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工藤直子の詩「ライオン」―そろそろめしにしようか

工藤直子の詩「ライオン」は、『てつがくのライオン』という詩集に収められている。

この詩集には「てつがくのライオン」という詩(物語?)があるが、ここで取り上げる「ライオン」という詩はそれとは別の詩だ。

国語の授業で取り上げられ、解釈をめぐって論争も起きている。

■工藤直子「ライオン」

雲を見ながらライオンが
女房にょうぼうにいった
そろそろ めしにしようか
ライオンと女房は
連れだってでかけ
しみじみと縞馬しまうまべた

■語句

女房――妻のこと。たいていは夫が妻のことをいう。

しみじみと――心の底から深く感じながら。

喰べた――「たべる」は普通は「食べる」と表記する。「くう」の場合は「食う」と「喰う」がある。また「くらう」にも「食らう」と「喰らう」がある。ただし、「喰」は常用漢字ではない。作者は、野生の動物っぽさを出すために、あえて「喰」を使っているのだろう。

■解釈

◆ユーモア

ユーモラスな詩だ。

「雲を見ながら」――ライオンは雲を見てごはんの時間だと気づいた? いや、雲を見ていたら、お腹がくうっと鳴って、自分が空腹であることに気づいたんだろう。

「女房にいった/そろそろ めしにしようか」――「女房」という言葉が妙に所帯じみている。「めしにしようか」も同様だ。草原の王者なのに、なんだか人間の普通の家庭で夫が妻に話してるみたいだ。

「ライオンと女房は/連れだってでかけ」――「連れだって」とあっても、夫の方が先を歩き、妻が後をついていくという状況か。

なんだか昭和時代の夫婦のような感じだ。家長である夫が主導している。

この詩が収められた詩集が刊行されたのは1982年。これは昭和57年だ。つまり昭和の終わりごろだ。そのような時代状況が反映しているのだろうか。

「しみじみと縞馬を喰べた」――この最後の一行がおもしろい。

ここまでのところを読んで、読者はライオンを人間の夫婦のように身近に感じるようになっている。ところが最後に「縞馬を喰べた」が来る。

「わっ、シマウマを食べるんかい! やっぱりライオンはライオンだ! 豪快だなあ!」

となる。

◆なぜ「しみじみと」?

でもなぜ「しみじみと」なんだろう?

「シマウマを食べる」と結びつくのは普通は「がつがつと」とか、「ばりばりと」だろう。「しみじみと縞馬を喰べた」は異化表現だ。作者はあえて「しみじみと」と「シマウマを食べた」を結びつけることで何かを伝えようとしている。でも、それはいったい何か。

「がつがつと」なら、ただ空腹にまかせて食べるだけだ。「しみじみと」食べるのは、「食べる」ことに何かを思っているからだ。

おそらく、

「ああ、俺たちライオンは、こんなふうに他の生き物の肉を食べることによって生きているんだなあ」

と思っているのだ。

こうして、詩の冒頭、雲を眺めているライオンが何を考えていたのかがわかる。それは「生きる」ということに関することだ。このライオンもやはり「てつがくのライオン」なのだろう。

自分の生は他の生き物の犠牲に上に成立している。ライオンはそのような悲しい宿命に思いをはせている。本当は食べないで生きていきたい。しかし、時間がくると腹が減る。生きるためにはシマウマを食べるしかない。この生の矛盾を感じて、ライオンは「しみじみと」食べるのだ。

◆メッセージ詩?

ではこの詩は、ライオンにことよせて、人間の生もまたその背後に同じ宿命を抱えているということを伝えるものなのか。

そうではないだろう。この詩の眼目はあくまでユーモアにある。

作者は、ライオンをいったん人間の身近な日常生活に置いみる。そして、再びアフリカのサバンナに戻す。そのことによって、読者は一瞬、シマウマにかぶりついている自分を思い描くはずだ。

■さまざまな解釈

調べてみると、論争まで行われていて、一筋縄ではいかない作品であることがわかる。

◆足立悦男(1987)

足立はこの詩をノンセンス詩であるとみる。

ここに描かれているのは、ライオンであってライオンでない。その描かれ方からして、当然人間の夫婦がかさねられている。静かでおちついた夫婦が食事に出かけていく光景がダブってみえる。ところが、その光景は、〈しみじみと縞馬を喰べた〉の終行で崩されてしまう。実に不気味な一行である。意味の世界を破って無意味の世界が、そこで顔をのぞかせる。人間の夫婦であって人間の夫婦でもないという、ダブルイメージの世界である。センスからノンセンスへの、このような実に見事な反転がこの詩にはみられる。すぐれたノンセンス詩といえよう。(足立、56-57頁)

◆中村龍一(1998)

