失って初めて気づく、大学卒業式の意味とは

不要不急な非日常と必要な日常

※この記事は、卒業式中止を決めた大学事務局の決定を批判するつもりで書かれたものではありません。1万人規模のマンモス大学では中止にするのが穏当であることはとてもよく理解しています。

大学の卒業式が中止になった。
元々は、節目などどうでもいいという質の人間だった。成人式は留学を理由に行かなかった。 

それなのに、残念だと思った。 

理由はなぜだろうか。
袴が着たかった。それはもちろんある。祖母が手持ちの振り袖から「あなたはこれが一番似合う」と言って見繕ってくれた琉球紅型。成人式の前撮りのときに振り袖を着せてくれた祖母に「この次は卒業式の袴だから、それまでは元気にいてね」と約束した袴。みんながレンタルしてリーガロイヤルで着るピンクの花柄とは違うのよ、というのはもちろんあった。

あるいは、友人に会いたかった。私は自分の学科が好きだ。授業外ではほとんど会ったりしないし干渉もしないが、独特の「露文言語」のある世界。みんながみんなそれぞれ好きなものがあって、それについてお互い程よい距離感から意見を言い合える。とても居心地がいい。そして何よりサークルの同期。言わずもがなの家族。
でも別に、卒業式じゃなくても集まれば会える。

だとしたら何が残念なのか。

節目の話に戻ろう。
人生で一番大きな節目とはなんだろうか。そして、節目というものに意味はあるのだろうか。
この22年間で経験してきた節目といえば、その殆どが学校の入学/卒業だろうか。
でも本質的には何も変わらなかった。それは同じ「学校」という場所であるからかもしれないし、そもそも自分というものがひとつづきの存在だからかもしれない。とにかく、まあ別の場所に通うことになるだけでしょ、みたいな心積もりだった。

でも今回は違った。
今回だって、大学から会社に通う先が変わるだけ、そしてその場所で降ってきたものをこなすだけのこと、と思っていた。でも違うのだ。学生から労働者になるというのは、その場における人格を剥ぎ取られるようなものなのだ。(いや、実際のところはわからないが。だって労働者になったことなんてないのだから)

特に大学という場所(殊文学部、殊露文)においては学生は驚くべきほどに「人」として扱われる。もちろん日頃の怠惰や勉強不足によって単位を落とされたりはするが、人格を否定されることはない。こんなことを言ったら嫌われるんじゃないか、など思うことなく自由に意見を言える。私を私として尊重してくれるという安心感があるから。そういった意味で大学(少なくとも私が通っていた大学、学部学科)はユートピアだったのだ。
一方で会社はどうだろうか。中高生の頃、体育会系(笑)みたいな教師が「〇〇生の自覚を持って〜」みたいな説教をすることはよくあるが、これって会社の中でうまくやってくためだったんだな〜というのを就活のときにひしひしと感じた。そういう感じ、社員Aとして生きていかなくてはいけない。もちろん会社によって違うだろうし、社内ではそうではないかもしれない。でも無数の忖度とともに生きていかなくてはいけない。きっとそういう世界。

つまりわたしたちはこの春、ユートピアを追い出されるのだ。

ユートピアの終わりには、祝祭が必要なのだ。

卒業式という儀式はその祝祭として機能している。式典自体に意味はないが、着飾って、謝恩会やって、追いコンやって、の流れ。
その儀式はユートピアを出ていく我々の最後のお祭りであって、これがあることによってうまく外の世界に出ていくことができる。

だから、延期などしてはいけないのだ。「 追いコンできなかったから、ゴールデンウィークに集まりましょう」はなんの意味もない。3月にやることに意味があるのだ。一度ユートピアから出てしまったらもう二度と戻れないし、あるいは祝祭の不在によって、一生ユートピアから出られなくなってしまうかもしれないのだから。
皆で手をつないで、せーのって飛び越える機会を失った私達は、どう大人になればいいのだろうか。

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