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【小説】ちょっと高く売れる苔

大阪女性文芸賞最終候補作、たぶん原稿用紙換算50枚ちょっと

 部活動がはじまった。私は中学高校と卓球部に所属していた。体育館で行われているのは野球だった。室内で野球を行っているのを見たことはなかったが、すぐにああいま行われているのは野球なのだなとわかったのは、選手たちがみなジャイアンツの帽子をかぶっていたからだった。私は野球のことにはとんと興味がないが、ジャイアンツは有名で人気のあるチームだと聞いている。部活動に必死に取り組んでいる彼らもおそらく人気者なのだろう。実際体育館には応援の人々が詰めかけていた。ただの練習日だというのにだ。人々は選手たちに声をかける。がんばれなんとかくん、いけーなんとかくん、大宮打て、大宮しっかりしろ、大宮という選手の名前だけがはっきり聞こえてくる。大宮というのは肉付きのいいがっしりとした体格の二年生で、最近の高校生にしてはめずらしく近所の家に下宿をしている。下宿先でご飯を何杯もおかわりするので、おばちゃんは混ぜご飯の日にも大宮くんにだけは白飯を出している。混ぜご飯を何杯か食べたって別にいいだろうと私は思うのだが、その微妙な金銭感覚がおばちゃんが下宿を長く続けているこつかもしれなかった。おばちゃんは自称苦労人だった。よく下宿している生徒たちに自分の昔の苦労話を聞かせては涙を流したが、そこで語られる話のほとんどはうそで固められたものだった。おばちゃんは戦争で夫と死別したことも帰宅したら家に火がつけられていてすべてを失っていたこともなかった。おばちゃんの中にはもっと別の類の苦労があって、そのことでずいぶん苦悩し、つらい思いもしてきたのだが、ほんとうをおばちゃんはけして話そうとしなかった。ただひたすらに飯を作っては下宿人に愚痴を言った。愚痴を聞いていたのは下宿人だけではなかった。おばちゃんの家は違法建築やらなにやらによって異様に壁が薄く、しかも声が大きいので、おばちゃんの苦労話は隣家に丸聞こえであったのだ。隣家に住んでいる雪山さんは思った。このおばちゃんはたいへんな思いをしていままで生きてきている、おばちゃんをなんとか守ってあげなくては。雪山さんは感動的なテレビや本に影響されやすいタイプだったのでおばちゃんの話をすべて信じ込んだ。しかしおばちゃんと雪山さんは仲がよいわけではなかった。ただの隣人で、会えば挨拶をする程度の関係だった。雪山さんはときどきおばちゃんの名前でお寿司を取って届けさせた。おばちゃんはそれを怪しがって受け取らなかった。雪山さんが支払うのでおばちゃんには請求しないでくれと言うことを雪山さんはお寿司やさんに伝え損ねていたので、お寿司やさんはおばちゃんに料金を請求していたこともおばちゃんが怪しいと思った理由の一つだった。雪山さんは自分の連絡先をお寿司やさんに伝えていなかったので、おばちゃんがお寿司やさんから出入り禁止を食らうようになってしまった。お寿司やさんは創業二年の新米寿司屋だった。配達サービスも本来ならば行っていないのだが、どうしてもと頼まれたときだけは行うことにしていた。お寿司やさんの握る寿司は異様にシャリが大きかった。江戸時代に出されていたお寿司というのはこういうものなのだと大将は言った。実際のところは、大将はむかしおにぎりやさんに勤めていたので、小さくお米を握るということがどうしてもできなかったのだった。何度やっても三角形のうつくしいおにぎりができあがってしまうので、そこにぺたっとネタを乗せて提供していた。おにぎりやさんで働くというのは早朝から晩まで拘束されるということだった。おにぎりやさんの朝は早い。少なくとも五時頃には支度を始めないと開店に間に合わない。おにぎりやさんのキャッチコピーは「清く、正しく、おにぎり」だった。誰もその意味を正しく把握している者はいなかったが、おにぎりやさんでは毎日「清く、正しく、おにぎり」を大きな声で叫ぶという時間があった。みなは、なぜこんなことばを叫んでいるのだろうと不思議に思わないように気をつけていた。考えはじめたらすべてのことのなぜどうしてが気になってしまうからだ。おにぎりやさんでは社員からアルバイトまで全員、雨の日に傘をさすことを禁止していた。自分でさす傘があるのならば客に貸し出しなさい、ということで雨の日には店頭で無料傘レンタルを行っていた。おにぎりやさんは駅から徒歩十五分の位置にあった。濡れないで来ることは不可能に近かったが、おにぎりやさんにはシャワーがあったので雨の日はみなシャワーを浴びた。手にはにおいのするボディソープを使わないようにした。おにぎりに香りがついてしまうといけないからだった。おにぎりやさんが開店するとすぐに客がどっと押し寄せてくる。先頭にいるのは決まって松平さんだった。松平さんは私の家の庭にテントを張って暮らしていた。私の家の庭はそんなに広いわけではないが、ちょっと母が家庭菜園をするくらいのスペースはあって、年中なんらかの花が咲いていて、ときどき猫が迷い込んできてはえさをほしがったりごろごろ昼寝したりしてくるほほえましい庭だった。そのうち猫の代わりに松平さんが来るようになった。松平さんはえさをほしがったりごろごろ昼寝したりした。猫と同じ感覚でえさを与えてしまった母がよくなかった。すっかり庭に住み着いてしまった松平さんは雨の日も雪の日も庭で横になっているので、不憫に思った父が家の中に入りなさいと言ったが松平さんはそれをかたくなに拒否した。松平さんはいつもスーツを着ていた。ぱりっとした、見ていて気持ちのよくなるような素敵な仕立てのスーツだった。そのスーツで庭にごろごろ転がるものだからスーツがかわいそうだった。