フィクションにおける殺人を生得的に動機づけられた理性的種族の処理に係る実務と正当化についての哲学的側面からの検討

はじめに

 フィクションにおける敵対種族、特に言語的コミュニケーションをとることが可能で、なおかつ生得的に殺人を動機づけられている種族の処理について哲学的な見地から簡単に整理します。

 この問題は議論の対象にできる論点ががあまりにも多く、同じ問題について議論しているようでそれぞれ別のレイヤーの話を扱ってすれ違っていたり、同じ問題を扱っていても用いられる言葉の多義性から議論に用いる言葉の意味が互いに異なっていたりと、「議論を混乱させる要素があまりにも多すぎる」ため、哲学上の整理整頓を行うものです。目的は整理整頓であるため、正当化の是非についての結論を出すことは本noteの目的ではありません。

 また、そのような種族の描き方やそのような種族と人間との関わりをどのように描けばフィクションとして魅力的かという創作論には一切コミットしません。単純に、そのような他種族の評価・処理について哲学的検討による整理整頓を行うことだけが目的です。


混乱1:どのような存在が理性的存在者なのか

 そもそも「どのような存在者が理性的存在者」であるか、という問題について哲学的に議論があります。たとえば三段論法を扱うことのできる存在者は理性的存在者でしょうか。

Socratic mortality logi

 上掲のとおりChatGPTは三段論法については雑に投げても答えてくれるようです。ちなみに妥当性と健全性についてはこちらから定義を与えない限り区別をつけていません。下掲のとおり健全な推論であると述べておきながら妥当性の検証しか行っておらず、妥当な推論であると(健全性を問うているにもかかわらず)結んでいます。

 また、ChatGPTに対して理性的存在者であるかどうか質問するとたとえば下掲の回答が得られます。

 「テキストに対するパターンやコンテキストに基づいて応答するプログラム」は理性的存在者ではなく、「人間のような感情や理性や主観的な経験」を欠いていると述べています。しかし「テキストに対するパターンやコンテキストに基づいて応答するプログラム」が理性的存在者ではないという主張は先験的に正当化はされておらず、「人間のような感情や理性や主観的な経験」を持つことが少なくとも理性的存在者であるための必要条件であるという主張もまた自明には正当化されていません。

 たとえばChatGPTは「感情や主観的経験を持たない」ことを認めた上で、謝罪や御礼の言葉を用います。ChatGPTの感情についてこのテキストが述べた前提を認めるならば、形式的にこれは虚礼であることが導出されます(心がこもっていない礼儀表現であることが虚礼の定義であるため)。また、ChatGPTは自身の限界を指摘された際に「努力する」と述べることがありますが、ChatGPTは自身がその能力を持たないことも明言するため字義通りに解釈するとテキストが矛盾します。このような矛盾や虚礼への指摘を行うとChatGPTはそれを認めますが、修正はなされません。こういった「事例」を参考に抽象化を行い理性的存在者の定義を考案することは可能ですが、それは「一つの立場」に過ぎず「可能な立場」は様々存在します。

 心的体験についても哲学的に議論がありますが特にクオリアに焦点をあて既にこちらで検討しているため詳論は措きます。

 またそもそも「理性的存在者であるか否か」という「0と1」の考え方が誤りであるという立場も当然あり得ます。つまり「理性程度評価」が存在し、全てのものはその「ものさし」ではかられて程度問題で語られるべきであろうという立場です。当然この場合も、その「ものさし」自体が「適当なものさし」であるかという問いから逃れることはできず、この問いはメタ問題として扱われることとなります。実際的にはこの「ものさし」は可謬的・当面的なものとして適宜修正を加えながら用いていく、というような立場となるでしょう。

 議論をする際まず「対象が理性的存在者であるか否か」で合意がとれていない場合、お話にならない可能性がおおいにあります。議論をする際、対象種族を言語を発している単なる機械、単なる無機物、単なる獣と見ているのか、理性的存在者として見ているのかで話は大きく変わりうるからです(もちろんいずれであっても変わらない立場も可能です)。

