「相手の立場に立って考える」能力とは

私は発達障害。

診断はADHDで、ASDは診断基準以下と言われているが、コミュニケーションに障害も感じている。

女友だちと、友情が続かないからだ。

はじめは私のことを「とっても気持ちの優しい人」と寄ってきてくれた人は、しばらくして静かに離れていく。

多分、何かしらのコミュニケーションのしづらさや違和感を感じるのだと思う。

みんな何も言わずに去るので、具体的に自分がどのような面でコミュニケーションに課題があるかはわからないことが多い。

そんな私に、去年、自分とよく似た同性の友人ができた。

社会への不安とか立ち位置とか、よく似ていて意気投合していたのだけど、半年ほど経つうちに奇妙な違和感を感じるようになった。

・なんでも人に聞く

人との距離感が近いらしく、面倒見の良さそうな医療職のアカウントに積極的に絡んでいく。

それはいいのだけど、本人が疑問に思ったことを質問しやすそうな人に聞いてくからチグハグに見えたりする。

以下に例をあげるが、ほとんど脚色していないので身バレするかも。

まあこの記事読む人も少ないだろうしいいか。

例:

医療職アカウント「とうとうワクチン接種がはじまりました。申し込みはうんたらかんたら」
その人「このワクチンは何を素に作られたのでしょうか?それがなぞ過ぎて怖いです。」

そんなにおかしな質問ではないのだろうけど、答えづらかったのだろう。

いいねだけされて回答はもらえていない。

例2:

医療職アカウント「職場の人にtwitter名で呼ばれる。本名で呼んでと言ったらやだって言われたwww」
その人「先生のtwitter名って漢字にすると□□□ですか?それとも▲▲▲ですか?」

多分話の流れからしたら「ひどいww」とか「twitter名がよっぽどしっくりくるんですねw」とか「その職場の人面白いw」とかの返信が自然なのだろうけど、そのルールを無視している。

ただ、こう書いてしまう理由は私もよく理解できる。

元ツイートを読んで「ふーん、twitter名で呼ばれたねえ。どうでもいいや。あ、でもtwitter名の由来のほうは気になる。なんか意味あんのかな…」という思考でそのまま聞いてしまうのだ。

私もよくやってしまうのだが、相手は相手で「期待している反応」というものがあるので、そこを無視するのは失礼にあたるのだと初めて気づいた。

例3:

その人「@医療職アカウント 先生、突然の質問失礼いたします。ワクチン接種と予防接種の違いってありますか?」

これは返信ではなく、直接本人に向けて質問したツイート。

この相手がワクチン接種と予防接種を使い分けてるならこの質問も理解できるが、そういうわけではないので知ったこっちゃないというところだろう。

返事はもらえていない。

多分、3歳時がなんでも親に聞くのと同じ感覚なのだろうと思う。

成長するにつれ相手の立場に立つことを覚え、質問は適切な相手にするようになるが、そこが未発達なのだと思う。

例3:

具体的な内容は忘れたけど、医療職アカウントが落ち込んでいたとき

「せんせ、美味しそうないちご大福見て元気だしてください」

と言って楽天の商品URLを紹介していた。

多分、本人はそれ見て気持ちがアップしたのだろうけど、相手がそうだとは限らないよなぁ…。

これも「相手の立場に立つ」ことを苦手とするASDの特徴なのだろうかと思った。

(この人のツイートは他にもさまざまな違和感を抱かせる。障害者権利の意識が強いこと、被害者意識が強いこと、ふわっと上から目線など。詳しくは別の記事で書く)

「相手の立場に立って考えることの出来ない人」といったとき、多くは冷血で自分勝手な人を想像する。

ズバズバ正論ばかりぶつけてくるキツイ人とか、共感をバカにしてる仕事人間とかそういうのだ。

でも、この人はそういうタイプではない。

人に必要とされ、人との関わりの中で自分の存在価値を見つけようとしている。

その願いとは裏腹に、人が寄ってこずに苦しんでいる。

こういう人は世の中にあまり多くないので、反面教師を見つけることも出来ず、「なぜか人から嫌われる…」と困惑するばかりだ。

ある日彼女は言った。

「私、人を嫌いになったことがないから嫌いって気持ちわからないんだよね。人はなんで私のことを嫌いって思うんだろう」

『人を嫌いだと感じたことがない』というのは、昔の私が思っていたのと同じだ。

同様に『人にイライラしたことがない』とも思っていた。

しかし違った。

人は(私だけ?)、自分より仕事ができる相手にイライラしたりしないのだ。

自分より配慮ができる相手、コミュニケーション能力が高い相手にイライラもしない。

私がイライラしたり、嫌いだと感じたことがなかったのは、『周りの人みんな自分よりコミュ力や仕事能力が上だった』からだった。

『私は人にイライラしない』と思っていた数年後、入社してきた知的障害らしき汚らしい格好の男社員に普通にイライラした。

くだんのその人は「なぜか人から嫌われる…」と思っているようだが、私は彼女のことは嫌いではない。

私とよく似ているし、物凄く共感することも多い。

彼女は知的ボーダーで、「深く物事を考えるのが苦手なのかな」と思うことが度々ある。

本人もそれは自覚しているのだが、なぜか人々を啓発しようという意識が強く、上から目線になることが多く、違和感を感じるので警戒するのだ。

年下なのに、唐突に「○○だしさぁ〜」などとタメ口を聞きだすし、基本的に距離感が近い。

なのでますます警戒する。

こういう人は、これまでの長い歴史の中で問題視されなかったのだろうか。

なぜ現代になっていきなり「社会不適合者」となってしまったのだろう。

思いやりもある、暴言も吐かない、なのになぜうまく社会に溶け込むことができないのか。

私は、あまりに人と人とのコミュニケーションが高度に、また密になりすぎたからではと思っている。

宮仕えなどは別として、日中家事に畑に力仕事ばかりしていた昔の女はここまで繊細なコミュニケーションは必要とされなかったのではないだろうか。

私は過去、ブラック企業に勤めていて毎日終電帰りだったことが何度かあるが、人間関係のトラブルなど起きなかった。

毎日ヘトヘトで死にそうな私に、誰も嫌味も文句も言えなかったからだ。

40を間近に迎え、今の私には当時のような働き方はできない。

体力はなくても気力で乗り切ろうとしたこともあるが、毎週40度近くの高熱を出して全く動けなくなってしまったのだ。

仕事は楽になったのに、今度は繊細で高度なコミュニケーションが必要とされるようになった。

苦を乗り越えてまた新たな苦、といった趣だが、あの苦しかった未開の時代に戻ってはいけない。

高度なコミュニケーションの時代に適応するために、自分のコミュニケーションのどこに問題があるのか、引き続き考察していくつもりだ。

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