立場だ。これは功利主義に対立する義務論を導入してしまっている。反出生主義のエレガントなところは怜悧な功利計算によって結論が導出されている点だ。カントに代表されるような直観に頼る義務論を導入してしまってはせっかくの理論的骨子が台無しである。この点、反出生主義者は注意すべきだろう。あくまで反出生主義者は功利主義者であるべきだ。

 さて、筆者は反出生主義者は「必ずしも」自殺すべきではないと言った。では筆者が後に導くことになる結論では、それに従う人が自殺すべき場合があるのだろうか。結論としては――理論的にはある。

 「反出生主義の目的とする人類絶滅に何ら寄与せず、個人としての快苦の総量はもちろん本noteの定義に照らして苦が大きく、更にこの個人が大局的に見ても社会全体に及ぼす影響は苦が大きく、さっさと自殺した方が社会全体の利益になり、更にこの自殺行為により社会秩序の動揺や更なる自殺の誘引の可能性など諸々考慮してもどう考えても大局的に自殺した方が全体の苦の総量が減る場合」自殺すべきであるという結論が導かれることになる。

 ここでは「理論的には」と述べた。この極めて複雑な快苦計算を明晰に弾き出すことは少なくとも現代の科学技術では不可能だろう。なので現実的な話をするならば「俺が死んだ方が社会にとってもいいし俺は反出生主義の目的達成にも役にたたないんだー!」と絶望して自殺する者はただ単に絶望しているだけであって、このような者は怜悧な計算によって動く功利主義-反出生主義の精神に反しているから反出生主義者失格であろう。ただの精神的に惰弱な人間に過ぎない。

 なお、現代社会においてもし本当にそんな複雑な問題を適切に快苦計算できているならその理論は絶対に有用、功利主義的に社会功利を改善するのでどこかの大学か研究所に入るべきだ。つまり何の計算も出来ていないにもかかわらず知ったようなことを口にする者には反出生主義者である資格がないし、適切に計算できているなら現代科学のレベルをはるかに超えているので科学の発展に寄与すべきであって功利主義者たる反出生主義者ならば死ぬべきではない。ということになる。よって、「理論的」には自殺すべき状況想定は可能だが、現代社会の知的レベルにおいて「現実的」には当面反出生主義を掲げる限り適切な計算で自殺すべきであると結論づけるのは極めて困難と思料する。

7.本論は哲学的検討であり、生についての実存的な主観的苦しみについての興味を一切持たない

 反出生主義者の中には親などの虐待等の人生経験により「反出生主義に目覚めた」とする類がしばしば見られるが、このような類を本論は基本的に相手にしない。反出生主義は単に功利主義的な計算の結果であり、本論はその範疇に限って議論を行う。

 本論では「全知的生命体の人生の快苦の総量は必ず苦が勝る」を仮に正しいとして議論を進めるため、反出生主義に陥るほど苦しんでいる人が現実にいるという事実は、本功利主義的検討において微塵も要請される理論的必要がない。

 筆者の哲学的立ち位置は分析哲学であり、単なる人生哲学に過ぎないものは似非哲学であると棄却する傾向にある。もし分析哲学者がこのような人々に興味を持つとしたら、それは「ホモ・サピエンスを反出生主義的傾向に導く生得・環境的要因はあるか、あるとすればそれはなにか」についての生物学的、実験心理学的な興味に限るだろう。

 しかしこの人生哲学に興味がある者もあろうから、「余話2:人生哲学としての反出生主義」として1項目を設けて若干の検討は行った。

8.おわび

 本論では倫理に関するメタ的な議論を意図的に割愛している。つまり、功利主義において「選好」ではなく「快苦」を選ぶべき理由はなにかとか、「快苦」を何らかの物理主義的かつ定量的な手法で定義したとして、他にも物理主義的かつ定量的な手法で定義しうる「快苦」の形があるのになぜそれが選ばれるべきなのか。そもそもなぜ苦を最大化し快を最大化する功利主義ではだめなのか等。これらに対する詳論はしない。あまりにも膨大な話になってしまうからだ。ただし、無視するわけではなく「ここにそのような問題が存在している」ということは都度指摘を入れていくつもりである。

初歩的な質疑

1.人は産まれてくるべきではないとか言いながらめっちゃ楽しそうにしてる反出生主義者がいるのだがどういうことか

 論理矛盾は存在しない。反出生主義者は功利主義者である。めっちゃ楽しそうにしているなら、快を稼いでいるので功利主義的に推奨すべきことだ。反出生主義者は功利主義者なのだから、苦痛を最小化し幸福を最大化しようと振る舞うのは当然のことである。彼らに言わせるならば「人生は総じて苦が勝り、ゆえに産まれてくるべきではないのだが、我々は既に生まれ落ちているので功利主義者として幸福を追求し苦痛については最小化すべく頑張っているのである。たーのしー!!!」と言ったところだろう。総じて苦が大きいのになぜ自殺しないのかについては先述のとおりだ。

2.そもそも反出生主義者不愉快なのだが……

 単なる感情論で検討に値しない――と主張する反出生主義者は怠惰である。反出生主義の最終目的は「人類絶滅」である。そもそもが極めて少数派である反出生主義者が「人類絶滅」を達成するためにこのような問題を無視することは思想的怠惰である。基本的には本件は純粋に理論を追うものだが、別項で簡単にではあるが「反-反出生主義者が多数派を占めているにもかかわらずどうやって反出生主義者は人類絶滅をなしとげるというのだ」を話題にする。そもそも感情を持つことについては自由なのだから反出生主義者を不愉快に思うことについては何の問題もない。

どのようなものを功利計算の対象にすべきか?