混乱1-1:建設的議論の可能性

 類似問題に、「対象種族との建設的な議論が成立するかどうか」という問題があります。この問題は上位の問題として「建設的な議論とは何か」と「対象種族の建設的な議論の可能性が開かれているか否かはどのように判定するか」というメタ的な問題を持ち、更にそれに対する立場をどのように正当化するかというメタ-メタ的な問題を持ちます。

 たとえば「偽ではない言葉で誤解を招き相手が誤解していることを知りながら破滅的状況に誘導し都市をひとつ壊滅に追いやった対象種族の個体」が観察されたとしましょう。他にも友好的にみえる態度、協力的にみえる姿勢など様々な見せかけの行為で人を破滅に追いやる事例が蓄積されていったとしましょう。この誤認に関する告知不作為による欺罔行為で頻繁に人を陥れ、人類がそれを指摘し議論の場を設けようとしたところ、そこで更に欺罔行為が働かれ破滅が生じたとしましょう。このような場合「建設的議論の可能性」は閉じているでしょうか。

 言うまでもありませんが形式的には対話の可能性は閉じていません。現実の上で観察を通して「絶対にありえない」と証明することは極めて困難です。現実的ではありません。ただ実務として対案は打たねばなりません。簡単には「応報戦略」などが考えられるでしょう。「やられたらやり返す」です。そこで「応報戦略の発動条件を定めた法」を敷いてみましょう。そしてこれを熟知した対象種族がそれに抵触しないように欺罔行為を働き至上最大の破局的被害を出したとしましょう。

 このあたりで立場は別れてくるのではないでしょうか。たとえば「法案修正」というある意味での対話の可能性の継続検討と、最早相手は信頼できない、「絶滅するまで殺し尽くす」という決断的態度です。いったん「絶滅するまで殺し尽くす」態度をみせておいて、それに相手が屈したら再度関係性を再構築するという考えも可能です。もちろん絶滅論者からは、また騙されるぞと痛罵されるでしょう。それぞれの論者はそれぞれの手法で己の主張を正当化し、その正当性について議論の対象となります。

 上記は「どこかで線を引かねばならない」という考えを前提にしており、実務上そうするしかないとは思うのですが、これは当然には正当化されておらず、無論「どこに線を引くことが適切であるか」という線引き問題も、可謬であるとしても当面的なレベルにおいての正当化は要請されます。

 これこれの種族とは建設的な議論が成立しない、共存の可能性はないと言うとき、それはそう判断すべき理由に必ずコミットすることになり、この段階で話が合わないと、まず対話準備として線引き問題に関するメタレベルから対話しなければお話にならないでしょう。


混乱2:どのような存在者がどのような権利を持つのか

混乱2-1:そもそもどのようにして権利を認められるのか?

 まず人は生まれながらにして当然に人権を持つ――という天賦人権論、自然権思想は適切であるかどうかについて、既にメタ倫理学上は議論があります。その全部を認めないものもあれば、自然権に包括されるものの一部を認めないものなど、立場は様々です。

 たとえば自然権思想に立つのであれば「基本的人権は法以前に人は持っているのであり、法の文言はそれを実定化しているに過ぎない」と言うことができ、立たないのであればたとえば「基本的人権は法により保障されている」ということになります。

 この立場が互いに食い違っていると、話がこんがらがる可能性があります。整理しておくべきでしょう。

混乱2-2:そもそもどのような存在が権利の対象となるのか?

 これは一般生活上でも嫌というほど目に入ってくるでしょうから詳論は措きましょう。

 一般にはヒト以外の動物、アニマルライツなどを思い浮かべるでしょうがヒトも例外ではありません。「胎児の権利能力」については議論がありますし、区別もあります。たとえば民法は出産時における母体の死亡タイミングの差で相続権に差が出ないよう出生前に母体が死亡した場合の胎児は当然には相続権を奪われることはありません。一方で刑法においては一部(逆子でなければ頭部)が露出した段階でそれとみなし、この露出した頭部をかち割って殺害すれば殺人罪に問われるというのが通説のようです。つまり破水直後の妊婦のお腹を串刺しにして胎児ごと殺害した場合、胎児の人体はまだ外部に露出していないため2人殺したことにはならない可能性があります。

 上は日本の民法と刑法にまつわる話であり、国際的な合意のある考え方ではありません。つまり、どのような存在がどのようなタイミングで権利を認められるのか、ヒトについてすら国際的な合意がありません。アニマルライツに対してももちろん同様です。

