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宮沢賢治『やまなし』を読む(3)

これは次の記事の続きです。

■主題は?―さまざまな解釈

主題について、他の人がどのようなことを言っているのかをまとめておこう。古いものから順に見ていく。コメントも付す。

▲恩田逸夫1971

クランボンを魚が殺し、その魚をカワセミが殺すという、生物界のきびしい秩序である食物連鎖の現象をとりあげている。

(恩田逸夫、456-457頁)

『やまなし』が文学作品ではなく、理科の教科書の「食物連鎖」の説明のように思えてくる。

▲西郷竹彦1971

私たちの住んでいる世界は、この「やまなし」の世界と同じように、苦しいこと、悲しいこと、恐ろしいことのたくさんある矛盾の世界です。しかしそういう世界であってもなお、明るい平和な世界であってほしい、という作者の祈りにも似た願いが、十二月の世界なのですね。

『文学教育実践史事典 第1集』

共感する。

▲甲斐睦朗1976-1979

かわせみは自分が生きるために魚を襲い、その結果、谷川の住人を恐怖に陥いれる。逆に、やまなしは自分の生命を失うことによって、谷川に平和と豊かさをもたらす。

「自己の生を否定することによって他への恵みとなる生き方」が主題。

甲斐睦朗、「下」161頁

このとらえ方は、物語がカニの視点から描かれていることを無視している。まるで、「かわせみ」と「やまなし」の物語のようだ。カワセミが悪者で、やまなしが善い存在となっている。この童話は、やまなしがカニの親子のために自分を犠牲にしたという話ではない。やまなしはただ落ちただけだ。

▲岩沢文雄1978

生きとし生けるものが、いつも問いつづけなければならぬ根源の問い「生ととなりあわせの死、死をふくんだ生」「生とはなにか、なぜ殺しあわなければならぬのか」の問題

岩沢文雄、303頁

「死をふくんだ生」は納得できるが、「生とはなにか、なぜ殺しあわなければならぬのか」の問題」というのは、ちょっと大げさすぎるような。

▲栗原敦1982

「死」に照らし出されて見出された世界の美しさ、与えられたものをより優れた姿で味わい生かしきることの正しさが、無意識のうちにでも感じとられていれば、ひとまずそれでいいのだろう。

栗原敦、134頁

「死に照らし出されて」というのは、カワセミが魚を食べるところを見て、という意味だ。

「与えられたものをより優れた姿で味わい生かしきる」というのは、やまなしを酒にして飲むいうことだ。――なんというまわりくどい言い方!

▲谷川雁1985

大いなるものへ犠牲をささげ、しかるべき時を経て、そこから返される贈物に共同であずかる古今東西の宗教儀礼――それは天地の運行に悲しくも愛らしくはめこまれている生命の輪廻をなぞる、無心のあそびに由来する、と作者は言う。

谷川雁、207頁

「大いなるもへ犠牲をささげる」とは、魚をカワセミに献げること。「そこから返される贈物に共同であずかる」とは、やまなしが天からもたらされるということ。

谷川雁は、神に生け贄を捧げ、神から贈り物をもらうという、宗教儀礼のようなものが表現されていると考えている。独特のとらえ方だ。童話が文化人類学の学説を表現するものにされている。それに、カニたちが魚を捧げたわけではない。

▲古賀敬一1984

五月の殺し殺される世界の中で、不安や、恐怖をのりこえ、十二月のやまなしに代表される平和な、生きる喜びに満ちた世界を望むかにの親子の姿

『文学教育実践史事典 第2集・小学校篇』

みんな「殺し殺される世界」と言っているなあ……。

▲今林久1983

各実践者(授業の――引用者注)が、「やまなし」という題の象徴するもの(つまり、心のやすらいでくる世界)へ読みとりをまとめようとしていることに、疑問を感じた。(……)五月を十二月に収斂しゅうれんさせる読みとりに無理を感じた。

