見出し画像

ある友の死

理事(当時) 中村義三

 ちょうど十年前、土浦の慰霊祭に行ったとき、私たちクラスのところに、乙十六期の人が、石井正行君の遺族を訪ねてこられた。石井君の特攻最後の様子を遺族にお傳えしたいというのである。このときの慰霊祭に、母親のヨシ子様が参列しておられ、さっそくクラスの一人が会場に探しに行ったあと、私は、石井君の最後の様子を聞かせていただいたのである。

 この人は「終戦以来、機会があったら、御遺族にお会いして、その時の模様をお知らせしたいと思い、もしや今日の土浦慰霊祭で会えるかもしれないと望みをかけてやってきた」と前おきして次のように話した。

 「故・石井正行君とは、徳島航空隊で同じ白菊特攻隊員(編注: 「白菊」は偵察用の機上作業練習機)だったが、私は、そのとき病気で入院中のため、終戦を迎えてしまった。故人は、昭和二十年五月二十八日、神風特別攻撃隊徳島第二白菊隊の一員として偵察員・稲子多喜男一飛曹とともに沖縄へ出撃、敵艦隊に特攻々撃をかけ壮烈な戦死をとげた。(編注: 記録では沖縄周辺海域の米駆逐艦ドレクスラーを撃沈)

 この日(二十七日夜)徳島第二白菊隊十一機は、田中正喜中尉を指揮官として、残留隊員の見送る中を二〇四〇〜二一二〇にかけて次つぎと発進、一路沖縄に向ったのであるが、しばらくすると石井機がエンヂン不調で引返してきた。着陸するや直ちに整備班に走り「すぐ出撃するから故障個所を見てくれ」と強硬に訴えた。

 このことは、直ちに整備長、飛行長、司令へと伝えられた。さっそく故障個所の整備が行われたが、早急な修理は無理と判断され、司令から「本日の出撃を見合せ、次期の出撃まで待機するよう」命令が出された。

 これを聞いた石井君は激怒、がんとしてこれを聞き入れなかった。残留隊員、分隊士、分隊長、そして飛行長らから事情説明や慰留をうけたが、石井君は『一緒に死のうと誓い合った隊員にすまない。おくれをとりたくないから、是が非でも行かせて下さい』と涙を流して訴えた。石井君は、隊員のとめるのをふり切って司令室に飛びこみ、両手をついて出撃許可を求めた。『もし許可がおりなければこの場で割腹自殺します』と強硬に訴えた。さすがの司令もこの固い決意に負けて涙の中に出撃を許可、直ちに代替の飛行機が準備され、一時間おくれた一三二○、司令以下基地員、隊員が涙で見送るなか、同乗の稲子一飛曹と共に笑いながら手をふり、単機沖縄の空に出撃して行ったのである。石井君は、遺書の通り、その行動を忠実に実行することによって、十八歳一ケ月の短かい生涯を祖国防衛の礎として捧げたのである。あの時の情景は私の瞼に強烈にやきついて、一生忘れることができない、と語り終えた。

 私は、これを聞いて「よくやったぞ石井」と心の中で呼び、涙の止めようがなかった。私と石井とは、岩国の予科練時代、同じ分隊の同じ班で、とても穏やかな優しい眼差しをした美少年だった。温習室でも机を並べ、ホームシックを慰め合ったのも石井君だった。彼は郷里が広島だったので両親がよく面会に来られ、そんなときも一緒したものだった。

 徳島空での教員時代もきっと練習生や他の教員に好かれたものと思う。私の記憶の中にある石井君の特攻戦死の報に接した時、かならずや立派な戦死の仕方をした事と信じてはいたが、しかしあのような強い信念と意志があったとは、唯々敬服するばかりである。予科練に入隊して、戦死するまで、たった二ヶ年の間に培かわれた“予科練魂”、純粋なまでに憂国の志を、私たち生きる者として、かならずや後世に伝えゆくことを、石井君の霊、いや多くの戦死して行った同期生、戦友の霊の前に誓ったのである。(財)海原会のあゆみと共に。

遺書
覚悟ハ出来テ居ル 正行
本来ノ望ヲ果シ皇土ヲ護り通ス
悠久ノ大義二生クル正行ノ
笑顔ヲ送リタイガ嬉々トシテ
死ス同期ノ姿ガ五枚遺品二
添テ有リマス、父母様ドウゾ
正行ノ成功ヲ見テ下サイ
弟輝夫モ正行ノ後ヲ継セテ
下サイ

誓ツテ敵艦船ヲ
    轟沈セン

(海原会機関誌「予科練」37号 昭和54年7月1日より)
 写真は神風特別攻撃隊「徳島白菊隊」隊員の記念撮影、後ろは白菊 ウィキペディアより

 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

 「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

 創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」

昭和四十一年五月二十七日

海軍飛行予科練習生出身生存者一同

撰文    海軍教授 倉町歌次


公益財団法人「海原会」は予科練出身戦没者の慰霊顕彰と遺書・遺品などを管理しています。詳しくはホームページ、ツイッターをご覧下さい。

海原会ホームページ

https://yokaren.jp/

海原会ツイッター

https://twitter.com/unabara_yokaren