 たとえば「自然権思想に立ち、かつ対象種族が自然権を持つと考える人」と「実定法により権利が保障されると考え、かつ対象種族が実定法の保護対象外である」とする人とでは整理すべき論点が複数あり、何も整理せずに素で殴り合うと、とにかくあちこちでコミットする立場が違うのでひどいメダパニ状態になることがおわかりいただけるかと思います。

 話し合う両者が「お互い自然権思想に立つが、対象種族が自然権を持つ or 持たない」で対立する場合も悲劇的です。自然権の根拠を「直観」に求めてしまえば、最早議論の余地がない、水掛け論になってしまうようにすらみえてしまいます。ここで民主的手法、つまり多数決を持ち出すことも必ずしも正当化されません。

 たとえば実験哲学は論理的な内容は同一であるにも関わらず、呈示した文の順番を変えるだけで倫理的問題に関する質問紙調査の結果が変わるという調査を提出しています。このような問題は哲学の場だけではなく、司法実務においても随分前から話題にされているようです(不適切な質問方法による汚染でより確からしい証言から遠ざかる危険があるため)。つまり、ホモ・サピエンスの持つバイアスの影響を強く受けた「大衆が掲げる正義」の集合をどこまで信頼したものか懐疑的な立場が一定数存在するということです。

 実際、わざとバイアスのかかりそうな出題の仕方をして「正義に関する直観の強固程度」をはかってみようという哲学上の実験が英語圏では数年前から行われています。

 ただし、文章の入替や印象付けなどによる「汚染」に左右されない「強固な直観」は「バイアスに左右される直観」より正義を語るに対して強く信頼すべきであるという主張は当然には正当化されていないことにも注意が必要です。アカデミズムの血も涙もない導出より、普通の人の考え方の方がよっぽど人間らしいじゃないかと言う人もいるかもしれません。もちろん、人間らしさが重要であるという主張もまた当然には正当化されていません。

混乱2-3:法と正義

 法の支配にある領域において、対象種族の殺害を行った場合もまた議論が発散します。まず適法だった場合です。「権利は法によって保障される」と考え「対象種族が法的な権利を持たない」場合、殺害は適法です。対象種族が権利を持つものの、公共の福祉において権利を制限され、殺害が容認される状況下での適切な方法での殺害も適法だと評価されるでしょう。

 しかし適法であることと正義にかなっていることが必ず重なる――という考えは合意を得られていないどころか否定的見解が大勢です。つまり、悪法が存在しうると認める場合、適法性を語ることではそれ単体では必ずしも議論の合意に辿り着けない場合があるということです。

 わかりやすくするため、別の状況をいくつか語ることもできます。法に従えば殺害することが義務だった対象種族を殺害しなかった場合、その不作為は義務に反しており違法です。そして、その法は悪法であり殺害しないことは正義にかなっていたと言うこと、つまり「不法かつ正義」を主張することが可能です。もちろん、「現行法は誤っている、現実をわかっていない」として不法に対象種族を殺害して回るキャラクターについても同じように「不法かつ正義」を掲げることができるでしょう。

混乱2-4:法と正義と執行

 仮に「対象種族の無条件の殺害を容認する法が悪法である場合」を仮定しましょう。悪法に従い対象種族を殺害した執行者たちがどう評価されるべきか、これも議論がわかれるところです。たとえば悪法が悪法であったとして携わった人間たちが裁きの場に立つ際、対象種族を処分施設で処分していた末端の一般職員は規則に従っただけだとされ罪に問われず、より上位の管理・立法などに携わる人間が罪に問われるといった状況じゅうぶんあり得ます。

 つまり、殺してはならなかった者を殺したからといって、法の裁きを必ず受けるべきであるとは限りません。悪法下での殺害が状況に照らしてこの役人にとって罰を与えるべき罪に該当しないと言うことは可能です、また逆に、そのような状況は確かに本作において適法だったが悪であり断じて許されてはならない、役人は自分が死刑になってでも正義に従い悪法に反逆すべきだった、たとえそれで社会が何も変わらないとしてもそうすべきだったとラディカルに主張することもできるでしょう。

