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宮沢賢治『やまなし』を読む(1)

宮沢賢治の童話『やまなし』は多くの人が小学校の国語教科書で読んでいると思う。「やまなし」という題は覚えていなくても、「クラムボン」が出てくるやつ、と言えば、「ああ、あれか」と思い出すはずだ。

『やまなし』は最初、「岩手毎日新聞」に発表された。1923年(大正12年)のことだ。100年近く前だ。

小学校の国語教科書として高いシェアを誇る光村図書の国語教科書には、1971年から採用され続けている。もう50年になる。

ほとんど国民教材と言ってもいいくらいの定番教材だ。もう永遠に教科書から消えることはないのではないかと思うくらいだ。

この教材は、昔から、「わかりにくい作品」「指導しにくい教材」(須貝千里) 「超一流の難教材」(『国語教材研究大事典』) とされてきた。かつて国語教育の専門雑誌で、「『やまなし』で教師の力量が問われる」という特集が組まれたこともある。(『現代教育科学』)

一方で、他の教材よりも子供を強く惹きつけた、という報告もある。

作者独自の表現に着目し、想像して読むことの楽しさを知った。かわいいカニの兄弟、おもしろい造語、想像力を掻き立てる比喩表現が子どもの心を捉えたのである。 

(五十井美智子「子どもの認識と表現」、『文学教育実践史事典 第2集』)

僕も久しぶりに読んでみた。読んでみて、いろいろ疑問に思うことも多かった。わからないところをあれこれ考え、またいろいろ調べてもみた。ここでは、その読解の過程を報告する。

読んだのは、光村図書の令和2(2020)年発行の教科書『小学校国語6創造 下』に掲載されているものだ。教科書版の『やまなし』は、新聞に発表されたものや宮沢賢治全集のものとは、漢字の表記などに若干の違いがある。子供用に現代仮名遣いになっていたり、漢字がやさしくなっていたりする。

■三読法

「国語」での文学授業のやりかたに、「三読法」というものがある。石山脩平しゅうへいという人が1935年に提唱したものだ。次のような順に文学作品に対するべきだという。

(1)通読(読む、難解な語句の検討、主題を想定)
(2)精読(細部の吟味によって主題を探求し、決定)
(3)味読(鑑賞、朗読、暗唱、感想文)

古い! 何と第2次大戦前に提唱されたものだ。でも、これって読解の基本だ。まず、ざっと読む、次に細かいところを考える。そして最後にもう一度全体を見渡す、だ。

大まかにこれに沿って『やまなし』を読んでいこう。

■通読

◆最初の感想

まずは通読して、思ったことを書き出してみる。

・水の中の情景が美しい。(感想)
・クラムボンについてのやりとりがおもしろい。(感想)
・でも、クラムボンって何?(疑問)
・オノマトペ(擬声語=擬音語、擬態語)がユニーク。(感想)
・生と死についての物語?(主題の想定)
・なぜお父さんと二人の息子? お母さんはどうしていない?(疑問)

こんなところか。

◆わかりにくい言葉

続いて、わかりにくい言葉を調べてみる。

▲幻灯
スライドのこと。映画以前、特に明治時代に流行。当時から視覚教材として学校でも盛んに活用された。童話『雪渡り』では、狐小学校の先生が生徒に幻灯を見せている。(『定本 宮沢賢治語彙辞典』)

▲カニ
サワガニ。純淡水種はサワガニだけ。(『定本 宮沢賢治語彙辞典』)

▲クラムボン
教科書の注には、「作者が作った言葉。意味はよくわからない。」とある。これについては後述。

▲かばの花
岩手県稗貫ひえぬき郡では山桜を指す。(小学館『日本国語大辞典』)
栗原敦も、「賢治の作品で単に「樺」とだけある場合、「白樺」ではなく、特に花を取り上げるときは山桜、樺桜を指すとみてだいたい間違いない」としている。(『定本 宮沢賢治語彙辞典』)

▲イサド
教科書の注には、「作者が想像して作った町の名前」とある。他にも、「行楽地」のような場所とか、「遊園地」のような施設だと言う人もいる。学習指導書は、「子供たちの行きたい楽しみのある場所」としている。

▲やまなし
栽培梨とは異なり、野生種、イワテヤマナシ。直径2~5センチ。甘い香りが特徴。酸味が強い。(『宮沢賢治事典』『定本 宮沢賢治語彙辞典』)

■精読(1)枠の部分(最初と最後)

