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寺山修司の短歌「自らを瀆さんときて」

自らをとくさんときてわらの上の二十日鼠をしばらく見つむ

『血と麦』(『寺山修司全歌集』206頁)

初出は『短歌』昭和36年7月号。1961年のことで、当時寺山は25歳だった。そこでは「瀆さん」は「瀆さむ」となっているようだ。

書きにくいなあ。まあ、でもともかく書いてみよう。うまい歌だなあと感心したので。

■語句

瀆さん――「瀆そう」。「瀆す」+「ん」。「自らを瀆す」は自瀆じとく(=自慰)のこと。助動詞「ん」は意志を表わし、「~しよう」の意。「む」に同じ。

■解釈

かっこいい! 「自らを瀆さん」。自瀆。う~ん、格調高い日本語だ。どこか後ろ暗い秘密の匂いがする。罪の香りも。

思春期の農家の少年が、こっそり自慰をしようと思って、人のいない納屋(昔は自分の部屋などなかった)にやってくる。ところがそこに積まれた藁の上に一匹の二十日鼠がいる。鼠はそこで巣を作ろうとしている。

少年は、二十日鼠を見つめて何を思っただろうか。藁の上でたくさんの子を産む二十日鼠。無益に精子を散らすためにやってきた自分。二十日鼠は生物としての営みを行おうとしている。しかし、自分は? 少年はこそこそ自慰をする自分のみじめさを感じさせられる。鼠から憐れまれているような気持ちにもなる。

そして少年はどうした? 性的興奮がすっかり醒めてしまって、とぼとぼと納屋を出て行った?

いや、そんなことはない。「しばらく」とある。二十日鼠から目をそらして――したはずだ。

終わって納屋を去るとき、少年の脳裏にあの二十日鼠の顔が浮かぶ。それは無心だが、少年には自分を問いつめるような顔に見えたのではないか。

寺山には露悪的なところがあるので、こんな題材も扱うのだろう。だが、こんな題材にもかかわらず抒情をかもし出しているところがすごい。人間がみじめでさびしいものだということを感じさせる。

■おわりに

何冊かの本に当たり、またネットでも検索したが、この歌についてコメントを書いている人はいなかった。――そうだろうなあ……。

■参考文献

『寺山修司全歌集』講談社学術文庫、2011

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