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命がけで海外に渡った人たち⑤ 密航し、船長の犬の世話、船長の下着の洗濯までしてアメリカで学んだ新島襄

外国に行くのに苦労した人って誰だろうと思って、いろいろな本を読んでいて気がついた。江戸末期から明治の初めにかけて外国に渡った若者はみんな、とんでもない努力の末に、渡航を実現していたんだな。

中でもすごい熱意だと思ったのが、新島襄という人だ。京都の同志社大学の創設した教育者、キリスト教の熱心な信者ー程度が私の理解でしたが、それだけではないですね。人並み外れた信念と情熱の持ち主です。

江戸時代の末期に生まれた新島は、武士の子として、幼い頃から文武両道に励みました。

漢学や蘭学などを学び、アメリカの地理や歴史を解説した『聯邦志略(れんぽうしりゃく)』や漢訳聖書に出会ったのです。大統領制、自立した学校、公立の貧困者を助ける組織などの存在をしり、欧米で学ぶことを切望するようになり、鎖国令を犯して国を出ることを決意しました。

江戸時代末期、幕府は外国への渡航を禁じ、万一この禁を破って外国に行った場合は、入国を拒んでいました。ですから外国に行くには、密航しかなかったのです。

個人的に密航するケースと、藩がバックアップして密航させるケースがありました。新島は個人のケースです。

函館から密航し、1年がかりでアメリカに辿りついたのです。新島がまず乗った船は、アメリカの商船ベルリン号という、木造2本マストの比較的小型の船で、中国の上海をめざしていました。蒸気エンジンでなく、マストに沢山の帆を張って海上を走行する帆船でした。

船長はウィリアム・T・セイヴォリーという、マサチューセッツ州セイラム出身の人です。セイヴォリー船長は日本人を勝手に海外に連れ出すことは違法であり、固く禁じられていたことは知っていました。しかし、箱館の友人から新島を紹介され、新島の志をぜひともとげさせてやってほしいと頼まれ、乗船を許可しました。

但し一つ条件をつけました。それは箱館港の沖合に停泊しているベルリン号まで、出港の前夜に自分でやってくることでした。新島の固い意志を確認するためでした。

 新島はベルリン号にただで乗せてもらうお礼にと

船長室の掃除、船長の給仕と炊事、犬の世話

などを引き受けました。この時は、学問をすべき自分が洗濯をしていると自嘲気味の日記を残しています。

 ベルリン号は上海に着いたら、今度は長崎に戻ることになっていました。しかし、アメリカ行きを熱望する新島のために、アメリカ行きの船を何とか見つけて、それに無事に乗せてくれたのです。

上海の港にはアメリカ船が何隻かいましたが、船長たちは船会社から日本人を乗せて帰ることを固く禁じられていたので、なかなか引き受け手はなかったようです。

セイヴォリー船長は港の中を探しまわって、ようやく最後にワイルド・ローバー号というボストンの船に当たりました。その船のホラス・S・テイラー船長が、新島を引き受けてくれました。

函館を出発したのが1864年6月14日です。それから1年近くが過ぎた1865年7月20日に、ようやくボストンに到着したのです。上陸を許されたのはこの年の10月になってからでした。この間、やはり新島は雑役係をしており、

船長の下着の洗濯

もしていたそうです。

新島襄の船旅 函館からボストン約1年
札幌新千歳空港ーボストン 約18時間


ベルリン号のセイヴォリー船長は、箱館から日本人を1人連れだしたということがばれていて、会社をから解雇されてしまいます。

新島は多くの人の助けを受けてフィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で教育を受けました。その間に日本からの留学生と正式に認められた新島は、日本政府から派遣された岩倉使節団の教育視察旅行に通訳として同行します。

今度はアメリカ国内だけでなく、ヨーロッパを訪ね、約1年かけて各国の教育制度を学び、教育こそが欧米諸国の文明の礎であると確信しました。日本にキリスト教主義の大学を設立することを決意し、10年ぶりに日本への帰国を果たしたのです。

アメリカを余りに理想の国として見ていた点は、指摘されるべきでしょう。しかし、いま、これだけの危険を冒し、時間もかけて外国に行こうという人がどれだけいるでしょうか。

新島の日常を今に伝える施設が京都にあります。

京都に行く機会があったら、訪ねてみたいものです。

参考
明治日本はアメリカに何を学んだのか。文春新書

新島襄の弁解 校名の由来

まだまだ書く材料はありますが、少し書きためてまた公開いたします。
図書館から借りた参考書です。

2024/04/21

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