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宮沢賢治『やまなし』を読む(2)
これは次の記事の続きです。
■全体のテーマ
さて、最初から最後まで、あれこれ考えながら精読してきた。最後に全体を見渡して、この童話が何を表現しているのかを簡単にまとめてみる。
5月――生は弱肉強食の世界であるが、かばの花のような美しいものもある。
12月――生は競争原理の世界であるが、互いに分け合って生きること(平等)も可能である。
作品全体――世界が生と死、明と暗の二面性を持っていること。
まあ、だいたいこんなところか。
ところで、新たな疑問が生まれてきた。題の「やまなし」だ。なぜ「水の中」とか、「カニの生活」とかのように、「五月」と「十二月」の両方をカバーするものではなく、後半にだけ出てくる「やまなし」を題にしているのか。
後半の、カニの家族が自然の恵みであるやまなしを分け合って食べるというありかたが、菜食主義者である賢治の理想の世界だからだろうか。とりあえず、そんな答えを出しておく。
■保留してきた問い
なんとかテーマに行き着いたので、今度はこれまで保留してきた問いについて、いろいろ調べてみる。
◆宮沢賢治は酒に肯定的?
賢治の別の童話『雪渡り』の幻灯会では、最初に「お酒を飲むべからず」という文字が映され、酒に酔った人間の失敗が教訓として示される。賢治は酒に否定的なのか。
賢治自身は盛岡高農時代などには飲酒していたという証言があるが、一方羅須地人協会時代には禁酒を説いていたことが証言や書簡から明らかになっている。
賢治作品における酒のイメージは必ずしも悪いだけのものとは言い切れない。
◆クラムボンについての諸説
クラムボンについては、僕は上述のように捉えたが、他の人たちはどんなふうに理解しているのか。古いものから順に見ていこう。
▲「暗く消えていきそうな仏さま」「目も眩むような仏さま」
ボンは梵で仏さまのこと。クラムは「暗い」「眩む」。
すごい解釈! しかし、支持する人はいなかったようだ。
▲正体不明のままでよい
何物かのセンサクは無用・無益・有害である。
これは一つの有力な理解だ。今でもそう考える人は多そうだ。詩人の谷川雁もそう考えている。
ハサミを持った昆虫だのミズスマシだのといった安易な「あてもの」が横行したりするが、もしクラムボンが水棲昆虫の類なら、魚のエサになるおそれがあり、クラムボンのほのかな聖性は失われ、空間はどたばた劇の舞台となってしまう。
谷川は、クラムボンを魚のエサとは考えていない。クラムボンに「ほのかな聖性」を見ている。プランクトンを魚がエサとして食べ、その魚をカワセミが食べるというような「食物連鎖」や「弱肉強食」ととらえるのは、まるで理科の教科書の説明のようで、詩的雰囲気が失われると考えているようだ。そして、次のように述べる。
こどもたちに、クラムボンは何だと思うかと質問すると、その答えは――泡、影、日光、水の流れ、魚、いのち、春の精、雪のかたまり、谷川を司る神、森羅万象、小さないのちの総体などとふくれあがり、とどまるところを知らない。まさにそれこそが作者のねらいではなかったか。
これは幼いカニの脳にきざした観念の初期形だから、きちんと読み解けるものであってはならない。言わばカニ語であって、しかも二匹の兄弟だけが了解するカニ語である。
何かわからなくてもよいとしている。魚のエサではないというところ、「カニ語」というところには、僕も同感。
▲小さな生き物
アメンボ、プランクトン、あるいは小さな川エビ、カニ(crab)からの造語。
これがもっとも有力なとらえ方だろうか。
『国語教材研究大辞典』(1992)も「魚の餌になる小さな動物(……)であろう」としている。ただ、自由に想像させてよく、特定する必要はない。」とも述べている。
近年も、山口憲明(2013)と白石範孝(2016)は、魚によって食べられるものであり、どのような生き物かを特定する必要はない、としている。
『宮沢賢治大事典』(2007)も、さまざまな説を列挙しているが、真っ先に挙げているのは、「水ぐも(あめんぼ)、プランクトンからの連想、小さな川エビ」だ。(あめんぼって「水ぐも」とも呼ばれるんだ!)