続いて、作品を細かく見ていく。

物語は、最初に「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻灯です」という一文があって、それから「一 五月」「二 十二月」ときて、最後は「わたくしの幻灯は、これでおしまいであります」という一文で終わる。最初の一文と最後の一文が全体を区切っており、いわゆる「枠物語」になっている。

枠物語は、物語の中で別の物語が語られる物語のことだ。外側の物語が「枠」で、内側の物語が「枠内物語」だ。

『やまなし』では枠の部分はそれぞれ一文ずつしかない。枠の部分を見ると、「わたくし」が幻灯を映していることがわかる。

「わたくし」という語り手は、大人か子供か。「わたくし」と、ものものしい言い方をしているので、大人だろう。

幻灯はどこで上映されているのか。これは書かれていないからわからない。でも、おそらく小学校とか、公民館のようなところだと思う。昔はそういったところに村人が集まって、珍しいものを見たりしたからだ。宮沢賢治の他の童話『雪渡り』でも、小学校で幻灯会が催されている。

最初の枠となる文は、「小さな谷川の底を写した二枚の青いげん灯です」となっている。「二枚の幻灯です」でもよさそうなのに、なぜ「青い幻灯」なのか。よくわからないので、これは保留にしておこう。

もう一つ、なぜ『やまなし』は枠物語の形式になっているのか。これも保留だ。

■精読(2)5月

◆どのセリフが兄のもので、どれが弟のものか

続いて、「五月」の部分を見ていく。

「クラムボンは 笑ったよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」

この会話がなんと言えず、かわいい。クラムボンという音もいい。クラムボンが何なのかはひとまず脇において、まず、どれが兄の言葉で、どれが弟のものかを検討してみよう。

テキストをじっと見ていくと、発言を表すカギカッコの後に地の文が続く場合、1字下げられているところと下げられていないところがあることに気づく。

カギカッコの後は、普通はこうなっている。

「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
 上の方や横の方は、青く暗くはがねのように見えます。(……)

ちょっとわかりにくいが、「上の方」の左には1文字分の空白がある。でも、でもそうなっていないところもある。

①「五月」

「それなら、なぜ殺された。」
兄さんのかには、その右側の四本の足の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら言いました。

ここでは「兄さんの」の左に1文字分の空白が入っていない。

字下げされていないところは、『やまなし』全体で5カ所ある。①以外には、

②「五月」

「お魚は、なぜああ行ったり来たりするの。」
弟のかにが、まぶしそうに目を動かしながらたずねました。

③「五月」

「こわいよ、お父さん。」
弟のかにも言いました。

④「十二月」

「そうじゃないよ、ぼくのほう、大きいんだよ。」
弟のかには泣きそうになりました。

⑤「十二月」

「かわせみだ。」
子どもらのかには、首をすくめて言いました。

なぜこの5個所だけ字下げされていないのか?

宮沢賢治全集で確認してみると、たとえば①は、次のようになっている。

『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本のあしの中の二本を、弟の平べったい頭にのせながらいました。

セリフの後に、「兄さんの蟹は(……)いました」と地の文が続いている。これは小説などの約束事で、こう書くと直前のカギカッコのセリフが兄のものであることを示すことになる。

これで事情がはっきりした。教科書に掲載するに当たって、小学生用に漢字などの表記をやさしくしただけでなく、

「それなら、なぜ殺された。」
兄さんのかには、その右側の四本の足の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら言いました。

と2行に分けることで、読みやすくしたのだ。しかし、そのためにかえって、どれが兄のセリフでどれが弟のものなのかがわからなくなってしまっている。これは、作品理解を妨げる大きな問題だと思う。(★注)

「それなら、なぜ殺された。」が兄のセリフなら、次の「分からない。」は弟のセリフになる。また、「それなら、なぜ殺された。」の前の「殺されたよ。」が弟の発言であることがわかる。

発話が兄のものか弟のものかを区別する、もう一つ重要な指標がある。それは言語能力の違いだ。最初の部分を見てみよう。

「クラムボンは 笑ったよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
「クラムボンは はねて笑ったよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」

一方が、「かぷかぷ笑ったよ」と単純に繰り返しているのに対して、他方は、「笑ったよ」「はねて笑ったよ」と表現に変化をもたせている(花田俊典参照) 。こちらの方が兄だろう。

二つ目の会話を見てみよう。

「クラムボンは 笑っていたよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
「それなら、なぜクラムボンは 笑ったの。」
「知らない。」

「かぷかぷ笑ったよ」と相変わらず同じことを言っている方が弟だろう。同じことを繰り返す弟に対して兄は、「それなら、なぜクラムボンは 笑ったの。」と、「なぜ」という高度な問いを出して、弟をやりこめている。

