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【みじかい小説】ガムシロップ

 眠らないで朝を迎えたときの体のしずかでなんにも考えられない感じ、みたいに中古車専門店に立っていて、値段と何キロ走ったかの説明を受けている。わたしは車に乗らないので、それでいい、と言って、とりあえず座らせてもらう。座ると自分の疲れが身に染みてくる。なぜ疲れているかというとガムシロップをつくっていたからで、喫茶店ではときどきガムシロップをつくる。おおきな鍋に砂糖とお湯を入れてかき混ぜる。それを何回もやった。そんなにガムシロップが使いたいかね、とわたしは思った。ガムシロップが入っていてもいなくてもコーヒーはうまいのだけれど、みんなガムシロップを使いたがる。わたしが鍋底からへらをつかって砂糖とお湯をひっくり返すように馴染ませていく力仕事をしてつくっているガムシロップを、みんなはだくだく使う。だからすぐにガムシロップをつくらなくてはならなくなる。
 先にあがっていいよ、と言われてわたしは自分が雇われている側だったことを知る。なんでかわからないけれどわたしはみんなを雇っていると思っていた。そういえば、シフトの作成も、お店の利益の計算も、給与をあげることも、なにもしたことがなかった。ただガムシロップをつくったり、パンをサンドウィッチの厚さに切ったり、バターだかマーガリンだかわからない油のかたまりを常温に戻したりしていた。そうか、わたしは雇われているのだ、と気がついてから、制服を休憩室に置いて私服に着替えて、お疲れ様ですと言いながら店を出て、もうここには来ないだろうなと思った。
 だから中古車が必要なのだった。中古車があれば、どこにでも行ける。新車ほどちゃんとしていなくていい。行きだけの旅かもしれないからだ。いい場所を見つけたらそこでゆったりと暮らす。砂糖とお湯を混ぜ合わせなくていいような仕事に就く。就かなくてもいい。いろんな福祉制度とかそういうので働かなくても食べていける方法はあるだろう。結婚をしてもいい。だれとでもいい。特に要望はないが、働かなくてよくて、一緒に住まなくてよければたすかる。シャープペンシルをつくる工場。シャープペンシルの芯をつくる工場はどのくらいの規模なのだろうか。シャープペンシルの芯をつくる機械や設備がちょうどおさまるくらいの家があるといい。そんなに広くないと思っているけれどもしかしてめちゃくちゃ面積が必要だったらどうしよう。シャープペンシルの芯を作るのには想像のつかないくらいに複雑な過程があって、その過程をこなすためにうねうねした機械が延々と続いていて、その機械によってこねられて、ねじられて、転がされて、ようやくシャープペンシルの芯が出来上がるのかもしれない。そうだとしたらそんなに広い家はいらない。普通の家でいい、ということをどうやって表したらいいのかわたしにはわからないので車の値段の算定をぼんやり眺めている。
 だいたいこのくらいですね、と提示された値段をわたしは持ち合わせていなかった。わたしの口座には数万円しか入っておらず、とても買えるはずはなかった。はい、とわたしは答えてクレジットカードを渡し、暗証番号を押して支払いをした。クレジットカードの上限にふれないくらいの金額の車だった。一回も自動車免許の確認をされなかったのが不思議だった。それで車というのは買えてしまうのだなと思いながら出してもらった濃いカルピスを飲んだ。飲み物は、コーヒー、紅茶、ハーブティー、麦茶、オレンジジュース、カルピス、から選べて、わたしはすぐにカルピスを選んだ。カルピスは乳酸菌が増えるのではなかったかとわたしは記憶していた。せっかくなにかの飲み物をのむのであれば乳酸菌を増やしたかった。車の鍵を受け取って、運転して帰ってもいいですよ、と言われてわたしと中古車専門店の店員さんは車へ向かった。わたしは車のドアを開けてシートベルトを締め、鍵を挿して車のエンジンをかけた。じゃ、ありがとうございました、と少し離れたところに立った店員さんをわたしはちらりとサイドミラー越しに見て、P、つまりパーキング、に入っているバーを、D、たぶんドライブ、に入れて、いくつかあるうちのペダルをひとつ選んで強く踏んだ。ぎゅうんと音がして車は前に進まなかった。サイドブレーキ、とわたしは気がついた。サイドブレーキがどこにあるのかわたしはわからなかった。サイドにはなかった。サイドにないサイドブレーキなんてなんなんだ、と思っていると店員さんがこんこんと窓をノックした。わたしは慌てていた。あれこれのボタンを押したりレバーを引いたりもどしたりペダルを踏み替えたりしているとそのうち車は前に進んだ。店員さんははっと体を引いた。ぐるっとUターンするようにして道路に出た。たくさんの車からクラクションを鳴らされた。まっすぐ走ることは簡単だった。ペダルを踏んでいればいいからだ。その踏み具合だけを気をつければよかった。
 砂糖をかき混ぜるときの動きでぐるっとハンドルを回すと左に曲がることができた。縁石に乗りあげてどすんと落ちた。その道は入ってはいけない道だったらしく歩いている人たちが怪訝な顔をしていた。けれどわたしはバックする方法を知らないのでまっすぐ進むしかなかった。道はどんどん細くなっていった。それでも車はガードレールにがりがりと体を削られながら進んでいった。
 突き当たりに喫茶店があった。わたしはそこで一休みしようと思った。しかし道が細く、両方のドアがぎっちりと道に挟まれているので出てゆけそうになかった。しかたがなくそのまま突っ込んで、ドアを破って喫茶店に入った。喫茶店のカウンターを擦りながら店内に入って、窓を開けるとマスターが「なににしますか」と聞いてきた。「アイスコーヒー」とわたしは答えた。「ガムシロップは」「いりません」

ものを書くために使います。がんばって書くためにからあげを食べたりするのにも使うかもしれません。