スーツをなんとかしてあげたいなと思っているうちに松平さんはどこからかテントを持ってきた。商店街のくじ引きで当たったらしいよと和菓子屋さんのおばさんは言った。和菓子屋さんはインターネットで事業をはじめてから和菓子作りをほとんどやっていない。店頭に和菓子が並ぶことはなくなって、かわりに高額な健康食品が置かれている。はちみつだかプロポリスだかを使ったそれだけを食べていても生きてゆけるほどの栄養が詰まっている食品らしい。和菓子屋さんのおじいちゃんはその健康食品を食べていてのど詰まりを起こし亡くなった。用法と用量を守って正しくお使いください、と和菓子屋のおばさんは葬式でスピーチをした。葬式は区民斎場で行われた。このあたりの葬式はだいたい区民斎場で行われる。区民斎場の仕出し料理はおいしくないが、区民斎場とその業者は癒着をしているので、ほかの仕出し屋さんに頼むことも出来ずにまずい料理をみなだまって食べている。我慢の出来ない者は区民斎場にほど近いところに流れている川へ行く。そこに皿に盛られた寿司や煮物を流すのだ。死ぬというのはどこかに流れていくことで、また死というものは洗い流さないと続いてしまうものだからこのように川に食べ物を流して供養するべきである、などというもっともらしい理屈を誰かがつけたことから川へ料理を流す人が増えていった。怒ったのは川の管理人だった。ほんとうに川の管理をしているのは区の管理事務所だったが、自主的に管理を行っているから管理権は自分にあると主張しているのが川の管理人であった。川の管理人は区民斎場で葬式が行われるたびに川が汚されるという現状をひどく憂いていた。川の管理人は川のことだけを考えて暮らしていた。仕事は川の管理。食べ物は川で得るあるいは川の近くに住んでいる人から分けてもらう。夜は川辺で眠る。川の管理人は怒りを抑えることが出来ず、区民斎場に文句を言うため駆け込んでいった。そのとき行われていたのは和菓子屋さんのおじいちゃんの葬儀ではなくデビッドカッパーフィールドの葬儀だった。いやいや、と川の管理人は言った。デビッドカッパーフィールドはまだ生きているはずだぞ、と川の管理人はウィキペディアをみなに見せながら言った。その通り、と日本語でデビッドカッパーフィールドが叫んだ。そのあとザッツライト、ともう一度言った。日本語と英語の二カ国語対応だった。喪主が棺桶を覗くとデビッドカッパーフィールドの姿はなかった。上だ、と誰かが叫んだ。天井にデビッドカッパーフィールドが張り付いていた。いつの間にかタキシード姿に着替えていたデビッドカッパーフィールドは壁に貼られたポスターからハンバーガーを取り出して食べながら去っていった。喪主が、この後隣の部屋にご移動いただいて、と言いはじめたので川の管理人は正気を取り戻し、食べ物を川に捨てるな、と喪主に訴えた。喪主はまあまあと川の管理人をなだめ、隣の部屋に連れていった。テーブルの上には重箱がいくつも並んでおり、箸やお茶なども準備され、食事のしつらえが整っていた。列席者のひとりが席につき重箱を開けると中にはピザ屋のチラシが一枚入っているだけであった。こんなところでまずい食事をするよりもピザを頼めという小粋なジョークであるととらえた列席者たちは笑いながら帰っていった。ひとりだけ席を立たない者がいた。松平さんだった。松平さんの目の前に置かれた重箱の中にはおにぎりが入っていた。それもいつも買うあのおにぎりやのおにぎりであった。松平さんは叫んだ。ブラボー!
 いい加減に出ていってもらえませんか、とお父さんは松平さんに言った。松平さんが私の家の庭にテントを張って住み着くようになってから数年が経過していた。いやです、と松平さんは妙にはっきり言った。そういいましてもね、とお父さんは言う。あなたはトイレに行きたいときにうちのチャイムを鳴らすじゃないですか、昼間でも夜中でも、そしてうちのトイレを使うじゃないですか、それってなんだか訳が分からないと思いませんか? どうしてうちのトイレをあなたのために開放しなくてはならないのですか? 松平さんはじっとお父さんの話を聞いている。お父さんはさらに続ける。あとね、ここは僕の家の庭なので、勝手に住み着かれちゃ困るんですよ、当たり前すぎることだけども。松平さんはうなずく。お客さんを勝手に呼んだりするのも困るんです、とお父さんは言う。猫や犬やよくわからない生き物やそういうものを家に招いては餌付けしているでしょう、そういうのもやめてほしいんですよ。松平さんは突然顔を上げて、いまお客さんって言いましたよね? わたしが連れてくる猫や犬やあれこれのことをお父さんはお客さんだと認識しているんですね? と言った。お父さんって呼ばないでください、とお父さんは変なところにこだわって嫌そうな顔をする。つまり猫や犬やあれこれをお客さん、人間のようなものと同じだと扱っていると、じゃあわたしだって猫や犬のようなものですよ、つまりはお客さんですよ、わんわん、にゃんにゃん、と松平さんは言った。話にならないと判断したお父さんは家の中に引き上げていった。松平さんは首を左右に曲げてぽきぽきと鳴らしてからテントに戻っていった。私は松平さんのテントの中を覗いた。松平さんのテントの中にはスーツが一着かけてあるだけだった。クリーニングに出したばかりのさっぱりしたスーツである。そのスーツといま着ているスーツと二着を着回して生活しているのだろう。松平さんはテントの中でごろりと横になっていた。私が中を覗いていることを気にする様子もなかった。猫がやってきた。猫は松平さんのテントに入り、しばらくすると出ていった。猫にはほかに行くところがあるのだ。たとえば体育館だ。猫は体育館に行った。体育館では部活動が行われているようだった。