三つ目の会話も同じようなパターンになっている。兄が「クラムボンは 死んだよ。」「クラムボンは 死んでしまったよ………。」と少し言い方を変えているのに対して、弟は「殺されたよ」と同じ言葉を繰り返し(花田俊典参照)、兄から「なぜ殺された」と「なぜ」で尋ねられている。

兄弟の注目が魚に移ったときに、弟が「お魚は、なぜああ行ったり来たりするの。」と、「なぜ」で尋ねているのは、兄の「なぜ」という問いをさっそく自分のものにして使っているのだろう。

こんなふうに、どちらが兄のセリフでどちらが弟のセリフかはわかるようになっている。他の部分がどうなっているのかは略す。

◆クラムボンとは何か?

次に、クラムボンについて考えてみよう。教科書の注には、「意味はよくわからない」と書いてある。本当にそうだろうか。

僕は、クラムボンは水の泡かカニの泡のことだと思う。

カニは英語でcrabだ。ポケモンにも、クラブというのがいた。ボンはシャボンのボンではないだろうか。シャボンはポルトガル語で石鹸のことだ。sabãoとつづり、サボーンと発音する。crab+bonと考えて、発音してみると、クラッボンとなり、クラムボンに近い。クラムボンの方が、クラッボンより発音しやすいし、かわいらしい音になる。

「死んだ」とか「殺された」というのは物騒だが、単に魚が頭上に来たために光が遮られ、泡が見えなくなったことを言っているのだと思う。カニにとっては魚は巨体――谷川雁は魚はイワナのことだと言っている――だ。それがカニの上に来ることで、暗くなって水面の泡が見えなくなり光が届かなくなる。そのことを子ガニたちは、「死んだ」「殺された」と表現しているのだ。

死の意味を理解できない子供が、ままごと遊びなどで、人形をあっさり死なせたりして遊ぶのと同じようなものだ。横たわっている人形について大人が、「この人は寝てるの?」などと聞いたりすると、あっさり「死んでるの」という言葉が返ってきて、ドキッとすることがある。死の意味がわからない子供には、「死んでいる」も「寝ている」と同じ程度の重さでしかない。

魚がまた「下の方へ」行ってしまうと、クラムボンが笑い出す。後述のように、クラムボンを小さな生き物だとする説が多いが、それでは再び笑うことの説明がつかない。

「笑った」や「かぷかぷ笑った」というのは、泡同士がかたまり合って動いているようすを表しているだろう。「かぷかぷ」を逆にすると「ぷかぷか」だ。「泡がぷかぷか浮んでいる」というのは普通の表現だ。「かぷかぷ」と、普通のオノマトペをひっくり返しておもしろい詩的表現にしている。「はねて笑った」は、水に押された泡が他の泡にぶつかってはねることだろう。

クラムボンという言葉を使うのは、子ガニだけだ。語り手は使わない。クラムボンというのはつまり、まだ十分に言葉を知らない子供が使う幼児語だ。犬のことを「ワンワン」と呼ぶようなもので、「あわ」というかわりに「クラムボン」と言っている。

では,大人である語り手は何と言っているのか。最初の兄弟の会話の後、「そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗いあわが流れています。」と語っているし、また、1ページの真ん中あたりでも、「つぶつぶあわが流れていきます。かにの子どもらも、ぽつぽつぽつと、続けて、五、六つぶあわをはきました。」と言っている。つまり、一般的な言葉である「あわ」を使って、状況を客観的に説明している。

「十二月」も、あわについての兄弟の対話で始まっている。兄が、「やっぱり、ぼくのあわは大きいね。」と言っている。ここでは、カニの子供たちはもう大きくなっているので、クラムボンという幼児語は使わず、ちゃんと「あわ」と言っているのだ。

「五月」と「十二月」は対照的に構成されている。それゆえ、「五月」の初めにあるのも泡についての対話の可能性が強いだろう。

さて、クラムボンをめぐる対話をまとめてみよう。これは、生と死の意味がわかっていない幼い兄弟の無邪気な会話だ。無邪気ではあるが、「死んだ」「殺された」と物騒な言葉を使っているので、それが童話全体のテーマに関係していそうだと推測できる。

◆魚は何をしている?