『文学教育実践史事典』

「五月を十二月に収斂させる読みとり」とは、古賀敬一の読み取りにあるような、5月の恐怖を乗り越え、平和な世界に行き着くという流れで物語を読むことだ。今林は、それぞれが並列的に呈示されている、それでいいのではないか、12月へとまとめなくていいのではないかと考えているようだ。

▲花田俊典2001
花田も今林と同じく、12月ばかりを強調することに反対している。

「五月」のかわせみの残酷な捕食に対して、「十二月」にはやまなしの献身(……)が描かれているといってよかろうが、さて、この「五月」から「十二月」への推移は、はたして小説の世界における成長といえるのか。

「十二月」では、やまなしの献身が前景化された結果、「五月」の捕食の世界が消去されている。

花田俊典、21頁

「五月」を忘れて、「十二月」の<はい、めでたしめでたし>で終わっていいのか、という疑問が述べられている。

それにしても、どうしてみんな「やまなしの献身」ととらえるのだろうか。

▲山口憲明2013
山口憲明もまた、主題は「献身」であるとしている。

かわせみのように他者を取って食って生きるのではなく、やまなしのように我が身とその力を他者に献げて生きる。それをくり返す。それをぎょうずる。この『やまなし』の在り方、姿が、最も美しいということ

山口憲明、20頁

山口は自分の授業の後に書かせた子供たちの作文の一部も示している。

やまなしは、自分が食べられてかにが生きるためにぎせいになっていた。だから、宮沢賢治さんはこのやまなしのように自分にそんがあってでも人の役に立てという意味なのかなと思いました。

山口憲明、129頁

やまなしは、自分をかにたちに食べてもらうために、一番おいしく熟した頃に、川の中に落ちてきました。つまり、かにたちに自分をささげたのです。

山口憲明、134頁

う~む、カニの話が完全にやまなしの話になっている……。

▲白石範孝2016
白石範孝もまた同じ方向だ。

<「五月の命を奪う死」に対して、「十二月」の「命を全うした」という読みをさせていく>ことを授業の目標にしています。

白石範孝、50頁

白石も、子供が書いたノートを紹介している。

この作品は、意図的にうばわれる命と全うした命を比かくすることによって、全うした命のめぐみを得る方が理想の生き方だと主張している。

白石範孝、56頁

うえ笙一郎
最後に、学習指導書を見てみよう。

谷川の底を活写することで自然の美しさを教えながら、そこに人生というものの象徴を見ている童話

教師用学習指導書、2015

これはまさにそうだと思う。

かわせみが魚の命を奪う「五月」の絵は、いわば〈万物が生命の歌をうたう春における冷厳な死〉を示し、「十二月」の絵は、〈物みな眠りに就く冬における豊饒な生〉を示しており、その両者を含み持ったものがすなわち〈人生〉というものだ――とするのがこの一遍の主題なのである。

教師用学習指導書、2015

う~む、さすがに格調高くまとめている。でも、〈万物が生命の歌をうたう春における冷厳な死〉や〈物みな眠りに就く冬における豊饒な生〉というとらえ方は、やはり大人の見方のような気がする。テーマを、こんなふうに表現できる子供はいないだろう。まあ、教える教師がこのことを念頭においておけばよいということか。

■自分の解釈の修正

さて、他の人たちの解釈に、あ~だ、こ~だと勝手な茶々を入れてきた。でも、他の人たちの解釈を読んだおかげで、自分の解釈を修正する必要性も見えてきた。

◆5月は<残酷な弱肉強食の世界>か?

まず、五月は<残酷な弱肉強食の世界>なのかという点。
僕も最初の読解で、「五月」の世界を弱肉強食の世界ととらえた。でも果たしてそうなのか?