1.他種を功利計算の検討にいれるべきか

 では早速本論の検討に入ろう。まずは「どのようなものを功利計算の対象にすべきか」である。おそらく言っている意味が蒙昧であろう。より具体的に述べる。反出生主義では「人類絶滅」を掲げている。これは適切であろうか。なぜ人類だけを絶滅させるべきなのだろうか。本noteにおいては人類ですら必ずその一生において苦が大きいとされている。

 ならばたとえば体内が寄生虫だらけで、不衛生な食物や水を口にし、病気に苦しみ捕喰されて死ぬ哺乳類もまた「絶滅」すべきではないだろうか。注意すべきは、これは「アニマルライツ」に基づく考えではない。アニマルライツとは「動物が動物らしく生きる権利――その動物の性質に反することなく生きる権利」のことである。「哺乳類絶滅計画」は「動物がその性質を生かして生き、死んでいき、結果として絶滅する」方向性で動かない限りアニマルライツとは敵対する。そして功利主義は快苦を対象とする。「その動物らしさ」など基本的には眼中にはない。ただし、規則功利主義を採る場合、かつアニマルライツが規則化された場合「動物がその性質を生かして生き、死んでいき、結果として絶滅する」方向性での絶滅を模索していくことになるだろう。

 これは――非常にたいへんな仕事である。だが、反出生主義者は動物を功利計算に含めないことについて理論的に正当化しなければならない。「正義とは理性的存在が守るべき法則であり、正義によって裁かれるべきは人間のみである」などという寝言を素朴に口にしてはならない。コテコテの義務論に飲み込まれてしまう。功利主義者たる矜持を握りしめてほしい。

 着目すべきは快苦の定義だ。要は快苦を感じないならそもそも快苦の計算対象に入らないので無視してしまってもよろしい。この快苦の定義を物理主義的、定量的に行い、かつその定義を正当化し、少なくとも当面「ホモ・サピエンス以外に快苦は存在しない」と結論づけることができればこの問題は解決する。私の膝の上でごろごろと実に心地よさそうに暢気に喉を鳴らしている猫は、反出生主義的な功利主義の観点から見れば快を感じていない。そう定義できれば問題解決だ。可愛い猫ちゃんを持ち出したがこれは感情の問題ではない。猫ちゃんの甘えた声やゴロゴロや柔らかいものふみふみなどではなく、感覚器官や神経伝達、脳における処理などを対象に考えていくべきだろう。このとき意識の主観的側面に立ち入るべきではない。つまり「コウモリにとってコウモリであるとはどういうことか」で語られるような問題は無視すべきだ。功利主義者ならば物理主義的に観察可能な事実に基づいて判断しよう。猫に快苦の主観的体験があるかなど一考にも値しない。それはホモ・サピエンスについても同じことだ。ホモ・サピエンスにクオリアがあろうがなかろうが功利主義には何の関係もない。このあたりの詳説は以下で行っているので興味があれば副読されたい。

2.それでも地球上の全生物を滅亡させるべきである

 とにかく「当面の間」現状「ホモ・サピエンス」のみが功利計算の対象になると結論づけたと仮定しよう。動物を功利計算の対象に含みたい人々についてはこの「とにかく」はかなり不満があるところだろう。特に物理主義的に定義を決めたとしてその定義の正当化はどうするのか云々という話になる。だが、本noteでは「動物を絶滅させるかさせないかの観点に関して」「結果として」それは問題にならない。本noteではホモ・サピエンス以外の動物が功利計算の対象になるか否かに関わらず「絶滅させるべきである」と結論づけるからだ。ただし、「どのようなものを快苦と扱うか」などの問題が直面する別の課題については別項で改めて確認することとなる。

 義務論ではなく功利主義に基づいて物理主義的に「ホモ・サピエンス」のみを功利計算対象とした場合、現生生物ではホモ・サピエンス以外を絶滅させる必要はない。ホモ・サピエンスだけが絶滅すればよい。だが、進化論を忘れてはいないだろうか。ホモ・サピエンスが絶滅したとして、地球上に新たなる理性的生物が現れる可能性はある。そしてそれが功利計算の対象となる可能性もある。現存する生物では「ホモ・サピエンス」だけが対象だからホモ・サピエンスだけを絶滅させてよしとするのは精々数百年~数千年程度の極めて微視的な視点でしかモノを見ることのできない狭い考えであって、正当化されない。ホモ・サピエンスに限った根絶は怠惰であり不徹底である。達成されるのはごく一時的な功利改善に過ぎない。

 人類が保有する核兵器を全て用いたとしても、仮に人類を絶滅させることはできても生物を絶滅させることはできない。果てしない努力の結果赤道まで含めて地球全球を凍結させたとしよう。これで生物は絶滅し、理性的存在誕生の目はなくなり、功利計算上の問題は解決されるだろうか――駄目だ。

 過去起きた全球凍結では生物を滅亡させられなかった。たとえば地上の火口付近、たとえば海底の熱水噴出口付近。こういった「安定した環境」で暮らしている極限環境微生物等が生きのこってしまう。全球凍結では大量絶滅により殆どの生命活動がストップしてしまったが、この憎むべき極限環境微生物が生きのこってしまうと、生物種はその後華やかで多様な進化を遂げてしまうのである。

 かつて光合成による猛毒の酸素により嫌気的な生物が大量虐殺されても猛毒の酸素を喜んで用いる意味不明な連中が跋扈して華やかな進化が多様な生物群をはぐくんだように、過去の全球凍結で光合成すらまともに行えなくなったとしても、それでもその後生物はまたしぶとくも進化を遂げて繁栄した。だめだ、このままでは理性的存在が出てくる可能性を排除できない。世に苦痛があらわれてしまう。理性的存在が全滅という正しい結論を選ぶまでには多くの時間がかかるのに……! これは許されることではない!