部活動のことをよく知らない猫はしばらく運動を眺めて、ああいまこの体育館で運動をしているのは陸上部だなと結論づけた。やけに短いズボンをはいてひたすらに走り込みをしていたからだった。陸上部のズボンはふとももがあらわになるくらいに短い。どうしてそんなに短いのかというと走るときに邪魔になるからだろう。私は猫を抱き上げてぽいっと路地へ放り出した。快晴だった。陸上部が体育館で活動をする理由はないように思われたが、体育館を使うローテーションというものが決まっているのだろう。体育館の床はきしんでいた。体育館の床下に住んでいる宮下さんは部活動の時間のたびにいらいらしていた。体育の時間には外に出かけているからいいが、部活動の時間には宮下さんは住みかに帰ってきているので、ぎしぎしいう音がうるさくてたまらないのだ。誰かに文句を言ってやりたいと思っていたが、宮下さんが体育館の床下に住み着いているのは違法なことであって、もしも床下に人が暮らしているということが発覚したら床下を追い出されることは間違いなかった。こちらの立場は弱いので、仲間を捜さなくてはならないと宮下さんは思った。宮下さんには仲間がいなかった。体育館の床下で暮らすことを決めたときに両親とは縁を切り、婚約していた女性と別れ、安定した仕事も辞めて自分を追い込んだのだ。安定した仕事というのは公認会計士のことだった。宮下公認会計士事務所の宮下として宮下さんは働いていた。宮下さんは所長の宮下さんとは全く血縁関係がなかった。たまたま宮下だっただけだった。所長の宮下さんはとても心が広く、なんでも許してくれる寛大な人だった。所長の宮下さんは昼ご飯はおにぎりにすると決めていた。昼時のおにぎりやさんはいつも行列ができているので、おにぎりやさんの開店と同時に事務の飯塚くんを使いに出すことにしていた。飯塚くんはおにぎりアレルギーを持っていた。お米は好きなのだが、それがぎゅっと握られたとたんに気分が悪くなってしまうのだ。しかし見る分には若干嫌な気持ちがする程度で済んでいたので、所長に頼まれればおにぎりを買いに行っていた。所長はかならずしゃけと梅、もうひとつは日替わりおにぎりにしてくれと言う。日替わりおにぎりというのは飯塚くんに言わせてみれば珍妙なものばかりだった。なまこ、もち、リップクリーム、ジーパンの切れ端、食べられるのかどうか怪しいものが入っていることも多々あった。所長はそれをうれしそうに食べるのでまあいいのだろうと飯塚くんは思った。飯塚くんは早めに事務所を出たので二番目に列に並ぶことになった。一番先頭には泥だらけのスーツを着た松平さんがいつも立っている。飯塚くんは松平さんのおにぎりの好みも熟知していた。松平さんはとにかく炊き込みご飯だ。炊き込んであればなんでもいいといっても過言ではない。その日店頭に並んでいる炊き込みご飯のおにぎりを六つ買う。朝、昼、晩の分なのだと松平さんが言っているのを飯塚くんは聞いたことがあった。二個ずつだろうか。一個三個二個だろうか。そんなことが妙に気になったのを飯塚くんは覚えている。実際は二個ずつであった。松平さんのテントには冷蔵設備がなかった。ときどきこっそり私の家の冷蔵庫を使っていることもあるようだったが、基本的には毎日おにぎりを買いに行き、その日のうちに消費することで暮らしていた。私は毎日庭に出て松平さんがおにぎりを食べているのを眺める。松平さんは特に嫌がることなくおにぎりを食べている。どうしておにぎりが好きなの、と私は松平さんに聞く。松平さんは首を横に振って答えない。つまらないので私は猫を振り回して遊ぶ。これは猫を虐待しているのではなく、女に振り回されたいタイプの猫というものがこの世にはいるのだ。男に振り回されたい猫もいるし、猫に振り回されたい猫もいる。男女の恋愛漫画を好むものもいればボーイズラブを好むものもいる。お母さんが喪服を着て家から出てくる。次いでお父さんが出てくる。二人とも神妙な顔つきである。どうしたの、と私はお母さんに聞く。お葬式? 誰か亡くなったの? 私の質問にお母さんはゆっくりとうなずいてから答える。そう、お葬式だよ、あなたのお葬式。
 私は死んでいないので、デビッドカッパーフィールドの葬式が執り行われることになった。デビッドカッパーフィールドはいいように使われていた。デビッドカッパーフィールドが消えたり出てきたりすることはもうみなの想定内であるから、デビッドカッパーフィールドはずいぶんやりにくそうだった。しかし葬式の花をハンバーガーに変えたり、お香典をハンバーガーに変えたりと大活躍してみせた。デビッドカッパーフィールドは日本人はハンバーガーを出せば驚くと思っているようだった。実際にみな驚いた。ハンバーガーは作りたてで、しかもマクドナルドのものでもモスバーガーのものでもなかったからだった。このあたりにはマクドナルドとモスバーガー以外のハンバーガーショップは存在しなかった。そのことに驚いているのだということも知らず、デビッドカッパーフィールドはハンバーガーを消したり出したりし続けた。ハンバーガーを消し出しする行為そのものがうけているのではなく、珍しいハンバーガーだからうけているのだということをデビッドカッパーフィールドは気がつかなかった。私は川にハンバーガーが流されるのを見ながら、ハンバーガーを出したり消したりするのはデビッドカッパーフィールドではなくセロではなかったかなと考えていた。集まった人々にとってそういうことはどうでもよいようだった。ただ珍しいハンバーガーが出てくるということがおもしろく、そしてハンバーガーの味があまりよくないということもみなにとってはおもしろいことであるらしかった。川にハンバーガーを流された川の管理人は激怒した。川にミミズを流すんじゃない! と川の管理人は叫んだ。川の管理人のハンバーガーに対する知識はあまりにも古かった。