混乱2-5:適法性と有徳性

 法と正義がわけて語られたように、適法だったかと有徳だったかも当然には同じ問題ではありません。法と正義と徳は必ずしも重ならず、ここも面倒です。

 対象種族の殺害は、対象種族に何らの権利も認めていないため適法であり、かつ対象種族との戦闘は極めて危険であり、法も正義もこれの殺害を容認しているとしましょう。行政主導のマニュアル化された適切な手法で日々対象種族を駆除している役人は単に職務を実行しているだけで有徳性に対し中立であり、他の自分の仕事をこなしながら、村を脅かす対象種族を積極的に狩っているやけに強い村人はより有徳であると評価される可能性があります。

混乱2-6:過剰な暴力と報復の満足

 混乱2-5と同じ状況下で対象種族に可能な限りの苦痛を与えて嬲り殺しにしている人間を想定しましょう。この人間の住む村の半数は対象種族により嬲り殺しにされたとしましょう。混乱2-5の状況下においてこの人間による嬲り殺しは対象種族に何らの権利も認めていないため適法です。この場合も「脅威は殺害すれば除かれるのであるから不要な苦痛を与えることは正義にかなわない、あるいは有徳でない」や「半数を殺害された村人たちの報復感情を満足させており、対象種族は法的権利を持たないのでどのように殺してもよいのだから苦痛を与えないことよりむしろ苦痛をひどく与えることがより望ましい」や「有徳ではないが同情する」など話が別れるでしょう。そして、正義の話をするか法の話をするか法の下での執行者の話をするか有徳性の話をするか感情の話をするかで焦点を定めなければ議論は発散します。


混乱3:そもそも何が正義にかなっているか

 伝統的な正義には大雑把に二種類あります。「帰結主義」と「非帰結主義」です。「帰結主義」は結果を重視します。人類の平和な発展の維持のため、あの種族の抹殺は仕方なかった、などは「抹殺により平和が保たれた」という帰結、結果をもって正義を正当化する立場です。

 「帰結主義」ではその名のとおり帰結、つまりもたらされる結果により正義を正当化しません。しばしば実務側から「絶滅するまで対話しようってか?」と鼻で笑われる机上の論者が描かれますが「人類絶滅」は帰結なので徹底的に非帰結主義を採るなら何の問題もありません。そこを突かれたところで痛くもかゆくもないのです。盗むべからず、姦淫すべからず、殺すべからず、こういった義務を貫く議論に帰結をぶつけても何の意味もありません。もちろん、何の意味もないのは議論にとってであり、論者は人間ですから心理的な動揺効果はあるかもしれません。皆殺しにされた論者のご家族の血の池の中で彼は震えるかもしれませんが、少なくとも非帰結主義は流れる血と臓物によって論理的な形式破綻を起こすことはありません。

 たとえば一人の命を救いたいとリスクを種々勘案の上手法として適切と判断した上で輸血について十分な説明を行った上で患者に輸血を実行しようとする医師は一人の命を救うという帰結を大切にしているでしょう。しかし例えば、明晰な意識できちんと説明を理解した上で、宗教的理由による輸血拒否により結果として患者が死に至ってしまうこともやむなしとする自己決定権を重視する法も存在します。このような状況により患者の死が生じた場合、医療としては適法ですが現状が正義にかなっているかどうかは未だ議論があります。つまり一つの命を救うことと自由意志による自己決定権のコンフリクトです。

 頭の隅々まで非帰結主義を採って正義を採っている人なら、帰結主義者からお花畑だと言われても「だから何か?」ですませるに違いありません。対話しようと笑顔で駆け寄り八つ裂きにされ流れ続ける同志の血を眺めながら特に自分は間違った主義はとっていないと判断するでしょう。

 反省するとしたら、主義そのものではなく説得手法というより下位にある手段の方になるでしょう。「共存に係る建設的な対話が決してできない」という判断は「消極的事実の証明」になるため作者によるメタ的な発言により読者に理解させることはできても、作中から拾える情報で作中人物が到達することはほぼ不可能です。「少なくとも今は建設的な議論を成立させられる見込みはほぼないことがわかっている」と積み重ねたデータをもとに高い蓋然性の話をしても「たくさんのデータをありがとう! よしじゃあデータをもとに対話を成立させるためのプロセス研究を行わねばな!」と返ってきてお話にならない可能性がありえます。ここで数々の結果や予測される帰結を口にしても非帰結主義には特段の効果がないことは先述のとおりです。