宮沢賢治はいろんな童話で、生き物が他の生き物を食べて生きることに対して、否定的な考えを示している。賢治自身、菜食主義を実践したりもしている。

しかし、『やまなし』の子ガニたちは、世界は弱肉強食であるとか、食物連鎖が生じているなどと認識しているだろうか。子ガニたちはただ、突然訪れる「死」というもの、それも突然どこか「こわい所」に連れ去られるという意味でのものだが、それを恐れ、おびえているだけだ。「五月」を<残酷な弱肉強食の世界>と読み取るのは、すべてを外側から客観的に見る大人の解釈者だけだ。

子ガニたちが、この世界には恐ろしい何かがあるということを経験をしたということ――「五月」が描いているのはそれだけではないか。

◆12月は<献身>を描いている?

多くの研究者や教育者は、「献身」をこの童話のテーマと見なしていた。

宮沢賢治は童話のあちこちで自己犠牲を描いている。たとえば、『銀河鉄道の夜』。主人公ジョバンニの友人カンパネルラは、溺れたいじめっ子のザネリを助けるために、水の中に入って死んでしまう。賢治が傾倒していた仏教(特に法華経)の影響が色濃い。

だが、すでに述べたように、『やまなし』という童話はカニの親子の話であって、やまなしが主人公の話ではない。やまなしが川に身を投げてみんなの犠牲になるという話ではない。やまなしは単に水に落ちてくるものにすぎない。カニの目から見れば、人生にときたま訪れる思いがけない幸運の一つだ。

したがって、この物語に「献身」を見るのは見当違いだと思う。題名が「やまなし」となっているので、それに影響されているのではないだろうか。

◆まとめ

まとめてみよう。

5月を「残酷な弱肉強食の世界」と感じ、12月に「献身」を見るのは、童話の内的論理を逸脱している。解釈者が、宮沢賢治という人物像から導き出したものを、この童話に読み込んでいるだけだ。

ここで描いているのはあくまで、人生に存在する暗と明の二つの相だ。人生の暗の部分を緩和するものとして「かばの花」があり、「やまなし」がある。

それでテーマとしては、あっさりと、

<人生には暗い側面がある。恐ろしい死というものがある。しかし、明るい側面もある。楽しいこともある>

と、この程度にしておこう。

水の中の情景を思い描くことができ、カニの子供たちの気持ち(恐れと喜び)がわかり、またさまざまな詩的でうつくしい表現を楽しめればそれで十分だ。

■補足:妹トシの死が反映?

「五月」では「死」の影がさしている。子ガニたちは、<クラムボンは死んだよ>、<殺されたよ>とドキッとすることを言っているし、魚はカワセミに食べられてしまう。

ひょっとしたら、ここには愛する妹トシの死が反映しているのではないか。

「やまなし」がいつ頃書かれたのかを年譜で調べてみる。

  • 1921(25歳):1月23日、突如東京に。国柱会理事の高知尾たかちお智耀ちように会う。その勧めで法華文学の創作を志し、法華経の真意を伝えるために多くの童話を書く。8月中旬、妹トシが喀血したため帰郷。12月3日、稗貫ひえぬき農学校(翌年、花巻農学校に改称)教諭となる。

  • 1922(26歳):11月27日、妹トシの死。同日、詩「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」を書く。

  • 1923(27歳):4月8日、「岩手毎日新聞」に童話『やまなし』発表。

『やまなし』が発表されたのは、妹トシの死のすぐ後だ。ただし、発表されたものと内容的にほぼ同じ「初期形」は、1921年12月か1922年5月に成立したと推定されている。

この推定が正しいとすれば、妹トシの死が「やまなし」の執筆動機となったわけではないことになる。

ただ、1921年に妹が喀血し、そのために東京で活発に活動していた賢治が帰郷している。この時点から賢治がすでに妹の死を予感していた可能性はある。どんなに不条理であろうが、確実に存在する死というものに向き合い、どのように受けとめるべきなのかを考えていたかもしれない。