『定本 宮沢賢治語彙辞典』(2013)も、「意味不明の語」で、「生物か自然現象かも定かではない」としつつも、crabのもじり、アメンボ、プランクトンを第一に紹介している。
▲あわ
『定本 宮沢賢治語彙辞典』(2013)が、説明の最後で、「泡の様子や、水面の反射光等の擬態語とも考えられる」としている。
花田俊典(2001)は、「あわ」説に傾く。
わたし個人は、この「あわ」(「十二月」のあわ)は、さきの「五月」にいう「クラムボン」のことだろうと想像しているのだが(――「五月」の時点では「子供」たちはまだ「あわ」という語彙を所有していなかったのだろう、そのかわりに語り手が「そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗いあわが流れていきます。」、「つぶつぶあわが流れていきます。」、「続けて五、六つぶあわをはきました」とくり返し語っているし、また「天井の方を見てい」る情景設定もここと一致している)……
▲光
『宮沢賢治大事典』(2007)は、「光線の変幻・光線の屈折によるもの」という見方も挙げている。
『定本 宮沢賢治語彙辞典』(2013)も、「水面の反射光などの擬態語とも考えられる」と述べている。
▲その他
『宮沢賢治大事典』(2007)には、母親とするもの、英語のcramboという韻を合わせる掛け合いの遊びから来ているとするもの、crabからの連想語、あるいはcrab-bombから来ているという、すごい発想のものも出ている。
『定本 宮沢賢治語彙辞典』(2013)には、crampon(クランポン)という氷屋などが氷塊をつかむはさみであるとか、あるいは氷上を歩く鉄のかんじきであるとか、ガラス器具を挿んでスタンドに固定するクランプという金具であるとか、当時の楽器の輸入先であるビュッフェ-クランポン社(Buffet-Carmpon)であるとか、cramp(クランプ、けいれん)やclump(クランプ、木立、かたまり)やエスペラント語の「クランボ」(キャベツの一種)に由来するとか、それこそありとあらゆる説がある。
なんとか見つけてやるぞ、という研究者たちの執念が感じられる。
▲学習指導書2015
では、教師用学習指導書ではどうなっているだろうか。
「実際に児童に想像させると、『クラムボン』は、『泡、波の動き、光、アメンボ、プランクトン、カニの幼生』などがでてくる」とした上で、『新宮沢賢治語彙辞典』(『定本 宮沢賢治語彙辞典』とほぼ同じ)のさまざまな解釈を紹介している。
その上で、「しかし、分からないからおもしろい。分からないから自由に想像して自分流に楽しみたい作品……。」と書いている。
でも、「……」はどういう意味なのか。執筆者も、断定していいものか、ちょっとためらっているのだろう。
指導書に書かれた子供たちの想像では、「泡」が真っ先に来ている。これは僕の説への強力なサポートだ。
いろいろな説を見てきたが、僕としては光に照らされた泡という理解のままでいいと思える。
◆なぜ「青い」幻灯なのか
『やまなし』は、語り手の「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻灯です。」という文から始まっていた。なぜ、「青い」幻灯なのか。
▲幻灯は世界の比喩
『やまなし』は枠物語になっている。「わたくし」が「青い」幻灯を見せる。そしてそこに写されたきらびやかな世界がカニたちの世界だ。幻灯はもともとは青一色なのに、さまざまな色を映し出す。いろんな色がきらきらと明滅をくり返している。
西郷竹彦は次のように述べている。
やまなし」の世界は、カラフルな「多色」でありながら、実は青「一色」(空)の世界であるということなのだ。
賢治においてこの世の森羅万象は、〈夢〉であり、〈蜃気楼〉であり、〈幻燈〉の映し出す映像であり、つまりは〈色即是空〉の世界である。
なるほど、と共感。つまり、宮沢賢治は世界の構造を幻灯の形で理解しているのだ。存在するのは幻灯による青い色のみ。それが本体だ。しかし、現象としては、つまり、私たちの目に映るものとしては、彩り豊かなこの世界になっている。
<色即是空>というのは般若心経にある言葉だ。色は現象の世界、それがすなわち「空」、つまり、この世のすべては「空」だということだ。この「空」を青にすれば宮沢賢治の世界観となる。
枠物語の形式はこのような賢治の世界観を反映しているのだろう。
▲童話における青
宮沢賢治の他の童話でも、しばしば青が出てくる。
たとえば、「なめとこ山の熊」。これは、熊を殺して生活している猟師、小十郎の話だ。小十郎は申し訳ないと思いながらも、生活のために熊を殺さざるをえない。最後に小十郎が熊に殺されて死ぬ場面は次のようになっている。