中村はこの詩を使って、中学一年生を対象に授業を行っている。生徒からいろんな言葉を引き出していることに感心する。

この詩について中村の理解は次のようなものだ。

詩「ライオン」で私が作品の問いとしてとらえていたのは、端的に言い切るならば「人間(私)も生きものを殺して食べて生きているんだ。」という事実の再発見・再認識であった。(中村1998、101頁)

この詩の価値は単に獰猛で威厳あるライオンを人間臭く描いたユーモアに止まるものではない。平和で充ち足りた生活をしている〈ライオン〉は、また残虐な殺戮をする〈ライオン〉なのだという生きるもののさがを私たちに問いかけてくる作品である。(中村1998、103頁)

◆鶴田清司(1999)

鶴田は、詩集『てつがくのライオン』にある他の作品を参照しつつ、中村の読みを、「本作品の読みとしては、いささか重く深刻すぎる」と批判する。

弱肉強食の世界を今さら問題にするような野暮な作品ではない。むしろ、所帯じみたライオンの醸し出すユーモアが中心である。老夫婦がいつものように卓袱ちゃぶ台に向かい合ってごはんを食べるというイメージである。これは百獣の王と言われるライオンの威厳ある姿とはかけ離れている。こうした「ひねりによるユーモア」が本作品の最大の教材価値である。(鶴田1999、100頁)

ここでの「ひねり」とは異化のことだ。ライオンを異化することでユーモアを作り出しているのがこの詩であると鶴田は考える。

◆牛山恵(1999)

中村・鶴田論争をうまくまとめている。牛山は、最終行の読みについては鶴田にくみしない。

「雲」を見ているライオンは、人生とは、美とはと哲学するライオンかもしれないし、また、自然に詩情を感じるライオンかもしれない。いずれにしてもロマンの人ではないだろうか。少なくとも、心穏やかに自然を愛する人ではあろう。そのロマンの人が、生きている縞馬を喰うのだ。しかも、心満ち足りて「しみじみと」その食を味わう。「しみじみと」は、味わいながら命あるものを食とする生き物の残酷さを表現している。このオノマトペのおもしろさは、単なる「ひねりによるユーモア」にとどまるものではない。(牛山、72-73頁)

「心満ち足りて(……)味わう」という表現からわかるように、牛山は「しみじみと」を、おいしいなあと思って食べることとみなしている。

作者は、ライオン夫婦の平穏な生活を描き出す。そして、雲を見上げて心穏やかな日常を送る生活人も、残虐な猛獣として生きている。しかも「しみじみと」心満ち足りて生きているのだ。作者は、そんなライオンの物語を語って口をつぐむ。(牛山、73頁)

牛山は、このライオンについての詩を、「心穏やかな日常」を送っているが、本当は「残酷な猛獣」である人間を風刺した詩であると考えている。

◆浜本純逸(2013)

この作品では、ライオンが縞馬を「しみじみと喰べた」という形であらためて〈喰う―喰われる〉関係性が読み手に突きつけられ、日常性に潜む生物の摂理の厳しさや切なさを浮かび上がらせる。穏やかで平凡な日常に潜む〈真実の深淵〉をあぶりだす異化の働きを学ぶ上で有効な教材といえよう。(浜本、178頁)

牛山の捉え方とほぼ同じだ。

■おわりに

詩の解釈は人さまざまだ。やはりまど・みちおが言うように、「十人読んだら十人違う感想をもつのが詩というもの」(『人生処方詩集』102頁)なのか。

ところで、ここまで書いてきて、筆者が自分の解釈で使った「所帯じみた」という言葉が、鶴田清司からの借用であることを思い出した。以前どこかで鶴田の文章を読んで、「所帯じみた」という表現のあまりの適切さに感心していたような気がする。

最近、忘れっぽくなって困る。

■参考文献

足立悦男『現代少年詩論』明治図書、1987

牛山恵「工藤直子の詩『ライオン』を読む」、『日本文学』1999年12月号、70-73頁

工藤直子『てつがくのライオン』理論社、1982

鶴田清司「『心の教育』のまえに『読み方指導』を」、『月刊国語教育』1998年6月号、32-35頁

鶴田清司「言語技術教育は思い入れ読みを排す」、『月刊国語教育』1999年2月号、100-103頁

中村龍一「詩『ライオン』(工藤直子作)と子どもの思想」、『日本文学』1997年8月号、27-36頁

中村龍一「鶴田『言語技術教育』批判――「心情主義」批判に答える」、『月刊国語教育』1998年11月号、100-103頁

浜本純逸『文学の授業づくりハンドブック』渓水社、2013

三好修一郎「工藤直子の詩「ライオン」を私も読んでみる」、『日本文学』2002年7月号、64-67頁

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