ハンバーガーやさんのパティにミミズの肉が使われているという噂が立ったのはもう忘れてしまったくらいに昔のことであった。そういうことを忘れずに覚えているというのはえらいと私は思った。川の管理人は川に流されたハンバーガーのひとつを掴み上げて空に向かって思い切り投げた。ハンバーガーは散歩をしていた西山さんの頭に当たった。西山さんは、いて、なんだこれ、と言って降ってきたものを確認しようとした。よく見る前に西山さんが連れていた犬がぺろりとたいらげてしまった。西山さんは犬をしかった。知らないものを食べるんじゃない。西山さんの犬は見つけたものをすぐ食べてしまうタイプの犬だった。西山さんが見ていないときにもかなりの落ちている食物を口にしていた。面白がって小学生が西山さんの犬にえさを与えていることを西山さんは知らなかった。えさやりをしている小学生のうちのひとり、みづきちゃんはクレヨンをたくさん持っていた。みづきちゃんのお父さんはイラストレーターで、クレヨンの長さにこだわりがあり、買ったばかりのクレヨンでないと絵が描けなかった。つまり、少し使っただけでクレヨンはごみになってしまうので、みづきちゃんは捨てられるクレヨンをもらってきては西山さんの犬に与えていた。みづきちゃんは二十一時に寝る習慣があった。はやく眠らないと背が伸びないからというのが理由であった。二十一時になるともう眠りなさいと言われて部屋に戻された。隣の家は二十一時を過ぎても騒がしかった。山村くんが毎日のように家に友達を呼んでゲームに興じているのだった。山村くんたちの行うゲームのルールは、ひとりを刑事、ひとりを殺人犯、ひとりを共犯者、と見立てて、毎晩ひとりずつが殺されていき、殺人犯が誰であるかを当てるというものだった。このゲームでは聞き込みの時間にだれがうそをついているかがポイントになってくる。共犯者だけはうそをつくことができるのだ。殺すとか殺されたとかを大きい声で話しているので時々は警察に通報されることもあった。山村くんがゲームをしているだけですと話すと警察は面倒くさそうな対応になって、気をつけてくださいね、と言って帰っていった。警察も来たしもう解散にしよう、と木戸くんが言った。ちょっとトイレ貸してくれるかと小川くんが言った。いいよと山村くんは返事をした。小川くんがトイレのドアを開けると中で人がおにぎりを持ったまま死んでいた。小川くんは叫んで、木戸くんや山村くんやその他みなを呼んだ。死体を見た山村くんは言った。これは殺人事件だ、犯人はこの中にいる。山村くんは再び居室にみなを集め、まず役割を決めよう、と言ってカードを配った。みなはカードを見た。どの人の手元にあるカードにも殺人犯と書かれたものはなかった。そのことに誰も気がつかないままゲームは進行していった。死体の持っているおにぎりは死体よりもはやく腐っていった。防腐剤などをいっさい使用しないことがおにぎりやさんの誇りだった。
 松平さんはいつからかテントに帰ってこなくなったので、私は松平さんの遺したテントの中でごろごろして過ごすことが多くなった。テントの中にはほとんどものがなかったので私は家からランタンや毛布や本を持ち込んでどんどん居心地をよくしていった。家にいるよりテントの中にいる時間の方が長くなった頃、家からのしのしと出てきたお母さんは私に、死んだんだから死んだものらしくしなさい、と言った。死んだ覚えはなかったし、死んだものらしい行動というのもよくわからなかったので、お母さんに聞いた。死んだものらしいことってなに? お母さんは少し悩んで、お墓に入るとか、と言った。じゃあここにいる、と私はテントを指さした。お母さんはなんとなく納得したようだった。私はどうして死んだもの扱いされなくてならないのだろうと思った。庭に猫が集まってきていた。猫を追いかけてゆうたくんが庭に入ってきた。ゆうたくんは保育園の帰りに母親が道ばたで世間話をしはじめたので退屈していたのだった。私はゆうたくんをテントに招き入れようとしたが、ゆうたくんは首を振ってテントには入ろうとしなかった。どうして入らないの、と聞くと、知らない死んでる人の家には行ってはいけないと言われているから、と答えた。ずいぶん行き届いた教育ですなと私は思った。私は自らの死について考えた。私には、自分がいつから死んでいるのか全くわからなかったし、いま自分が死んでいるのだという実感もなかった。あなたはいつもそういうところがある、とお母さんはつぶやいた。自分を後回しにするというか、優先しすぎるというか、とお母さんは付け足した。ものごとを俯瞰的に見過ぎる癖があるということは自覚していた。俯瞰的であって困ったことはなかった。こうして自分の死を認識できていないという意味では困っているのかもしれなかった。私はここにいるのになぜ死んだと言われなくてはならないのだろうか。ゆうたくんのお母さんが猫を撫でているゆうたくんをひったくるようにして庭から出ていった。ゆうたくんのお母さんは封筒にシールを貼る内職をしていた。今時どうしてそんな仕事を選ぶのかと聞かれることもあるが、シールを貼るだけでお金がもらえるのだからよい仕事だと思って、とゆうたくんのお母さんはそのたびに答えていた。封筒には工場の住所が印刷されていた。工場の住所の一部に訂正のシールを貼っていくというのがゆうたくんのお母さんがいま行っている内職であった。工場では事務作業を行うスペースが足りていなかったし、人員も不足していた。ほどほどに安い賃金で外部委託できるのならばそれが一番楽であったのだ。工場では靴下を作っていた。ただの靴下ではなく、机やいすに履かせる靴下であった。床に傷を付けないように、また、いすを引いたときに大きな音を立てないようにと配慮するためのグッズであった。