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命がけで海外に渡った人たち 12 あらゆる方法でロシア語を身につけた大黒屋光太夫って誰?


大黒屋光太夫は、江戸時代後期の伊勢国(現在の三重県鈴鹿市)出身の船頭である。彼は、天明2年(1782年)に31歳で江戸へ向かう途中で遭難し、過酷な漂流生活を経てロシアに辿り着いた。
光太夫の苦労は想像を超えている。


https://hanaha09.exblog.jp/29750346/


遭難後、北へ流され、小さな島で4年間も寒さや飢えと闘いながら生活した。


17名いた乗組員のうち、多くが寒さや飢えで亡くなり、最終的にロシアまで生き延びたのはわずか3名だった。

名古屋セントレア空港 アラスカ・アンカレジ 約18時間
大黒屋光太夫一行 7カ月半の漂流と孤島での生活4年

彼らが流れ着いた島、アリューシャン列島の1つ、アムチトカ島は現在核実験場になっているようだ。

ロシアでは、日本語学校の教師になることを求められたが、それを断り続け、帰国の許可を得るまでに数年を要した。

ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクまで赴き、女帝エカテリーナ2世に直接面会して帰国を願い出た。

漂流から約9年半もの歳月を経て、ようやく日本への帰国が実現した。


光太夫は、これらの困難を乗り越え、ロシアでの見聞を日本に伝えるという重要な役割を果たした。帰国後は幽閉されたとの見方もあったが、最近の調査では、江戸で晩年まで優遇されていたようだ。


ロシアで経験した文化的な衝撃は、少なくなかった。特に言葉の壁は手強かった。

ロシア語は、今でも日本人が最も学びにくい言葉である。

光太夫は、ロシア語という全く異なる言語体系に直面し、コミュニケーションの困難さを経験した。

大黒屋光太夫のロシア語マスター法

は次のようだった。

漂着した島人がタバコをタンバコと呼んでいるのに興味を覚え、ロシア語をメモし始める。

どうやらエト・チョアというのがこれは何かという意味だと気がつき、この言葉を使って語彙を増やしたという。

小説「大黒屋光太夫」吉村昭の上巻107ページあたりに書かれている。

イルクーツクではロシアの科学者キリル・ラクスマンと知り合い、ロシア語をさらに一生懸命学び始めた。

ロシア語の単語を発音してもらい、それをロシア文字で書いてもらうことで、言語と文字を同時に習得した。
本を読むことができるようになるまで努力し、ロシア語の読解力を高めた。

1782年の遭難から1792年の帰国まで、約10年間ロシアに滞在したため、実際の生活の中でロシア語を学ぶ機会が多かった。

また光太夫は、ロシアの大学で日本の風俗について講演を行うなど、実際にロシア語を使用する機会があった。このような実践的な経験が、言語能力の向上に寄与した。

著書『北槎聞略』の末尾に記載されているロシア語の単語は、木崎良平氏の調査によると1,262語に及ぶ。これは、光太夫が滞在中に多くの語彙を習得したことを示している。

エカテリーナ2世との直接対面は、日本の封建制度下では考えられない経験であり、大きな文化的衝撃だったと推測される。ちなみに光太夫はエカテリーナに気に入られ、抱擁接吻されたと後年語っている。これは疑う向きも多い。

「大黒屋光太夫」岩波新書 131p
彼の経験は、異文化環境における言語習得の一つのモデルケースとして捉えることができる。

参考
『大黒屋光太夫』(岩波新書)  山下恒夫
この本は、光太夫に関する最新の研究成果をまとめた総論的な作品で、図版や地図も多く掲載されている。本稿でも参照した。

『大黒屋光太夫 上・下』 吉村昭
新しい研究成果を反映した小説で、光太夫の生涯をより正確に描いている。

『北槎聞略』
光太夫の知識をもとに蘭学者の桂川甫周が著した書物で、一次資料として重要。
映像作品:
『おろしや国酔夢譚』
井上靖の小説を原作とした映画で、光太夫の生涯を描く。

三重県鈴鹿市にある大黒屋光太夫記念館も、光太夫の肖像や直筆の墨書、ロシアから持ち帰った器物などを展示しており、彼の生涯や経験を学ぶ上で貴重な資料が豊富だ。


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