 このにっくき火口や熱水噴出口付近の安定した環境を支えている諸悪の根源は「地熱」だ。地熱の発生源は「地球の中心部」である。そもそも全生物を滅ぼしきったからといって「生命誕生」が起きない見込みもない。よって、最も簡単な解決策はもうわかったはずだ。

 ――地球を破壊する!

 極めて怜悧かつ物理主義的かつ定量的に考えられた功利主義の、これがひとつの目標である。地球破壊爆弾でもなんでもいいから、何らかの方法で地球を徹底的に「表面だけでなく核に至るまで」破壊しつくして地球という星を消してしまえばもう地球に知的存在が発生することはない。地球による功利計算の結果がマイナスになることはないのだ。

 「地球に優しく?」 寝言である。功利主義を突き詰めた地球破壊主義者ならばこう言うべきだ。

「根本的な功利改善のためには地球を破壊すべきである」

 この考えには副次的な利点がある。先に動物を功利計算の対象に含むべきかどうか議論したが、喜ばしいことに動物は功利計算に含めるか否かに関わらず絶滅すべきである。植物も微生物もウイルスも皆絶滅すべきである。そもそも生命誕生の可能性が断たれるべきである。地球滅ぶべし。

3.宇宙を滅ぼすべきである

 「功利計算の対象となる理性的存在は絶滅すべきである」「進化を警戒し全生物を滅ぼすべきである」「生命誕生の可能性は断たれるべきである」「よって地球は滅亡すべきである」――地球破壊主義者はこれで満足してよいだろうか。

 ぬるい。宇宙上にどれだけの星があると思っているのか。「功利計算の対象とすべき知的存在が既に存在している星」がありうる。「生物が存在し進化の結果功利計算の対象となる生物が生ずる可能性のある星」があり得る。「生物が存在しないが生命誕生の可能性がある星」があり得る。他にも「後に恒星の構成要素となり惑星にあたたかな光を与える可能性のあるガス等」があり得る。ほかにもたとえば「超新星爆発等による元素の合成」なども生命誕生のための危険要素だ。許されるだろうかこの醜悪を? 断じて許してはならない。功利計算の結果は適当に実行されるべきである。よって、次が導かれる。

 ――少なくとも断じて生命が誕生しない程度に宇宙を滅ぼすべきである。

 まずはここまでやればまあ概ね解決としよう。なお、実は解決になっていないこと、頭を抱えるべき難問が未だ待ち構えている可能性のあることは後に確認する。

 余談だが、我々にこれだけのことができるだろうか。ビッグバンの余熱に過ぎない現状の資源で、全てを滅ぼすだけの力を行使できるだろうか。物凄い勢いで膨張する宇宙。超えられない光の速度。それにも関わらず我々は全てを滅ぼせるだろうか。そしてその行使した「圧倒的な力」は新たな生命誕生の契機になることのないよう振るわれねばならない。「圧倒的な力」の一例であるビッグバンは全てを滅ぼすどころか全ての母になってしまった。様々な課題を乗り越えて、根本的功利改善のための宇宙滅亡を我々は達成できるだろうか。苦の総量が増大し続ける状態に終止符を打つことができるだろうか。難題である。

当面人が出生すべき理由について

 以上で確認されたとおり、少なくとも我々は宇宙を滅ぼさねばならない。だが、我々にはそのための技術がない。宇宙どころか地球すら破壊できない。地球を破壊できないどころか全生物の絶滅すら難しそうだ。

 正義のために宇宙を滅ぼしたいのに、我々の技術は現状、こんなにも情けない。

 だから、もっと我々は知を積み上げるべきである。技術を積み重ねるべきである。いつか宇宙を滅ぼし根本的功利改善を果たすその日まで、努力しなければならない。

 これは一朝一夕にできることではない。長い時間をかけて達成される目標であろう。だから、現代社会を生きる我々は宇宙を滅ぼすために出生すべきである。この宇宙を二度と出生が発生しない理想的状態にするため、今は出生すべきなのである。もちろん、宇宙はいつか「熱的死」などの何らかの死を迎えて放っておいても二度と理性的存在の誕生する余地がなくなるかもしれない。けれど、宇宙が自然に死を迎えるよりずっと早く宇宙を滅ぼしてしまえるかもしれない。そうすれば、宇宙の死を座して待つよりも苦痛の総量は小さくなる。だから、我々は今踏ん張りどころなのだ。宇宙を滅ぼすために。

 もしかしたら――もしかしたら、科学技術の発展の結果技術的にそんなことは不可能だと判明してしまうかもしれない。「理論的にどうやってもここまでしか滅ぼせない」と結論づけられる状態がくるかもしれない。そしたら、仕方ない。そこで妥協するしかないだろう。根本的な功利問題解決ができなかったとしても、我々は一時的な一部改善を成し遂げたと納得しよう。できることはやったのだと。だが、今はまだその段階ではない。だからその一時改善を成し遂げるまで出生し努力すべきである。

 以上により我々は出生し、知的営為に邁進すべきなのである。本noteの仮定する世界では、産まれてくる子は必ず不幸になる。それでも産むべきなのか――産むべきである。絶対に不幸になる子を産むべきである。それは倫理的に許されることなのか――我々は直観を根拠とする義務論者ではない。怜悧な計算を行う功利主義者だ。宇宙破壊計画という圧倒的功利改善の大目標の前に、地球上で誕生する子の苦痛など瑣事である。ぜひとも絶対不幸になる子を産むべきだ。それができない者は計算ではなく感情に屈した臆病者である。

