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命がけで海外に渡った人たち 11 中国を活写したルポライター 円仁

無謀とも思える手段で、海外を目指した人は、どんな人だったのか。どんな結果を残したのか。

自分を励ますために書き始めたシリーズなので、もう少し続けてみます。
いつも気になっていたのが円仁(えんにん)というお坊さんです。

彼のことを研究したという知人がいて、話を聞いていて驚かされたのです。
一言で言うと、稀代のノンフクション作家、ルポライターです。10年近い中国での生活を克明に記録し、それが今の時代に貴重な記録として脚光を浴びているのです。

どんなお坊さんだったんでしょうか。

ざっくり言うと、円仁は、日本の平安時代に活躍した天台宗の高僧であり、唐の文化を日本に伝えたことで知られています。

794年に今の栃木県で生まれました。若い頃から学問に優れ、当時の朝廷や宮廷からも重んじられていました。今でいったら名門私立中学高校から優秀な成績で名門大学に進み、大きな成果をあげた人って感じかな。

去年子供が中学受験したので、すぐにこんな比喩が浮かびます。

 815年に、円仁は日本を出発し、当時仏教の中心地であった唐(現在の中国)に留学しました。唐では、高僧や学者たちと交流し、仏教や中国の文化、さまざまな学問を学びました。

この時にとんでもない苦労をしているのです。日本と中国は世界の中では比較的近い場所にあります。一衣帯水なんて言葉もあるくらいです。

しかし、平安時代は全く違います。多分、航海の知識もあまりなかったでしょう。とにかく神を信じて(仏様でした)出帆したってことでしょう。

最後の遣唐使となる円仁たちを乗せた3隻の船は6月23日、日本海沿岸の島から中国を目指して進みました。

……そうこうしているうちに、東からの風がしきりに吹いてきて大小の波が高く猛り立ち、船は急に走り出して速度を増し、とうとう浅瀬に乗りあげてしまった。あわてふためいてすぐに帆をおろしたが、舵は二度にわたってくだけ折れ、波は東と西の両側から互いに突いてきて船を傾けた。舵の板は海底に着き、船の艫はいまやまさに破れ割けようとしている。そこで、やむなく帆柱を切って舵を捨ててしまうと、船は大波にしたがって漂流しはじめた。……船の上を波が洗い流す回数も数えきれない。船上の一同は神仏を頼んで誓い祈るほかなかった。こういう状態だから人々はなすすべを失って大使・船頭以下水夫にいたるまで裸になって褌をしめなおすのがせいぜいであった。……船の骨組みの接続部分の合わせ目は大波にたたかれて皆はずれとんでしまった。左右の手すりの端に縄を結んでつかまり、われもわれもと活路を求めるに懸命である。……とうとう船は沈んで沙土の上に乗ってしまった。……
https://shukousha.com/column/yokosawa/11521/


8日目に命からがら到達したのは揚子江河口でした。
ここには現在、上海という大都市がありますが、彼らが着いたのは小さな漁村でした。

船は浅瀬に乗り上げたうえ、バラバラに壊れてしまったのです。船を下りたら河口の泥沼に足を取られ、さらに雨に降られ、巨大な蚊にも襲われることになります。

大阪ー上海 2時間40分 飛行機
京都ー揚州 8日 円仁たちの船旅


円仁の日記には当時の中国の社会・経済・政治・文化・仏教ばかりか、一般庶民の生活の様子も詳細に記録されており、当時の社会状況や仏教弾圧の様子も正確に伝えられています。

当時の皇帝、武帝が理不尽な仏教弾圧に乗り出し、円仁にも危険が及んできます。ここら辺が、読みどころでしょう。なぜ仏教が弾圧されたのか。当時の武帝は、道教に熱中していました。

道教の関係者も、仏教を追い落として国家宗教になろうとしていたそうです。そもそも僧侶は家庭を持たないため、儒教の教えにそぐわないと考えられていたうえに、僧侶たちも大きな政治力をもっており、武帝は煙たがったということのようです。

円仁の中国での生活ぶりは、以下の本の中に1200年の時を挟んで再現されています。

中国で学んだ知識をもとに多くの著作を著し、日本の文化・学問の発展に大きく寄与しました。特に、仏教教義の研究や仏典の翻訳、漢詩や論理学の普及に力を注ぎました。

入唐求法巡礼行記は文庫に入っており、手軽に読むことができます。長い間忘れ去られていましたが、駐日米大使を務めたライシャワー氏が紹介したことで、日本でも注目を浴びることになったという意外な経緯もあります。

分厚い本ですが、当時の中国ってどんな感じだったのか、伝わってきますよ。


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