 しかもメタ的には正義の基礎付けは暗礁に乗り上げています。その正義が正当である根拠が無限背進するか、根拠の根拠の根拠の根拠の背進を止めて独断論になるか(たとえば神はそのための古典的な道具です)、循環論法に陥るか。基礎の話をしだすとこのトリレンマに襲われます。よって相手の正義それ自体を崩そうとしても論証過程に瑕疵がない場合、先に挙げたトリレンマによる懐疑論で自論もろとも自爆するくらいしか、論そのものに対する根本的な攻撃手段がありません(あくまで論の話です。家族が血の池に沈んだ非帰結主義者の例のように論を相手にするのではなく、論者を相手にし、心理的動揺を与えまくって翻意を促す場合、様々な方法が考えられるでしょう)。

 議論にならなくては困るので、そこで哲学者がしばしば用いているのが「直観」ですが(お花畑の対話論者を「人類絶滅するまでやんのかよ」と鼻で笑う殺戮者などもその一例でしょう)、この「直観」がそもそも道具としてどうなのかという懐疑論、「直観批判」とそれへの応答が少し前からある哲学的ブームでした。先に挙げた論理的には何も変わらないのに文章の前後を入れ換えただけで回答が変わる質問調査による疑念提出や、それに応答するために「直観の強固性の程度」を持ち出す。あるいは「直観」はその人の触れ、好んできた理論におり汚染されているといった批判や、それはまだ事実じゃなくて仮説ですよね、そもそも汚染は当然に悪なのですかという反論。ホモ・サピエンスという進化の所産に過ぎない動物のバイアス塗れの脳を疑う向きと進化を持ち出すのは適用範囲が広すぎるし反証可能性に疑問がある、それらの問題点を整えれば全ての正義に対する懐疑論に陥るだけだという反論など、私も動向を調べている途中ではあるのですが、あちらこちらで大乱闘の模様です。


混乱4:戦闘技術と正義

 ベテランが新入りに「相手を人間だと思うな」と言うのは倫理的な言明ではなく、戦闘上のテクニックの指導だという指摘は大いに正しいこともあります(もちろんベテランが単にテクニックを伝授しているだけでなく、実際にベテラン自身も相手をケダモノだと理性的にも結論していることもあります)。しかし、この戦闘技術指導は「相手を人間だと思わず処理することで逡巡やストレスを軽減する手法の伝授や構築は倫理的に許されるか」という問題に結局コミットします。

 なお、人対人の戦闘においても「人殺しをしている」という実感から人を遠ざければ遠ざけるほど兵士が意図通りに動いてくれること(銃剣で突き殺すよりも銃撃する方が、銃撃するより艦砲射撃に関与する方が適切に指示通りに動く傾向がある)や、なるべく人に似せた的を使った教練で実戦に慣れさせると指示通りに動きやすくなるなど「人殺しの実感によるストレス」対処は実務として現実でも行われていることのようです。

 プラグマティックに考えれば、対象種族とのエンカウントが今後も頻繁に予見される場合そのような心構えを新人が習得することは有用です。ただし、それはプラグマティズムにコミットしており価値中立なわけではありません。

 たとえば冒険者が主人公の場合、そもそも主人公はどこまで対象種族殺害について責を問われるべきか? そしてそれは正義一般の話か? 適法性一般の話か? 徳一般の話か? それとも法社会の下で動く冒険者という職に属する(あるいは冒険者という何の職にも属さない)一個人に関する話か? と何の話をしているのか曖昧になりやすいことは混乱2で述べたとおりです。


結びに:方法的情動主義

 以上で概観してきたとおり、フィクションにおける敵対理性的他種族への対応はメタ領域を含む多くの問題を同時に孕んだ複雑な話なので、1作品に絞って自分の立場を語ろうとしても、自明でない箇所を一つ一つ埋めながら明晰に行おうとすれば膨大な仕事になります。