 人は、出生すべきだ。宇宙を滅ぼすそのときまで。

対立する正義について

 ここで、反出生主義を適切に理解している者から必ず批判が発生する。宇宙破壊などを合意を得ずにやるつもりか、反出生主義者だって殺人などを犯さずになるべく平穏に絶滅しようとしているのに、というものだ。

 規則功利主義者は規則を敷きそれに人々が従うことでの功利改善を目論む。あるルールを逸脱した悪行により微視的な観点からは功利改善されることが見込まれるとしてもそれを排して、巨視的な観点から見てルールを敷いた場合と敷かなかった場合の功利を比較して功利改善されるルールを敷いてどんな時でもそれに遵守させるべきだとする。

 理性的宇宙人であれば殺人を容認しない規則を敷くことはじゅうぶん考えられるだろう。たとえばこれを無視して突然宇宙を滅亡させてよいだろうか。

 行為功利主義者の回答は――もちろん滅ぼしてよい、である。功利主義の目的は功利改善だ。他の理性的存在の命を問答無用で踏みにじり宇宙を消し飛ばして功利改善されるならそうすべきだ。規則功利主義者はルール破りを許容した場合の社会の混乱などの観点から結果として功利が悪化することで行為功利主義に反論することが多いが、忘れてはならない。今回の場合宇宙を滅ぼせば社会はない。よって宇宙を滅ぼしたことによる社会秩序悪化など功利計算上気にする必要は微塵もない。

 もし、無理矢理の宇宙破壊で功利改善するのだとしても、それでも規則を遵守したいと願うなら、功利主義を捨て義務論者に転向すべきだ。仮に規則功利主義を掲げるのだとしても「功利計算の対象となる理性的存在はその人生において全て苦が勝る」という本noteの仮定に乗って進むならば、そもそも「規則」として知的存在が達成すべき一番の目標として「我々は宇宙滅亡を第一の目標としそのための努力を行い、可能な限り迅速に宇宙を滅ぼすべきである」という「規則」を立てるべきだ。

 義務論と異なる功利主義の利点として、複数の「正義」が対立したとき「功利計算の結果」によっていずれが「よりよい正義であるか」を導き出すことができる。仮に他の知的存在が数的に比較可能な異なる正義を打ち立てていたとしても「功利計算の対象となる理性的存在はその人生において全て苦が勝る」ならば「宇宙破壊」に勝る「正義」はない。よってこの大規則は他のあらゆる正義に優先し、これにより宇宙は破壊されるべきである。

 ただし、ここでは見落としてはならない本noteの前提がある。我々は功利主義者として誠実に、物理主義的かつ定量的に「快苦」を定義し、計測し、絶滅を唱えた。動物を快苦の計算に含むべきかの問題について、この定義の正当性は問題にならなかった(いずれにせよ動物は滅ぼすべきなので)。だが――たとえば他の理性的存在が義務論を掲げ「たとえそれで社会が幸福に導かれるとしても人殺しは悪なのだから駄目だ」と正義を唱えたらどうなろう。(あるいは「快苦」について異なる定義を行い「快」が勝るという結論を出すパターンも考えられ、これも面白いが、本noteの仮定では「定義上」絶対苦が勝ることになっているので於く)。

 最も素朴に思いつくのが義務論を論破して功利主義を勝利させることだ。だが、純粋に理論的な観点からこれは困難だ。メタ倫理的な話になってくるので詳しくは調べていただきたいが、まず、正義の絶対的かつそれ以上遡行できない部分での基礎付けはできない。

 我々宇宙破壊論者は「快苦」の定義を物理主義的定量的に行ったが、たとえば快の測定に何らかの脳内の処理過程を拾ってきていたとして、それを快の定義として選んだことの絶対の正当性はどこからも得ることはできない。

 更にそもそも功利主義に用いるべきものさしとして「快苦」を選択したことが正当かどうかも絶対には正当化されていない。事実として、最大化すべきは「快苦」ではなく「選好」であるとする選好功利主義が存在する。「人類は皆総じて不幸になるかもしれない――だが人類の選好の最大化という観点から見れば、人類は存続すべきであるという計算結果が出た」と選好功利主義者が反論しだしたらどうしようもない。

 実際にはどうしようもないわけではなく、侃々諤々の議論があるのだが、どの理論も互いを排除しきれていない状態だ。数値化により対立する正義間の調停を期待できる功利主義は一見人気があるが、医療倫理学の場においては義務論的な直観による正義がしっかりと力を持って仕事をしている。質問紙調査などの結果でも義務論の強さを見ることができる。

 筆者はこれらの対立する各思想が十分に洗練されれば、不要になって省みられなくなることはあったとしても決定的に論破されることはなかろうと考えている。義務論には義務論の、功利主義には功利主義の利点があり、理論が瑕疵なく綺麗に組み立てられている限り、お互いがお互いを論破できず、社会的な実装における有益性等に関して殴り合っているという印象だ。正義の絶対の基礎付けができない以上、これは仕方のないことであり望ましいことでもあると考える。純粋理論上の瑕疵の指摘は勿論よいことだし、応用倫理にしていく上で議論が紛糾するのもよいことだ。どんどんやるべき。

