吉田茂のCプランとは

 日本が第2次大戦で敗れてからまもない1945年10月、外務省は国際社会に復帰するため講和条約の締結準備を開始していた。その中心人物が吉田茂首相だった。当時、世界では東西の対立が深まり、冷戦が本格化していた。


 1950年6月、対日講和担当のダレス米国務長官顧問が訪日。この最中に朝鮮戦争が勃発し、外務省は東側諸国を除外した「多数講和」を前提とする講和方式に重点を置くようになったが、ダレスとの交渉が本格化に備え、念のため4つの具体的なプランを作成していた。

 その中に「C案」と呼ばれるものがあった。昭和史研究の第一人者である、保坂正康氏が、ベストセラーとなっている「昭和の怪物 七つの謎」 (講談社現代新書)で紹介している。

 外務官僚が作成したもので、「北大西洋地域における平和および安全の強化のための提案」と題され、50年の12月に吉田に提出された。

 「全ての国と平和に生きることが、世界で普遍の願いだ」と宣言したうえで、日本と朝鮮半島を非武装地帯と定め、 米英ソ中の四か国が北太平洋の軍備を制限し、国際連合がそれを監視するー大胆な理想論だった

 保坂氏は、「C案は吉田にとっての隠し球だった」と書いている。ダレスが講和条約を条件に、日本に再軍備を押しつけてきたら吉田は「結局、あなた方が望んでいるのはこういうことだろう」と開き直るつもりだったのではないか、保坂氏はそう推理している。

 ただ、実際の交渉の中で「C案」は提出されることはなく、日本は軽軍備と、日本国内への米軍基地受け入れに応じる。今日の日本の防衛政策につながって行く。

 それでも敗戦国日本が、戦勝国の米国に思い切った平和のプランを準備していたことは、あらためて驚かされる。

 今、1953年に休戦になったままの朝鮮戦争を終結させる問題が、朝鮮半島の非核化とともに米朝間で論議されている。

 しかし、今の安倍政権から、吉田が作成させた「C案」のような気概を感じ取ることはできない。

 米国の方針に全て従い、トランプ大統領との個人的親密さを自慢しているだけだ。吉田の「C案」を安倍晋三首相に期待するのは、無理なのかもしれない。

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