 作品に対する評価、作中における一市民に対する評価、対象種族の処理実務に携わる実務担当者への評価、組織への評価、立法者への評価、等々1つの作品を見るにしても何を見るかにおいてまた話は変わってきます。

 哲学的・倫理的には100年近く古い考え方ですが、よほど徹底的に詳論していない限り「正義やら徳やらの話は個人の情動の表明にすぎない」とする「情動主義」を方法的に採用して単なる「情動データ」のひとつとしてそれらの主張を眺めるのもありかもしれません。先述のとおり、まともに話そうとすると論点が多すぎるので「まず我々はどのくらいの数の論点を含んだ話に、それぞれどの立場にコミットして話しているのか。そして我々はどの論点の話を、あるいはどの複数個の論点を焦点としてこれから話すのか」という議論の前段階の整理整頓-合意に滅茶苦茶時間がかかって大変なので、よほど時間と体力と精神力に自信がない限りそういった対話はおすすめしにくいところではあります。

 ただし、有益な指摘でありうるものは存在します。それがフィクションにおける記載に対する評価である以上、出典の誤読や見落とし、改訂による変更点の発生の指摘などは間違いなく有益な情報共有でしょう。「作中人物Aが××と言った」は「作中人物Aが言った××という話が事実に即しているとは限らない」(Aが信頼できない可能性があり、最悪の場合その場面自体幻覚を見ている可能性があります)ことには注意が必要ですが「Aがそう言ったようにみえる場面が描かれた」という事実だけは検証可能な事実ですので、その限りにおいては有用であるでしょう。

補遺1:「生得的」と題したことについて

 本noteは「フィクションにおける殺人を生得的に動機づけられた理性的種族の処理に係る実務と正当化についての哲学的側面からの検討」と題されています。これはワトソン的な古典的行動主義、教育による人格改変の不可能性を強調するためでもありますが、もう一つの議論を要するだろう狙いもあります。

 まず「生得的」にそのような種族であるとき、これに淘汰圧をかけることができるとしたらどうでしょう。本noteでは対象種族が自然発生するとは述べていません。淘汰圧が働いているとしたらそもそも異常に人を殺しまくる種族に「自然淘汰でそんな連中が繁栄するか? 人為ではないか? 自然だとしたらどのような流れだったか?」など世界の謎が気になってきますが、本論の趣旨ではないので措くとして、とにかく淘汰圧をかけることができるのであれば方法として「反倫理的傾向」を持つ個体の生殖可能性を断ち、逆に「比較的穏当」な個体の生殖機会を増やしていくことで問題が漸進的に解消できるのではないか――などという期待があり得ます。

 「優生思想」ではないか? という考えは極端な場合、対象種族を理性的存在者とみなさない立場からは「品種改良に過ぎない」とされるでしょう。

 また、対象種族を理性的存在者と見なす場合、「人類の公共の福祉」あるいは「両種族の共栄共存」等が対象種族の各個体に対し人類側が一方的に強制を行うことについて議論があるでしょう。絶滅戦争よりマシだ、いや種族自決が優先される、絶滅する方がまだマシだ、等々……両種族の代表が合意したとしても、拒否して暴れる対象種族一個人がいるかもしれません。

 もちろん、そもそも狐を犬のような性格になるよう人為選択していくことと違って理性的存在者の倫理的傾向を生得面のみに着目して淘汰しても、そもそも方法として上手くいく見込みに懐疑的だという指摘も、これは哲学的な話ではありませんが忘れてはならないでしょう。作中舞台が地球ではないなどして、淘汰の単位が遺伝子ではなく別の何かである場合、ミームがそうであるように淘汰の考えそのものは使えても遺伝子を相手にするようには、作中世界における「淘汰圧がかかるなにか」について語れない可能性は勿論ありますが。

 対象種族が自然発生する場合でも、たとえば対象種族から「非倫理的傾向」を除去する魔法が開発された場合、それを実行することで発生した各個体を社会の成員に迎え入れることは正当化されるでしょうか。される場合、たとえばこの魔法は犯罪防止、公益の名のもとに対人類向けに改変してもよいものでしょうか。「個人の性格に直接手を加えること」自体の評価は勿論、「どの程度」手を加えるのか、「この程度に決定しようとするならなぜその程度が妥当なのか」ということも議論の対象になるでしょう。