 さて、以上を概観したところでどうすべきか。宇宙破壊論者に「互いの正義を尊重する」という選択肢はない。なぜなら宇宙破壊論者は宇宙を破壊することが絶対に譲れない最終目的だからだ。

 ひとつの考えは自らの正義を掲げ他の正義を暴力的に退け宇宙破壊を遂行すること。実にシンプルだ。功利は改善される。ハッピーエンドだ。

 もうひとつは説得して回ること。そうしている間に不幸はどんどん積み重なっていく。説得は功利主義的に見て利点がない。これはだめだろう。人々の納得が功利主義的に見て何の意味があるというのか。やるならさっさと滅ぼしなさい。

 滅びることに同意する者だけ滅ぼす――論外である。なぜ滅びることに同意しない者を滅ぼしてはいけないのか? 宇宙破壊論者は功利主義者だ。「滅びることに同意しない者」を滅ぼさずに残すことに功利主義的な利点があるのか? 微塵もない。本noteの仮定上「あらゆる知的存在は総じて快より苦が勝る」のだから、功利主義の計算により導かれた正義は、同意するか否かを問題にすべき理由を持たない。同意の有無にかかわらず妥協せず絶滅させるべきである。

 諦める。宇宙破壊主義を放棄する。この場合宇宙の不幸が積み上がっていく様を傍観することになる、全ての理性的存在が総じて苦が勝る一生を送るのに根本的対応策を打てない。苦い終わりだ。

 正義の絶対の基礎付けができない以上、どうしても選択にぶつかってしまう。ニヒリズムに陥り、やっぱり正義などなかったと言ってもいい。そのときには宇宙破壊主義はもちろん反出生主義も放棄しなければならないが。メタ的に概観し検討を進めながら「やはり功利主義は問題ない。となれば宇宙は破壊されるべきだ」と結論づけるのもよいだろう。しかし――まだ問題があり、次項へ続く。

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(本項捕捉)
 やや規則功利主義に批判的な立場から概観してきたが、通史的には行為功利主義が古く、規則功利主義が発展的に出てきたもの。なぜ行為功利主義がより洗練されていて、規則功利主義は批判されるのか。
これについてはJ. J. C. Smartの議論が参考になるだろう。

 実は邦訳が一本もない。勁草書房さんあたり、なんとかしてくださいませんか……?

この宇宙だけを功利計算の範囲にしてよいか

 この世界とは別に異世界があるかもしれない。宇宙外に知的生命体がいるかもしれない。そしてその総数は我々の宇宙の知的生命体の総数をはるかに上回る――このとき、宇宙破壊主義者の成功はちっぽけなものとなる。人類を絶滅させて喜んでいた反出生主義者や、地球を破壊して喜んでいた地球破壊論者と何も変わらない。ではどうすべきか。素朴な旧宇宙破壊論者はこう言うだろう。

 全ての世界の全ての知的生命体とその誕生の可能性を滅ぼすべきだ!

 しかしこれは難問である。「技術的難問」もあろうがそれ以前に「哲学的難問」なのである。我々の素晴らしい技術が異世界A異世界B異世界Cを発見した。全世界破壊論者がこれら異世界A~Cおよび我々の世界から知的生命体およびその誕生の可能性を葬り去ったとする。だが、異世界はあと3億個存在していたのだ!! となると全世界破壊論者の自爆は実にちっぽけな部分的達成に過ぎないものになる。我々は全世界破壊論者に問うだろう。

 「君たちはいつ全ての世界の存在を把握したと確証すべきか」

 もしかしたら○○という世界が可能かも知れない――この可能性は無限に想定可能だ。そして、その可能性をゼロにすることはできない。自然科学の手続きはどうしても「あることが確からしい」「あることが確からしくない」という語りになってしまう。「絶対」を言い切ることができるのは「論理学」や「数学」といった形式的な処理に限る。

 これは破壊を目論む者にとって絶望的だろうか。そうではない。

 思い出してほしいが我々は物理主義に則って功利主義を推し進めてきた。だからもし「非物理的な何か」が確認されない限り物理主義の伝統に則って「あることが確からしくないものはあると見なさない」を採ることができる。もちろん、我々の探究により非物理的な何かが発見され、非物理A主義、非物理B主義などの知的営為のための手法が構築されるかもしれない。その場合も、その限りにおいて探究を行い「観測可能な破壊対象範囲はここまでが確からしい」と結論づけることができる。そのときにおいて世界を破壊してしまって、知的営為としては問題ない。

 他の世界があるかもしれないのに――それはそうだ。その可能性は永遠につきまとう。しかし、物理主義的な考え方、つまり既存の自然科学的な手続きを採るということはそういうことだ。

 だが、たとえば物理主義に絞ったとして「我々は物理主義にのっとって調査を行った結果、観測可能な滅ぼすべき範囲を確からしく定めることができた。これ以上調査する必要はない。もう我々の物理主義的な知識はじゅうぶんな状態に達した、これ以上滅ぼすべき範囲が広がる事態が発生する見込みは極めて小さい」と言い切れる瞬間は来るのだろうか。いつまでもだらだら調べ続けて滅ぼせないまま終わってしまっては本末転倒である。