売れ行きは悪くなかった。外国の工場で作ればもっと安く仕上がるであろうことは明確だったが、この工場にはひとり靴下作りの名人がいるのだった。名人が仕上げを行うと売れ行きが四割は上がると噂されていた。名人は自分のところに回ってきた靴下の糸の始末を整えたりちょっとした処理をしたりということを数秒で行った。デザインや仕様に大きな変更を加えているわけではないのだが、仕上げひとつで出来が全く違って見えるから不思議であった。私の家のいすも名人が仕上げをした靴下を履いていた。私は靴下というものがとても好きで、この靴下を買いに行ったときは、ホームセンターに並んだいくつものいす用靴下の中からずいぶん悩んだ上で名人のものを選び取ったのだが、お母さんはそういうことに興味がなかった。お母さんが興味があるのは名探偵コナンの新作映画だけだった。お母さんは怪盗キッドモデルのヒールが高い靴を持っていた。怪盗キッドモデルというのは怪盗キッドが履いていたものという意味ではなく、怪盗キッドという登場人物のイメージを意識して作られたものであるらしかった。お母さんは、真実はいつも一つ、という名探偵コナンの劇中に出てくるせりふを口癖としていたが、お母さん自身は真実を見抜くのが苦手で白黒はっきりつけられないタイプであった。たとえばおにぎりを作るときにはどの具を入れればいいか決めることができず、おかか梅しゃけ昆布ねぎみそ、家にある具らしいものを全部入れた全部おにぎりを作った。全部おにぎりはあまりに大きくて食べにくいので包丁で切り分けて、具を配分しなおして、おかかのおにぎりと梅のおにぎりとしゃけのおにぎりと昆布のおにぎりとねぎみそのおにぎりに直してから食べた。真実はいつも一つでその真実というのは、全部おにぎりはおにぎりに直されてから食べられているということだった。この街のおにぎりやさんには全部おにぎりというものは売られていなかった。おにぎりやさんが握っているのはおにぎりであって全部おにぎりではなかった。具は基本的には一種類で、澄んだ味だった。わかった、とお母さんは言った。犯人はこの中にいます。
 犯人はお母さんだった。お母さんは警察に連れて行かれて、カツ丼を食べた。はい、そうです。わたしが死体に全部おにぎりを持たせました。それがお母さんの自供のすべてだった。殺人を犯したのではないか? 死体を遺棄したのではないか? あらゆる質問にお母さんは、はい、そうです、わたしが死体に全部おにぎりを持たせました、と答えた。あまりにも全部おにぎりと繰り返すので、警察官たちはお母さんの判断能力の有無について話し合った。その結果、とりあえず不問としようということになった。お母さんは家に帰ってきてコナンの映画を見た。コナンの映画は摩天楼が時計仕掛けだったり何番目だかのターゲットだったりするらしいが私にはよくわからなかった。私はだんだん疲れてきていた。すべてを俯瞰している、すべてを知っているというのは大変なことであった。私には私の目しかないから、俯瞰していると言っても目が届かない領域が当然存在した。そういうことについても私は知っているようにふるまわなくてはならなかった。ふるまうとはどういうことだろうか。私がどうふるまっているかを監視している、俯瞰する私の上からさらに俯瞰して見ている誰かがいるような気がしてならなかった。それならばその人が描写すればよくて、私である必要はないだろう。
「だいじょうぶですよ」
「誰ですか」
 いきなり聞こえてきた声へと私はたずねてみたが、返事はなかった。そのかわりに、
「この接着剤を買えばすべてがよくなります」
 という声が聞こえてきた。
「いりません」私は言う。「接着剤はいりません」
「いまなら二本で同じ値段です」
「はあ」
「さらに、にわとりがついてきます」
「いりません」私が言う。「にわとりはうるさいのでいりません」
 接着剤の押し売りが帰っていくとずいぶん静かになった。私はテントの中で眠ることにした。蝉が鳴いていた。蝉はずいぶん前に絶滅させたはずだった。それなのに鳴いていた。私はもう一度蝉を絶滅させた。蝉はあっという間に絶滅した。
「接着剤を買ってください」
 ようやく眠った頃にまた接着剤の押し売りはやってきた。二本で一本分の値段であること、にわとりがついてくることを接着剤の押し売りはひたすらにアピールし続けた。
「接着剤をどうか、買ってください」
「うるさいです」
「買ってもらえませんか」
「黙ってもらえますか」
 私には、接着剤の押し売りがどうして直接話しかけてくることができるのかわからなかった。うるさくてたまらなかった。私はただ私のペースで進んでいるだけなのに、どうしてものを売りつけようとしてくるのだろうか。かかわろうとしてくるのだろうか。かかわらないでほしかった。かかわってほしいときには私から呼び出すから、勝手に寄ってこないでほしいと私は強く思った。
「お米から作った接着剤なので、自然にもやさしいですよ」
「やさしくなくていいです」
「お米はおいしいですよ」
「お米はおいしいです」
 私は同意した。
「ぜひ買ってください」
「あの」私は言う。「あなたはどうして話しかけてくるんですか」
「接着剤の良さを伝えたいので」
「ちがうな、そうじゃなくて、どうやって話しかけてきてるんですか」
「どうやって?」
「その、手段の話です」
「手段?」
「こうやって話してくれているのは」