と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。/「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」/もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。/「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。
このように、青は宮沢賢治においては、死と関連している。青は死の世界の色だ。
もう一つ、「よだかの星」という童話を見てみよう。
よだかは鷹にいじめられる。鷹から、<おまえは、鷹でもないのに、俺と同じ名前を持っている、名前を変えろ>と言われる。そして<「市蔵」にしろ>と言われる。(すごい名前!)そして、<首に市蔵と書いた札をぶらさげて、みんなを尋ねて「私は市蔵と申しますと言って回れ>と言われる。<そうしないと殺すぞ>と。(すごいいじめ!)絶望したよだかは、空高く昇っていき、ついには寒さで死んでしまう。よだかの最後は次のように描かれる。
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。/すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。/そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。/今でもまだ燃えています。
「燐の火のような青い美しい光」が出てくる。よだかの体が青い光になる。やはり青は死に関係している。
▲『やまなし』に戻って
そういえば、「五月」に出てくる、魚に死をもたらすカワセミのくちばしも「青光りのするまるでぎらぎらする鉄砲玉のようなもの」とか、「青いもの」とか呼ばれていた。
『やまなし』の谷川はきらびやかな現象の世界だ。しかし、そこにも突然、「青い」死の世界が侵入してくる。それがカワセミのくちばしだ。
宮沢賢治は、生の先に死があるのではなく、生と死は貼り合わせた一枚の紙のようになっていると考えているようだ。
宮沢賢治の「青」については、もっとしっかりと考える必要があるが、ひとまず、こんなふうに考えておいていいのではないかと思う。
▲青は水の色?
と、こんなふうにあれこれ考えてきたが、甲斐睦朗(1976-9)は、「青い幻灯」の「青い」についてあっさりと、「水の色」(「上」159頁)であると書いている。
ちょっとがっくりくるが、そんなふうに単純にとらえておくのもありか、と思い直す。小学生にはこのような説明の方がいいかもしれない。西郷竹彦も、「教材というものは、子どもの発達段階に即して、わかるところまでわからせればいいのです。」(284頁)と言っている。至言だ。
◆なぜ母親がいないのか?
『やまなし』は最後、幸せそうな家族の姿で終わる。ちょっと気になるのが、どうしてこのカニの家族には母親がいないのだろう、という点だ。
父ガニは、子供を正しく導く理想的な父親像となっている。多くの経験を積んでおり、「かわせみ」のことも、やまなしが「おいしいお酒」に変わることも知っている。
何かが魚を突き刺したのを見て怖がっている子供たちに、落ち着いて見たものがどのようなものだったかをかをしっかり言わせ、それからそれが何だったかを推測し、「だいじょうぶだ」と安心させている。また、美しい花の方に子供たちの気をそらせている。
やまなしが飛び込んできたときも、「両方の目をあらんかぎりのばして、よくよく見てから」、つまり、しっかり観察した上で、それが何であるかを適切に判断している。科学的な態度を取っている。
このように、父ガニは子供たちの範となるような存在となっている。ところが、母親は影も形もない。
母ガニは、ほかの生き物に食べられたとか、事故に遭ったり、病気で死んだりしたとも考えられる。クラムボンは死んだよ、殺されたよとドキッとすることを言っているのは、子ガニたちが最近、母の死を体験したからかもしれない。しかし、これはあくまで想像にすぎない。作品から根拠を見つけ出すことはできない。
はっきりと確認したわけではないが、宮沢賢治の童話全般において、母親が不在だったり、いてもその存在感が希薄だったりしているようだ。母親に比べて父親の比重が大きいようなのだ。
これには、宮沢賢治にとっての父親の重みが反映しているのだろうか。
母親の不在については、家族には必ず父親と母親がいなくてはならないというわけでもないので、これ以上追求しないでおこう。
■参考資料から新たに気づいた点
さて、参考文献をいろいろ読んでいくと、わかったこともある。
◆12月?