「いつ滅ぼすべきか」

 破壊者は全てを破壊すべき時を決断しなければならない。

(余談)
 未来の我々の技術力で「研究や発明などの知的営為を行い、かつ我々が定義した功利計算の対象にならないシステム」を構築した場合、どうなるだろうか。このとき、我々は後をこのシステムに任せて安心して絶滅してもよかろう。あとはすべてシステムがやってくれる。ただし「いつ滅ぼすべきか」という難題はシステムに課され続ける。滅亡実行で資源を食い潰してしまったあとにやっぱり滅ぼし切れていなかった、だがもう資源が……となってしまっては困る。ただし、このような滅ぼすために必要な資源問題を一切考慮しなくてよいほど解決されたのであれば、システムは後先考えずに目についた全てを次々に滅ぼしにかかってよいと思われる。無限の資源で全世界を滅ぼす全世界破壊システムの侵略である。悪魔の所業と言うべきではない。功利は改善されるのだから正義である。なんだかここまで圧倒的力を持つと「知的存在は総じて必ず不幸になる」というちっぽけな問題くらいクリアできるんじゃないか? と思うかも知れない。だが忘れてはならない。本noteは「知的存在は総じて必ず不幸になる」ことを仮定として受け入れている。つまり、どう考えても技術がここまで発展すればこの問題は解決できそうなのだが、「定義上」この問題は解決できないので、今回の定義に従えば全ては滅ぼされるべきなのである。なお、この仮定を緩和した場合どうなるかについても後に検討する。

余話1:反出生主義の政治的達成について

 基本的には本noteは政治的な営みを話題にしない。ではここでは何を話題にするのか。我々は初歩的な質疑の2において「反出生主義者やその言動に対する嫌悪感」を簡単に話題に取り上げた。これについて少し真剣に検討する。

 質問紙調査などの手法をとって反出生主義の賛否を調査すれば、おそらく反出生主義者は大敗を喫するだろう。少なくとも人類を絶滅させるべきなのに覇権も握れないのではどうしようもない。

 一つの方法は理論だけでなく心理学的手法をも駆使した「啓蒙」だ。
 行動主義心理学で有名なワトソンは「子供を私に預けてくれれば弁護士にでも泥棒にでも育て上げてみせる」という趣旨の発言をしている。1ダースの子供をどのような職業の大人にでも育て上げられるというわけだ。このような考え方を「心は空白の石版である」とする「タブラ・ラーサ」と呼ぶ。

 これが事実なら喜ばしいが……現実はそうではない。たとえばスティーブン・ピンカーが「人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か」という著作で様々なエビデンスをもとにこの考え方に反駁している。「タブラ・ラーサ」は人間について環境要因を重視しているが、ピンカーなどは「タブラ・ラーサ」は生得的要因をあまりにも無視しているというわけだ。
(余談だが、ピンカーなどによるポストモダニズム、現代思想への批判には少し首を傾げるところがある。ただ、筆者はポストモダニズム等大陸哲学の流れをくむ人間ではなく、分析哲学に与する者なので、イラつく気持ちは共感できるところがある)

 Nature vs. Nurture――日本だと生まれか育ちかなどと呼ばれる問題だが、生得要因・環境、どちらが勝ちというわけでもない。人間、そして生物の本性はそのような単純な問題ではない。マット・リドレーが実に巧みなタイトルの著作「Nature via Nurture(邦訳:柔らかな遺伝子)」で述べているとおり、vsで考えることがおかしい。知的関心があれば上述を通読してみるとよい。

 いずれにせよ人を思いのままに「啓蒙」することは簡単ではない。生得的な傾向や環境要因の影響など、対応策も一様では済まない。

 「正しい理論ならば理解されるはずだ」という期待も勿論できない。先述のとおり反出生主義を含むあらゆる正義は、根本的かつ絶対的な基礎付けがなされていない。「目に見える瑕疵が特段ない場合の反出生主義」を「ホモ・サピエンスでなく心理的な障壁を持たずに理論の組み立ての適切さで主義を判断する謎の知的生命体(そんなものが可能なのか?)」が評価した場合も「たとえば選好功利主義でなく快苦による功利主義をとるべき理由は?」と細かく問われた場合、絶対の優位性を示すことに苦慮する。そもそも数的比較が不可能な義務論と対立させられた日にはどうにもならないことが火を見るよりも明らかだ。

 実験心理学による大量の知見があるにも関わらず「話せばわかる」などと考えるのは、本気で反出生主義の最終目的達成を試みるのであれば知的怠惰であろう。

 反出生主義が覇権を握るための政治的方策は組織的に考えられる必要がある。環境要因を重視した「説得」を始めとした技術の構築はすぐに考えつくところだが、エビデンスのない筆者の随感で恐縮だが生得要因に基づく反出生主義への忌避感の方もかなり強いのではないかと予感する。

 生得要因への対応は容易ではない。根本的な対策として遺伝子に手を加えることが考えられるが、そもそも覇権を握れていない反出生主義者がどうやって人類を反出生主義的にしていくよう遺伝子に手を加えていく同意を得られるのかという問題がある。

 さらに、下世話な話だが研究には金がいる。それはもう莫大にいる。功利主義の理論的検討の一環として反出生主義を扱う、反出生主義というムーブメントに対する調査研究を行う――などといったお題目でなんとか科研費の基盤Cなど持ってくることができたとしても、その端金でどうしようというのだろう。国系の巨額の外部資金は人文系にはあまり開かれていないし、そもそも人類の持続可能な発展への寄与を大前提にしている。民間との受託・共同研究なども夢のまた夢だろう。反出生主義者との連携をブランド化して、反出生主義者に巨額の研究資金を投入できるような民間企業は想定できない。いや、私は現在の内閣総理大臣を知らないくらい世事に極めて不勉強なのでもしかしたらあるのかもしれないが……