 私は必死で言葉を探すがうまい言い回しが見つからない。あのーえっと、と私は言った。もしもし、と私は言う。あれ? もしもし、あのー、接着剤さん。だめだ、もう話せなくなってしまった。接着剤を買わなかったのがいけなかったのだろうか。だからといって接着剤は必要ないし、必要のないものを買うのはよいことではないと思う。お母さんはコナンの映画を見ている。デビッドカッパーフィールドは区民斎場でハンバーガーを出したり消したりしている。私が勘違いして覚えていたばっかりにハンバーガーを出したり消したりすることになってしまったデビッドカッパーフィールドは接着剤を買いに行った。いや、デビッドカッパーフィールドではなく、私が接着剤を買いにいくのだ。私は接着剤を買いに近所の文房具屋へ行った。いつの商品なのか、売り物なのかさえわからないワープロがディスプレイの中で色あせてしまっているような小さな文房具屋ではあるが取り揃えは確かであった。すいません、接着剤はありますか、と私は聞いた。ないよ。店主は言う。どういう接着剤でもいいんですけど、置いていませんか、と私はもう一度言う。ないよ、と店主は言う。というか接着剤ってなに? 店主は接着剤のことを知らなかった。いやいや、接着剤ですよ、ものとものとをくっつけるやつです、と私は言うが、知らないと店主は首を振る。私は店を出て大きなホームセンターへ行った。大きなホームセンターには何度か行ったことがあり、接着剤の売場も見当がついていたのでそこへ向かった。接着剤売場だと思っていたあたりには工具が並んでいるばかりだったので、私は店員に声をかけた。すいません、接着剤はありますか。接着剤ってなんですか? と店員は言った。どうしてみな接着剤のことを知らないなどとしらを切るのか私にはわからなかった。もしかすると本当に知らないのだろうか。もうすでに一般的に流通しているはずのものをみんなが一斉に知らなくなったということがありうるだろうか。ありえないと言い切れないのは私がすべてを観測していて、つまりすべては私の観測に頼りきりであるからだ。私の観測できなかったことはなかったことになる。もしかしたらひとつ県をまたいで向こうの市のホームセンターにはあるかもしれない。私はそれを観測することができなくはない。しかしなにもかもすべてを観測し記録することはおそらくできない。できないということにいま気づいてしまった。どんなに客観的に、俯瞰的に観測しても私は私というフィルターを通してしかものを見ていないからだ。どうにもならなくなってきたので私は家に帰った。玄関から家に入るとお母さんはコナンの映画を見ていた。コナンの映画のなにがおもしろいのか、とお母さんに聞くと、みんなコナンが新一であることを知らないようにふるまうからいいのだとお母さんは言った。コナンという登場人物が新一という登場人物と同じ人物であるということはシークレットとされているが、実際は自明であるようにお母さんには思えた。それなのにみな知らないという設定を貫き通すのだ。そこに美しさを感じるでしょ、とお母さんは言った。原作の漫画を読んだときに感じるよさとどう違うのかをもっと説明してほしいなと私は思ったが、いったん置いておいて、お母さん、接着剤ってある、と私は聞いた。あるよ、引き出しの中、とお母さんは答えた。私は引き出しを開けた。引き出しの中には接着剤が二本入っていた。どちらも接着剤の押し売りが売りつけようとしてきた接着剤とは違うもののようだった。他のはないの、と私は聞いた。ないよ、とお母さんはコナンの映画を見ながら言った。よく考えてみると接着剤の押し売りが売っていたのと同じ接着剤が手に入ったとして、接着剤の押し売りがまた話しかけてきてくれると決まっているわけではなかった。むしろ接着剤を手に入れれば、売り手として価値がなくなった分だけ私にアプローチをしてくる可能性が減るのかもしれなかった。私は接着剤の押し売りを自ら呼び出すことができなかった。接着剤の押し売りについてなにも知らないから書くこともできなかった。もっと正確に言えば知らなくても書けるのだが、あんな存在にいままで出会ったことはないので私は困惑していた。人と出会うというのはこういうことだったのだろうか。接着剤の押し売りは声だけでコミュニケーションをとろうとしてきたから、私の前に姿を表したわけではないのに、接着剤の押し売りをする姿がくっきりと目に浮かぶように感じられた。私は接着剤の押し売りと出会ってしまったのだ。
 犯行現場では捜査が続けられていた。ゲームに興じていた大学生の家のトイレが犯行現場であるかどうかも警察には断言できなかったが、そうであると仮定しなくては話が進まなかった。現場の警備に当たっている堀内巡査は家に帰りたいなあと思った。堀内巡査は二匹の犬を飼っていた。二匹の犬の名前はトムとジェリーといった。トムはボールを追いかけてあこち転がり回るのが好きだった。トムが好きに転がれるよう床にものを置かないようにつとめているので、堀内巡査の家はいつも片づいていた。ジェリーはおどおどした性格で、家に新しいものをなにか置くと怖がって近寄らなかった。堀内巡査ははやく家に帰って犬と遊びたかった。そのころ二匹は仰向けで床に倒れていた。ぴくりとも動く気配を見せなかった。二匹の犬はロボット犬だった。ふだんは自動で充電が行われるのだが、充電ステーションの汚れが気になった堀内巡査が昨夜拭き掃除を行ったあと、ステーションを元の位置に戻しておくのを忘れてしまったのだった。ロボット犬は死なないことが利点であると堀内巡査は考えていた。ロボット犬は仰向けのまま動かなかった。私は犯行現場に向かった。お母さんが犯行現場に行ったきり帰ってこないからだった。殺人事件があったと聞いたお母さんはすぐさま現場に飛んでいった。自分が推理をしようと思ったわけではない。推理をしている名探偵コナンに出会えるかもしれないと考えたからだった。自分が全部おにぎりの件で警察に事情聴取をされたということは全く頭から抜け落ちてしまっているようだったし、名探偵コナンが実在の人物ではないということも忘れてしまっているようだった。