補遺2:哲学徒が無視しがちなことについて

 正義や法や徳は哲学徒がそれなりに触れるところですが、たとえば一昔、二昔前にweb小説界隈で流行った「殺す覚悟の有無」も議論の的にはなるかもしれませんが、哲学的にはあんまり重要視しないかもしれません。「対象種族の処理組織」の「実務指針」として能率的に職務を遂行できるようそのような覚悟を涵養すべきか議論されたり、あるいは「処理要員の心的負担考慮計画」という職員福祉の一貫としての教育として計画されたりと、実務的には面白そうですが、覚悟があるかどうかはそれこそ哲学的には情動の表現に過ぎず、学究の対象にとられないかもしれません。ただし、この「哲学徒が無視しがちなこと」が実社会での意志決定において大きな影響を及ぼしていることから、「今まで無視していたものをちょっと分析してみようか」という実験・分析的な傾向はちょっと前から哲学的プチブームな気はするので、「殺す覚悟哲学」も可能かもしれません。

なお、無視しがちなのは「覚悟」の有無であって「殺意」の程度(殺すつもりはなかったが偶然殺してしまった場合と明確に殺す意図を持って殺した場合の差など)や「計画性」の程度(突発的遭遇でもみ合いになり結果として致死に至った場合と、入念な準備計画の上殺害を実行した場合の差など)は議論の俎上にあげられるでしょう。

 このような場合、たとえば「覚悟」を「殺意」や「計画性」の程度を数値化する際、その数値に影響を与える項として見る場合、「殺す覚悟」は「殺意」や「計画性」に関与することになり、一分科として議論の価値を持ち得ます。この関係性はあまりにも当然であり、さほど重要視していなかったのであればそれは反省に値するのではないか? という疑義を付すこともできるかもしれません(また、私が特に徳倫理に関し功利や義務と比べ明らかに浅学なため、徳倫理領域で既に議論されている可能性があります)。これは「殺す覚悟」を議論に導入する可能な考え方の一例であり、他にも様々な方法が考えられるでしょう。

なお、本追補は入念に本noteを精読いただいた方の感想に触発され追補されたものであり、啓発にあつく御礼申し上げます。

2023.11.16追補


補遺3:本当の補遺

 冒頭でも述べたとおり、本論は創作論にはコミットしていません。また、物語をどのように受容すべきかについてもコミットしていません。フィクションにおけるやたら積極的に人類を殺しにくる敵対種族と人類の関係性を眺めたとき、どのような哲学的話題が出てくるかの一部を概観しただけです。

 このような問題に逐一検討を加えながら創作すべきであるとは思いませんし、このような問題を逐一検討しながら読めねばならぬとも思いません。どう書いてもどう読んでもよいわけです。作者も読者も自由です。

 本論の目的は、あくまでこの種族問題において議論が成立しない、成立していたようだったのにすれ違っていく、といった状況が筆者周辺で散見されたため、筆者自身の反省も含め整理整頓を行ったものに過ぎません。

 もちろん、整理整頓してから対話すべきであるという立場は特に日常会話において自明に正当化されていません。雑感が飛んでそれに触発された雑感がまた飛んで、飛び交って、すれ違って、それが許されざる悪であるということもありません。整理整頓したければすればよく、そしてそうしたい場合の整頓例を並べたに過ぎません。

 感想を言語化していけばいくほど感情が色褪せていってしまうという人もいます。無理に徹底的な言語化を迫るべきではないでしょう。これは、あくまでそういう話をしたい人向けの道具の整理に過ぎないのです。

 自分が一番面白いやり方で読み書きして悪いことはなにもありません。もちろん、そのように読み書きすべきだという主張、面白さ主義は当然には正当化されていませんが、そのように読み書きする自由については保障されていますので安心して楽しく読み書きしましょう。楽しんで読み書きしている人を見ると私も楽しいです。

 特に筆者周辺で散見される、地獄のように呻きながら書いている苦行者たちについても、苦しみながら書いてはならないという定めはないのでその苦しみの自由は認められています。その苦行を後方腕組みして謎にウム……! と頷きながら見守っています。

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