 以上、理論はともかく実践において反出生主義は課題が大きい。最終目標「人類絶滅」を達成するつもりならば、極めて険しい道をゆくことになろう。

 ただ、可能な希望は存在する。「人類絶滅」プロジェクトについて、反出生主義者は確かにずっと覇権を握れないかもしれない。ずっと少数派かもしれない。人々の努力により技術はどんどん発展していく。反出生主義者はずっと雌伏の時を過ごす。だがやがて、希望の時が訪れるかもしれない。つまりは、覇権を握るまでもなく少数の反出生主義者の貧困な資金力でも人類くらい滅ぼせる兵器を密造できるようになるかもしれない。こうなればこっちのものだ。覇権を握らないまま、人類破壊兵器で人類を滅ぼせばよろしい。この考えのよいところは、政治的努力の必要がないことである。反-反出生主義者の努力にフリーライドして、美味しいところだけ持っていくのだ。つまり、コストがかからない。「その時」がくるまで反出生主義者は自分の払うべきコストを反出生主義啓蒙のための活動でも、個人的効用の改善でも、なんでも別件にあてることができる。技術発展に必要なコストは反-反出生主義者が喜んで払ってくれる。ぜひタダ乗りしよう。そして突然襲いかかろう。

「そのやり口、テロじゃない?」

 「大勢の無実の人を巻き添えにして、暴力による政治的目的を達成すること」をテロと呼ぶなら、もちろんそれはテロである。たとえば素朴な規則功利主義者ならばこのような方法による人類絶滅を容認しないだろう。だが我々は既にこれまでの議論で、人類絶滅を成し遂げてさえしまえばその後の社会が存在しないのだから、規則破りによる副作用としての効用悪化は生じ得ないことを確認している。つまり、規則功利主義者が純粋に功利計算を行うものである限り、換言すればその内側に義務論を抱える半端者でない限り、この人類絶滅テロは行為功利主義的な正義として容認される。

 西暦xxxx年xx月xx日人類は人類破壊爆弾の炎に包まれた! 絶滅!

 これでハッピーエンドである。先述した地球破壊計画、宇宙破壊計画の場合も狙えるならフリーライドは狙っていける。反-反出生主義者たちは持続可能な形で知的営為を行い知識や技術をこれからも高めていくだろうし、テロに動くその瞬間まで反出生主義者は功利主義者としてできるだけみんなの苦痛を避けみんなの幸福を増大させようと頑張る理想的市民なのだから罰されようがない。ニコニコ笑顔でみんなのために頑張り、ある日突然すべてを滅ぼすわけである。行為功利主義的には特におかしな点はない。

 やはりテロ! テロは全てを解決する!

 ごらん、イマヌエル・カントが義務論はいいぞって「実践理性批判」を片手に手を振っているよ……めんどくさいので「道徳形而上学原論」ですませるね……

余話2:人生哲学としての反出生主義

 反出生主義は数的処理の可能性を掲げ、直観主義的な正義を排した功利主義から得られた帰結である。個人的で感傷的でウェットな人生哲学は擦り寄らないでほしい――と筆者としてはえんがちょで終わらせたいところなのだが、一応概観する。人生哲学としての反出生主義を簡単にまとめれば

「産まれてこない方がよかったが産まれてきたので苦痛を最小化幸福を最大化するよう生きて、人生における快苦総量について苦が上回るが苦の総量をできるだけ小さくするよう試みる」
「また、子は苦の総量が大きい一生を送ることになるので産まない」

 以上のように定式化されるだろう。前段は問題ない。問題は後段である。「子は苦の総量が大きい一生を送ることになる」
 ――ここは本noteに限り問題ない。本noteではこれを仮定しているからだ。
「ゆえに産まない」――これを導けるかどうかが問題だ。

 当たり前のことではないかと思うかも知れない。だが「理論上は」当たり前ではないのである。

 たとえば「反出生主義者Aくん」と「最低1人は子を産む女性B」と「たくさん子供がほしい男性C」を置く。BCが結婚して3児を設けるよりABが結婚して1児を設けた方が反出生主義的には望ましい。

 上は勿論「屁理屈」の話だ。しかも非常に微視的な状況に限定しての話題だ。本気にしなくてよい。「反出生主義者が子をなす方がマシな限定状況は理屈を捏ねくり回せば現実性はともかく用意できる」というだけのことに過ぎない。「実践上」の問題にはならない。ここでは「人生哲学」の話をしているのだから上のようなものを捏ねくり回しても仕方がない。

 ではもうひとつ。たとえば「反出生主義思想を抱くか否か」は「生得要因が大きい」とする。このとき反出生主義者は子を産まないべきだろうか。

 功利主義哲学における反出生主義の最終目標は「人類絶滅」である。そしてその政治的困難は先述のとおりだ。上のような状況にある場合、反出生主義者が狂ったように子を作って作って作りまくって反出生主義勢力の拡大を目指すのは一見有意義に見えそうだ。しかし、そうはならない。まずそんな努力は誤差のレベルで落ち着くだろうというのもあるが、人生哲学における反出生主義は先の定式化では「人類絶滅」を必ずしも目的にしないからだ。「人類絶滅」などどうでもいい。我が子が誕生して苦が勝る人生を送るのが耐えられない。だから産まないんだ。そう言ってしまって問題ない。つまり、功利主義哲学における反出生主義と人生哲学における反出生主義は対立しうる。ゆえに、人生哲学的に反出生主義を掲げるならば、功利主義に基づいた先哲の議論は安易に引用しないことを推奨する。単純に哲学徒側も不愉快であるし、人生哲学を掲げる者にも有害でありうるからだ。

 しかしなんとか人生哲学と功利主義哲学の反出生主義を両立できないだろうか。これについては、当面はできる。そもそも上の例は現代科学のレベルでは予見できない知識を前提にしてしまっている。ゆえに、問題を現代の一般人が得られる知識レベルに落としてきた上で、