賢治の生涯については詳しくないので、憶測はこの辺でやめておこう。

■『やまなし』の文学性

最後に、『やまなし』のどこがすぐれているのかについて考えておこう。

おもしろい表現や美しい詩的表現はたくさんある。でも、それとは別に、作品全体として見た場合、他の多くの童話と比べて、どこがすばらしいのか。

それは人生の暗い面をきちんと描いているところではないか。

暗い面は物語内で解決されてはいない。なぜなら、それは解決しようのないこととして、人生においてしかと存在するものだからだ。

私たちはつい、子供には人生の暗い面は見せまいとする。子供が傷つくかもしれないからと考え、隠しておこうとする。そして、何もかもめでたしめでたしで終わる、明るいばかりの話を読ませようとする。

しかし、子供は子供なりに人生には暗い面があることを感じている。『やまなし』はそれをはっきりと示し、なおかつ、明るい面を見て生きていくことを伝えている。

うえ笙一郎は、「人生というものの象徴を見ている童話」と述べていたが、まさにその通りだ。『やまなし』に見られる人生の明と暗は、人生のさまざまな段階で私たちが体験していくものだ。人生の暗部に触れて恐怖を感じ、怯えるのは子供だけに限らない。大人だって同じだ。そういった場合に乗り越えていく力を、子供たちの心にちょろっと与えているのが『やまなし』なのだ。

■参考文献

◆テクスト

『小学校国語6創造 下』光村図書、2020

宮沢賢治『新校本 宮沢賢治全集』第十二巻、本文篇、筑摩書房、1995

宮沢賢治『新校本 宮沢賢治全集』第十二巻、校異篇、筑摩書房、1995

◆研究文献

岩沢文雄「『やまなし』――その冒頭部をどう読むか」、『文学と教育 その接点』鳩の森書房、1978、293-304頁

うえ笙一郎「〈分かる〉作品と〈分からない〉作品」、『小学校国語6創造 下 学習指導書』光村図書、2015、45-46頁

恩田逸夫注釈『日本近代文学大系36 高村光太郎・宮沢賢治集』角川書店、1971、456-457頁

甲斐睦朗「教材研究の方法としての文章論―作品『やまなし』の分析を中心に―」(上)、(中)、(中・続き)、(下)、「愛知教育大学研究報告〔人文・社会科学編〕」25-28号、1976、1977、1978、1979

栗原敦「テクスト評釈『やまなし』」、學燈社「国文学」27巻3号、1982年2月号、128-135頁

西郷竹彦「文芸の授業実践をめぐって」、『西郷竹彦文芸教育著作集3 文芸の授業入門』明治図書、1971

西郷竹彦『宮沢賢治「やまなし」の世界』黎明書房、1994(『西郷竹彦文芸・教育全集34 宮沢賢治の世界』恒文社、1998)

平川政男「『やまなし』の授業」、『感動の文学教育Ⅲ』鳩の森書房、1976

白石範孝『「やまなし」全時間・全板書』東洋館出版、2016

須貝千里「「二枚の青い幻燈」と「私の幻燈」の間で――『やまなし』の跳躍――」、田中実・須貝千里編『文学の力×教材の力 小学校編6年』教育出版、2001、24-37頁

谷川雁「やまなし」、『賢治初期童話考』潮出版、1985、177-207頁

花田俊典「このクラスにテストはありますか――宮沢賢治『やまなし』」、田中実/須貝千里編『文学の力×教材の力 小学校編6年』教育出版、2001、8-23頁

向山洋一「分析批評による文学教育と子どもの成長」、日本国語教育学会『国語教育研究』第83号、1979年4月、34-41頁

山口憲明『文学の授業5 やまなし 教材分析と全発問』本の泉社、2013

◆参考資料

『小学校国語6創造 下 学習指導書』光村図書、2015

原 子朗『定本宮澤賢治語彙辞典』筑摩書房、2013

渡部芳紀編『宮沢賢治大事典』勉誠出版、2007

国語教育研究所編『国語教材研究大事典』明治図書、1992

国語教育研究所編『国語教育研究大辞典』明治図書、1988

浜本純逸・東和男・今村久編『作品別 文学教育実践史事典 第2集・小学校編』明治図書、1988

『現代教育科学』1987年11月号、5-94頁

浜本純逸・東和男・今村久編『作品別 文学教育実践史事典』明治図書、1983


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