魚は上の方で行ったり来たりしている。兄は「何か悪いこと」をしている、「取っている」と言っている。つまり、エサを取っている、食べているのだ。兄はそのことをだいたいわかっているが、弟はまだわかっていない。

なお、魚がクラムボンを食べていると考える根拠はない。

◆魚がカワセミに食べられる

魚が何かを食べ、その魚が鳥に食べられる。弱肉強食の世界だ。魚が行った「こわい所」とはもちろん、死の世界だ。

◆白い「かば」の花びらが流れてくる

「かばの花びら」は山桜の花びらのことだ。

父親は美しいものに注意を向けさせることで、「こわい所」について考えている子供たちの気をそらそうとしている。それでも、弟はこわがり、恐怖は解消されないで終わる。

◆全体の印象

「五月」全体の印象はどうか。明るい部分と暗い部分の両方がある。明るい部分は、クラムボンをめぐる子ガニたちの無邪気な対話だ。暗い部分は、弱肉強食の世界だ。また、死への恐怖だ。

■精読(3)12月

夜で、月の光が差してきている。やはり、美しい世界だ。

◆兄と弟が泡の大きさで競争

最初のところで、子供たちが泡の大きさで競争している。
ここからは、子ガニたちの成長が見てとれる。もう、「クラムボン」とは言わずに、「あわ」という普通名詞を使っている。

泡の大きさ比べだが、結構しつこい。何か意味があるのだろうか。

「五月」のクラムボンについての会話と比べると、子ガニたちが他者と比べて競い合う世界、競争の世界を生き始めていることがわかる。まだ、無邪気な段階ではあるが、大人の厳しい生存競争の世界へと一歩踏み出しているのだ。

比べることで、序列ヒエラルヒーができる。強い者と弱い者の上下関係が生まれる。「五月」では世界全体の厳しい弱肉強食の掟が示された。ここではカニ同士の間での生存競争が示唆されている。

なお、泡についての対話で、兄の「近くだから、自分のが大きく見えるんだよ。」という説明は、科学的な説明だ。理系的なところのあった宮沢賢治らしいところだ。

◆やまなしが落ちてくる

そのとき、ドブン。

ここから「十二月」の後半となる。単純な1行だが、ドキッとする。前半の、

そのときです。にわかに天井に白いあわが立って、青光りのまるでぎらぎらする鉄ぽうだまのようなものが、いきなり飛びこんできました。

があっただけに、一瞬、またカワセミかと思ってドキッとするが、今度はやまなしだ。

「五月」では飛び込んでくるものが、「鉄砲だまのようなもの」「コンパスのように黒くとがっている」と描写されていたが、「ドブン」ではだいぶ印象が違う。丸いものが落ちてきたときのオノマトペだ。

末尾で、やまなしが酒になる、と言われている。酒を飲むことが肯定的に書かれている。子供なのに酒を飲んでもいいのか、と一瞬思う。果実酒だからいいということか。

ここで、宮沢賢治は酒についてどう考えていたのだろうという疑問が湧いてくる。保留にする。

最後に、親子3人は穴に帰っていく。とても平和な感じだ。

波は、いよいよ青じろいほのおをゆらゆらと上げました。それはまた、金ごう石の粉をはいているようでした。

「青白いほのお」は、波にゆれる月の光のことだろう。それがダイヤモンドの粉にたとえられている。

「十二月」は最初に「水晶のつぶや金雲母のかけら」などがあり、最後に「金剛石の粉」となっている。岩石のイメージが効果的に使われている。

■5月と12月の比較

5月の世界と12月の世界は対照的になっている。簡単にまとめてみよう。

▲5月の世界
季節:春
時間:昼
光:日光
泡:クラムボンについての対話――無邪気
飛び込んでくるもの:カワセミ
子供たちの感情:恐い、恐ろしい
子供たちの成長:まだ子供、幼児語を使う
食べること:生き物が生き物を食べる弱肉強食の世界

▲12月の世界
季節:初冬
時間:夜
光:月光
泡:泡くらべではり合う(競争)
飛び込んでくるもの:やまなし
子供たちの感情:幸せ、喜び
子供たちの成長:大きくなった
食べること:果物(やまなし)を分け合う世界

宮沢賢治は菜食主義者だった。最後の「食べること」の部分には、そのような賢治の思想が現れているのだろうか。

また、そのような思想には、確か、仏教的世界観、特に法華経ほけきょうの影響があったのではなかったか。

これはちょっと大きな問題だから、賢治のほかの作品も読まないとわからないだろう。保留にしておこう。

■注

★注:②だけは、全集でも2行になっている。ただし2行目は、教科書とは違って字下げされている。字下げしているなら問題はない。それでもほかの個所との統一性がない。なぜ2行にしたのかはわからない。「たずねました」とあるから、改行しても直前のセリフが弟のものであるとすぐわかると思ったのか、宮沢賢治が単に間違えたか、記事になったときに間違ったかのいずれかでは?

次の記事に続きます。



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