「私が子を産まないことで功利改悪が起きるかもしれないし功利改善が起きるかもしれない。そのあたりの未来の予測は現代技術ではできない。だからこの影響については当面は考慮しない。そして、私が産まないことにより少なくとも私に直接関係して産まれてくる子は0になる。微視的ではあるがこの微視的な事実に限っていえば望ましいことである。だから私は自分の知的レベルで判断できる限りの判断をし、子を産まないのである」

 このように言えば功利主義的な反出生主義と人生哲学的な反出生主義をとりあえずは調停できるだろう。当面は未来をそこまで詳細に予見することもできないと思われるので、おそらく現代人は功利主義的反出生主義と人生哲学的な反出生主義の理論上起きるかもしれないジレンマについて、実際上は関与することなく生涯を終えることが期待できる。

「俺は産みたくないんだあ! 俺の子供が不幸になるのはいやだあ!」
「うるせえ産め! お前が不幸な子を産むことで反出生主義の人類絶滅計画は大きく効率的に進むことが計算されてるんだよ! 功利主義! 功利主義!」

 こんな地獄のような未来が来たらなかなか笑えるかもしれない。なんなら義務論がキラキラと輝いてみえそうだ。

 ごらん、イマヌエル・カントが義務論はいいぞって「実践理性批判」を片手に手を振っているよ……めんどくさいので「道徳形而上学原論」ですませるね……

余話3:本noteの仮定をもし崩したら?

 本noteでは「知的生命体は必ず苦が大きい一生を歩む」と仮定して議論を進めた。これを崩したらどうなるだろう。今回のnoteでは知的生命体を滅ぼすのに最も都合が良い形で定義を行ったので、逆に盛大に崩してみよう。

 正義は快苦の功利計算によりなされることに同意がなされた。
 快苦の定義について同意がなされた。
 苦は進化論的に考えれば遺伝子の成功に有利な要素を孕むが、
 あるマッドサイエンティストが苦に係る肉体の処理を排除した上で
 肉体の損傷等にかかる危機回避を問題なくヒトが行えるよう、
 遺伝子改造やら外部的なシステム補助やらを行った。
 これによってヒトは定義について同意がなされた苦を一切生産せず
 以前と遜色ない日常を送れ、幸福のみが増大することとなった。

 盛大にぶっ壊してみた。地球上のヒトは功利主義上の苦を感じなくなったので功利計算上、幸福の総量だけが増大していく。この場合、ヒトは絶滅どころか可能な限り地に満ちるべきである。なんなら宇宙を埋め尽くしながら幸福生産能力に改善を加えていくべきである。尋常ではない多幸感に包まれ、一切の苦痛を感じない知的存在に埋め尽くされた宇宙は理論的に想定可能だ。なんなら、「快苦計算の対象から外れない範囲で」ヒトを改造して、生産コストを可能な限り落とし、面積をとらないようにし、生存維持コストも落とし、増産しまくるべきである。それはもうヒトとは呼べないかもしれないが、改造は功利計算の対象からそのヒトだったものが外れないよう細心の注意を払って行われるので、功利主義的な計算上、極めて効率的に幸福生産ができるようになる。知的営為やその他仕事はどうするのか? マッドサイエンティストに頼んで定義上の快苦計算の対象にならないシステムに無限に働かせよう。24時間365日稼働させるが定義された快苦計算の対象外なので功利悪化はない。このシステムを功利計算の対象になり、かつ幸福の総量が勝つよう構築することも考えられるが、おそらく計算対象外とした方が制約が少なく知的営為を効率的に遂行できる代物が作れるだろう。幸福生産はヒトっぽい何かに任せよう。かつてヒトだったものが幸福を算出しつづけ技術や知的営為も発展し続ける。その知識や技術はかつてヒトだったものを更に改造することにより、より効率的な幸福算出に寄与するだろう。
 この場合、全世界破壊主義者が陥った「いつ滅ぼすべきか」のアポリアも存在しない。この幸福発展システムは可能な限り持続すべきなので、ひたすら幸福を算出しながら発展し、埋められる空間やら異世界やらを見つけ次第かつてヒトだったものやそれを維持するための各種装置で埋め尽くしていく努力を無限に続ければよろしい。

 こうなると、やっぱ快苦じゃなくて選好で功利主義やりたいなあ……とも思うのだが、選好にするなら「選好する対象」が低コストになるよう人類改造したいなあ……と、上と結局は似た世界を創り出そうとする欲望が湧いてきてしまう。

 ごらん、イマヌエル・カントが「実践理性批判」を片手に義務論はいいぞって手を振っているよ……めんどくさいので「道徳形而上学原論」ですませるね……

おわりに

 地獄のように荒唐無稽な論述を続けてきたが、お楽しみいただけただろうか。お楽しみいただけた場合はなによりだが、少々頭の方が心配でもある。上で検討したような「全世界破壊主義者」やあるいは「永久幸福生産」は全くもって荒唐無稽な想定だが、適当に設定をつけて物語の敵役をやらせるには面白いかも知れない。あるいは「全世界破壊主義者」はじゅうぶんな技術発展を望むので、技術発展の過渡期的な世界における頭のおかしいことを言うが役に立つ道具やら何やらをバンバン創ってくれる変な仲間として導入することもできるかもしれない。私は小説書きでもあるのでそういった想像をしてみるのも楽しかったりする。2万字近い長文になったが、少しでも楽しめる要素があったならば幸いである。

 正義の話はいいぞ!

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