現場となったアパートの辺りには人だかりが出来ていた。野次馬ばかりだ、とお母さんは辟易した。もう帰ろうかなと思っていたお母さんは、人を押しのけてアパートへと近づいていく子どもの姿を見つけた。子どもは警察になにか話しかけているようだった。お母さんは急いで子どもに近づき話の内容を盗み聞きした。子どもはおにぎりやさんの息子であった。亡くなった人物が持っていたおにぎりというのが自分の店のおにぎりかどうかを確かめたいのだと子どもは言った。なんだ、名探偵ではないのか、とお母さんはがっかりした。亡くなった人物の持っていたおにぎりは全部おにぎりでおにぎりやさんのおにぎりではないということをお母さんは知っていたが、子どもにわざわざ教えなくともいいだろうと判断し、名探偵コナンを探した。名探偵コナンはいなかった。いる、と私が言えばいることになるのだろうけれど、私はいないと思うから、犯行現場に名探偵コナンはいなかった。デビッドカッパーフィールドは腐るほどいた。デビッドカッパーフィールドは世界を代表するプロマジシャン。とウィキペディアにあった。適当なことばかり書いてしまっていることが申し訳なくなってきた私はウィキペディアの情報を写し書きしたのだった。ウィキペディアはほんとうのことばかりを書いているとは限らないが、私の俯瞰した世界よりはいくぶんかまともであろう。しかし私は私の俯瞰した世界のウィキペディアを見ているから、こんな風にも書ける。デビッドカッパーフィールドは苔。ちょっと高く売れる苔。そんなことをしているうちにお母さんは家に帰っていった。私も家に帰ることにした。私が犯行現場にやってくる理由はなかったなあと思った。どこにいてもいいのだ。ここではないどこかにいてもいいはずなのに、私はここから抜け出せなかった。死ねば理から抜け出せるのかというとそうではないらしかった。おまえはもう死んでいるとお母さんに言われたけれど、私は自分が死んでいるという事実をなかったことにしてしまった。もう一回死んだことにしてもよいのだけれど、死んでいても死んでいなくてもどうせ同じであった。家に帰って庭のテントに入り休んでいると、お母さんがテントの入口から顔を覗かせた。どうしたの、と私が言うと、いい加減に出ていってくれとお母さんは言った。お母さんは涙をぽろぽろと流していた。いったいどうしたものかと思っているとお母さんは、おまえがいると現実がぐちゃぐちゃなんだ、と私に言った。私はあぐらをかいて両膝に手をやった。だから、死んだならちゃんと死んでいてほしい、とお母さんは言う。死んでないよと私は言い返す。死んでたとしても現実はぐちゃぐちゃなんだから、私のせいにしないでくれ、と私は言った。それはおまえが現実を知らないからだ、とお母さんは言う。おまえは現実を知らないからぐちゃぐちゃな現実を現実だと思いこんでいる。たしかに私は現実といえばこの現実しか知らなかった。私が生まれたときから現実はこんな風だったし私は現実を自由に操って著述することができたのだったと思う。私が生まれる前の現実ってどんな風だったの、と私は聞いてみる。私は大半の人がそうであるように自分が生まれたときのことを覚えていない。もちろん自分が生まれる前のことも覚えていなかった。それはとても平穏だった、とお母さんは言う。幸せで、安心できて、やわらかくて、落ち着いていた。なのにおまえが生まれてから、と言ってお母さんは鼻水をすすり上げた。だから私が生まれたことは関係ない、と言いかけて、たしかに私が生まれる前には世の中というのはどうなっていたのだろうと思った。私の生まれたときに世の中は存在しはじめたのだろうか? そうなってくるとお母さんの言っていることがおかしいということになる。お母さんは名探偵コナンの映画が好きすぎるし、ときどきおかしいが、うそをつく人間ではなかった。いやうそをつくかどうかは私が調整できることだった。私が調整できるという事実がそもそもおかしいので、私は死ななくてはならなかった。私が死んでも変わらない、と私は考えと裏腹なことを言った。というか、もし仮に私がいなくなったとしても誰かが俯瞰して書くでしょ、だからその誰かが変なやつだったら終わりだよ、と私は言った。書くってなに、とお母さんは言った。私は面倒になってお母さんをデビッドカッパーフィールドに消させた。世界を代表するプロマジシャンであるデビッドカッパーフィールドの手によってお母さんはハンバーガーになった。ハンバーガーを私はむしゃむしゃと食べた。ケチャップが多くてはみ出してきて手にまとわりついた。あっという間にお母さんはこの世からいなくなった。私は、ちょっと泣いた。
 お母さんは名探偵コナンの映画を見ている。私はお母さんが死んだことをなかったことにしたのだった。庭のテントは片づけたので、私は居間でお母さんがひたすら名探偵コナンの映画を見ているところを全部おにぎりをかじりながら眺めている。退屈で仕方がなかった。接着剤の押し売りはもうやってこなかった。やってこなかった、と書くことで私は接着剤の押し売りがやってこないことを正当化しようとしている。どうやっても接着剤の押し売りを来させることはできなかったし、接着剤の押し売りのように私に話しかけてくる人はいなかった。私は私の中でひとりしゃべりを続けているだけのようでときどき悲しくなった。しかし平和をお母さんが、あるいは私が求めているのだから仕方がなかった。平和を求めているのはきっと私だった。退屈で仕方がないのもまた私だった。どうして接着剤の押し売りは私のところにやってきたのだろうかと考えていた。接着剤の押し売りが私に話しかけてくれたのは接着剤の押し売りが私を自分に似ているものだと思ったからかもしれなかった。私は接着剤の押し売りに期待しすぎていた。