一つは、「十二月」は本来「十一月」なのではないか、という点だ。『やまなし』の初期形は、「十一月」だった。ところが、新聞掲載時には「十二月」となっている。
11月から12月になった理由について、甲斐睦朗(1976-9)は、「五月」と「十二月」の二つの話は対立関係にある、5月と11月より、5月と12月のほうが対立的である、としている。12月は「一年間の最後の月」「永遠の休息・平穏をもたらすべき終焉の月」(「中」197頁)だと言う。
また、栗原敦(1982)は、12月は「初冬」で、<蟹以外に動く生き物の影はない、円石、水晶、金雲母と「鉱物質のもの」だけであり、「多くの生命が眠りにつく季節」である、このことを明確化するために12月にしたのではないか>と推測している。
一方、谷川雁(1985)は、新聞社の活字工が間違って活字を組んでしまった、その誤りがそのまま印刷された結果ではないか、と考えている。理由は、<岩手山地の12月に「やまなし」の実が樹に残っていることは常識としてありえない>からだ。<11月上旬がやまなしの実が落ちずに残っているぎりぎりの時期だ>としている。さらに、<川底の光の網は、春には日光によって、秋は月光によって作られるのであって、初冬ではない>と主張している。
谷川雁の説は、西郷竹彦も支持している。僕もどちらかと言えば、11月ではないかと思う。ただ、これはどちらとも決着がついていない。
◆兄弟のセリフについて
これについてはすでに述べた。しかし、調べてみるといろいろな説がある。僕のとらえ方とは逆だとする研究者もいる。
▲最初のセリフは弟のもの
甲斐睦朗(1976-79)は、「それなら、なぜクラムボンは 笑ったの。」と質問しているのが弟であると考え(兄の方がよく知っているはずだからだ)、そこから逆算して、最初の「クラムボンは 笑ったよ。」を弟のセリフ、「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」を兄のセリフとしている 。(「上」156頁)
▲最初のセリフは兄のもの
岩沢文雄(1978)は、僕と同じとらえ方だ。「なぜ笑った」「なぜ殺された」という重い問いを発しているのが兄と考え、甲斐とは逆に、「クラムボンは 笑ったよ。」が兄のセリフで、「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」を弟のものとしている。
花田俊典(2001)も同じだ。
この兄弟のかにの一方はただ、「かぷかぷ笑ったよ。」としかくり返していないのに対して、もう一人のかには、「笑ったよ。」「はねて笑ったよ。」「笑っていたよ。」と表現を変えていく。「かぷかぷ笑ったよ。」という表現がどうやら気にいっているらしく、これをくり返して飽かないのは、より幼い弟のほうだろう。(……)弟はこのあと、「殺されたよ。」という言い方を思いついて口にしたりもするのだが、ここでも彼はただ「殺されたよ。」とくり返すばかりで、一方の兄のほうは「死んだよ。」「死んでしまったよ……。」といったぐあいに言いかえるのであり(……)
兄弟のセリフのどれが兄のもので、どれが弟のものかについて論争するのは、「不毛の議論」とする人もいる。西郷竹彦(1994)だ。
これらのせりふのいずれが兄か弟かは不明であるだけでなく、そのような区別を求めることは不毛の論議でしかない。
「五月」においても「十二月」においても〈蟹の子供ら〉とあるので、「〈子供ら〉としてとらえるべき」だという。
これについても、なるほど議論は分かれているのだなと確認しておくにとどめる。
次の記事に続きます。
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