もう一度どこかからやってきてなにかを劇的に改善してくれることを接着剤の押し売りに求めていた。しかし接着剤の押し売りは、よく考えてみれば接着剤の押し売りでしかないのだった。接着剤の押し売り以上の仕事をしてくれるかどうかはわからない。接着剤の押し売りというのは接着剤の押し売りの人生そのものではなくて単純にそういう仕事であった。接着剤の押し売りが接着剤を押し売りする以上のことをやってくれると考えていたらがっかりするだけだ。それに、接着剤の押し売りという仕事で接着剤の押し売りは私に話しかけてきたが、仕事でなければ話しかけてくれるという保証はない。じゃあプライベートで話しかけてきてくれるかというとそれはもっとわからない。仕事で客に話しかけるということをやっている人に、プライベートでまで私と話してくれと求めるのは間違っている。私の仕事観は意外ときちんとしていた。仕事以外の時間にまで労働を求めてはならない。関係のない人に労働を強いてはいけない。接着剤の押し売りは関係のない人なのだ。そんなことはないですよ、と接着剤の押し売りが言う。接着剤を買ってください、と接着剤の押し売りは私に迫ってくる。私はめんどくさくなって接着剤の押し売りを払いのける。接着剤の押し売りはしつこく私に迫ってくる。私は面倒になって接着剤の押し売りを庭に出した。ここに座っていなさいと言うと接着剤の押し売りはおとなしく座って猫に遊ばれていた。私がいま部屋の中から掃き出し窓に見ている接着剤の押し売りはもちろん私の会いたかった接着剤の押し売りではなかった。しかしまあ代わりとまではいかなくてもちょっと眺めている分には悪くなかった。そのうち接着剤の押し売りは庭にテントを建てて住みつくようになった。毎日おにぎりやさんでおにぎりを買って、むしゃむしゃ食べているようだった。好んで買ってくるのはシーチキンマヨネーズだった。シーチキンマヨネーズのおにぎりをおにぎりやさんの奥さんが握り始めたのは、シーチキンとなすの煮物を作っていたらシーチキンを取り寄せすぎてしまったのがきっかけだった。シーチキンとなすの煮物とはだし汁に醤油と砂糖を入れてシーチキンとなすを煮たもののことである。おにぎりやさんの奥さんはシーチキンとなすの煮物のレシピをインターネットで発見した。インターネットにはなんでもあった。しかし結局おにぎりやさんの奥さんが見るのは料理のレシピのサイトばかりであった。そうではないものも見たいと思っているのに、なにを調べていいのかがおにぎりやさんの奥さんにはわからないのであった。そのうちおにぎりやさんのパソコンはウイルスに感染した。おにぎりやさんの奥さんが見ていた料理のレシピのサイトのひとつに悪質なサイトがあったのだった。料理のレシピのサイトには悪質なものはないとおにぎりやさんの奥さんは思いこんでいた。料理はしあわせなものだからだ。料理が常にしあわせではないこともおにぎりやさんの奥さんは知っているはずだった。なぜならば早朝からおにぎりをにぎり、総菜の類を仕込んで、朝には朝ご飯、昼には昼ご飯、夜には夜ご飯、ときにはまかないをつくってみなに食べさせているからだった。いくら普段から行っていて慣れていることとはいえ、ときにはなにもかもつくるのが嫌になることがあった。じゃあ奥さんではない人が料理を作ればいいではないかと私は思ったのでそうする。ときどきは旦那さんや娘さんも朝ご飯や昼ご飯や晩ご飯をつくった。私はこういう風に改変に改変を重ねていったらそれこそめちゃくちゃになってしまうと思った。それはよくないので接着剤の押し売りには出ていってもらうことにしようと思った。どうして接着剤の押し売りが出ていけばなんとかなるのかはよく私の中でも筋が通っていなかったが、とにかく私は接着剤の押し売りの住むテントをのぞき込もうとした。接着剤の押し売りは接着剤でテントの入口をかたく貼りつけていたため中を伺い知ることはできなかった。テントの中からは嬌声が聞こえてくる。接着剤の押し売りは中で性的な行為を行っていた。やってくれたな! と私は思ったが、性的な行為をひとりで行っているのならいいという結論を出した。ふう。危なくアダルトな要素を出されてしまうところだった。性行為はアウトだけれど、ひとりで行っているということに変更しておけばぎりぎりセーフであろう。なにがセーフなのだろうか? 私は誰に見られるためにこれを書いているのだろうか? そもそも書いているかどうかもわからなかった。私はただ思考しているだけだった。けれど確かに書いているという感覚があった。助けてほしかった。接着剤の押し売りは自慰行為をやめなかった。私は接着剤の自慰行為を止めることができるはずだったが止めなかった。もうめんどうだ、と何度も思った。何度思ってもなにも変わらなかった。意識的にどんどん改変を加えるようになった分余計だめであるとも言えなくはなかった。体育館では部活動が行われていた。すぐに私がああいま行われているのはテニスなのだなと思ったのはテニス部と書いてある応援旗があったからだった。ああいま行われているのはテニスなのだなと思った自分はなんなのだろうと私は思った。私はそこで行われていることがテニス部の部活動であるということを知っている。なぜなら私はそれを俯瞰しているし記述しているからだ。記述、記述しているというのは誰のためだろうか。テニス部はスマッシュの練習を行っていた。ぱこんとぬけのいい音が体育館に響きわたる。テニス部にはテニスコートがあるというのになぜ体育館で練習を行っているかというとそういう順番だからだろう。順番なのだなあと私は納得した。お母さんは名探偵コナンの映画を見るのをやめて家事をはじめた。
 私は改行をした。

ものを書くために使います。がんばって書くためにからあげを食べたりするのにも使うかもしれません。