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「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」再考:シンポジウム「メディアアートにおける音楽とはなにか」および「プレゼンテーション道場」報告書を受けて

「みえないちから」
Vibrations of Entities
2010年10月30日~2011年2月27日:NTTインターコミュニケーションセンター[ICC]ギャラリーA

シンポジウム「メディア・アートにおける音楽とはなにか」
The Definition of Music in Media Art
2011年2月25日 19時00分~20時30分:NTTインターコミュニケーションセンター[ICC]4階 特設会場
出演者:三輪眞弘(フォルマント兄弟),吉岡洋,佐々木敦,畠中実(司会)

メディア・アートにおける"音楽"の現在
フォルマント兄弟のプレゼンテーション道場
主宰:フォルマント兄弟(三輪眞弘、佐近田展康),アドバイザー:吉岡洋,選考委員:畠中実,佐々木敦,椹木野衣
(平成22年度文化庁メディア芸術人材育成支援事業)


シンポジウム「メディア・アートにおける音楽とはなにか」が開催されることは「みえないちから」展を訪れたときに知った。別のところに記録を 残してあるとおり、「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」の経験が自分にとっては印象の良くないものであったという経緯はありはしたものの、 そこで「音楽」が問題にされるらしいと聞いて、時間の調整がつく限りこのイベントには参加しようと考えていた。ここでいう「参加する」というのは 会場に足を運び、時と場所とを共有する観察者になるということを概ね意味している。だが実際には後に述べる事情もあり参加はできず、 ライブストリーミングやファイルダウンロードといった形態でその模様を記録したものによって内容を知ることができるようになった。 (もっとも、ICCでのイベントについてはこれまでの経験から、Webでのライブストリーミングや録画の公開が行われることは想定していたのだが。)

それとほぼ時を同じくして、シンポジウム「メディア・アートにおける音楽とはなにか」をその一部とする文化庁助成のプロジェクト 「メディア・アートにおける"音楽"の現在 フォルマント兄弟のプレゼンテーション道場」の報告も公開され、シンポジウムの状況も含めて、 その場にいなかった人間にとっても情報を入手できるようになった。以下はこれら2つの媒体にあたっての印象であるとともに、 「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」についての再考(というより未だそれへの宣言に過ぎないものでしかないが)を含んでいる。


実は私は、「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」もまた、シンポジウムがそうされたように、ライブストリーミングなりダウンロード可能な コンテンツとして提供されても構わないのではといったことを感想として書いている。ちょうど一連のフォルマント兄弟の活動の出発点となった 「フレディの墓/インターナショナル」がそうであったように。端的に、なぜ「お化け屋敷」だけ、「幽霊」の出現に立ち会うために会場に 足を運び、一方的に時間を指定されて整理券を持たされ、自分の時間を半ば強制的に差し押さえられる必要性があるのかについて 納得が行かなかったのである。それゆえこのシンポジウムの記録に関して、その幽霊性をどのように推し量るよう求められているのかについて 私は意識せざるをえなかった。「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」がそうであるならば(実際には、シンポジウムのためにフォルマント兄弟に よって用意されたテキストによれば、カテゴリー・エラーは確信犯であったとのことなので、そうでもなかったのかも知れないが)、シンポジウム それ自体もまた「マルチメディア」作品ではないといいうる根拠はどこにあるのか。こちらは「幽霊」の「幽霊」で代補しうるものなのか。

「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」、予め撮影済みの映像と音声、つまりフォルマント兄弟によれば「幽霊」を再生する(そう、不意打ちは なく定められた時間に予定された通りに「幽霊」との邂逅がスケジュールされる)「作品」が、だがその場への立会いを要求したのに対し、 シンポジウムについては状況が異なるのか。だとしたら、その違いは一体どこにあるのか。皮肉にもこの比較においては、シンポジウムの方が 出来事の一回性を帯びていて、それゆえにそれを記録し、繰り返し再生可能にする「価値」を帯びているかにすら見える。実演が常に・ 既に消去されている複製芸術なのは寧ろ「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」の方であるのに、というわけだ。Neo都々逸の「実演」、 センダイドドンパ節の「実演」とはそもそも最初から水準がずれているのだ。例えばサントリーホールでのコンサートにおいて、 「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」のように予め撮影済みの映像と音声を上演することはどうなのか(多分、普通の「音楽」の 「ムラ」ではそれはコード違反になるのだろう)。それがマルチメディアの牙城たるICCの展示では許容されたとして、ではそのことが 「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」が提起する問題に対してどういう意義を持つのか、私には判然としないのだ。

だが、シンポジウムと「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」との比較に限定するならば、そもそも「作品性」の差異は明白ではないか、と 一般には言われもするだろうし、実を言えば私自身の基準でもあえて比較をすればそうなることを認めるのに吝かではないのだけれど、 それでも尚、2つの点でそうした基準の適用を少なくとも一旦は遮断することが求められていると私には感じられる。 即ち、一つには「フォルマント兄弟のプレゼンテーション道場」において実際に選出された作品のうち少なくとも1つは、そうした「作品性」への 予断を許さないものであったこと、もう一つには、既に触れたように、シンポジウムに先立ち準備されたフォルマント兄弟によるテキストによれば、 「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」もまた、カテゴリーエラーを起こすことを懼れずに、「もはや「作品」とは呼べないかもしれない「何か」を 展覧会という場で表現してみようと考え」て作成されたという経緯を持っているからである。そうであってみれば、ここで対象とする2つの「メディア」、 つまりプロジェクトの報告書とシンポジウムの録画によって可能になる「経験」もまた、読解でもなく、鑑賞でもなく、「装置の体験」という表現と して受容するべきではないか、少なくとも一度は問わなければ一貫性を欠くことになろう、というわけなのだ。


更に、私が今、ここで、遅ればせながら、別の場所にあってかつて起きたことに向き合うときに、3月11日の震災の経験が視界を大きく遮り、 変化させていることに留意したい。シンポジウムも展示会も、プロジェクトも3月11日に先行していて、報告書や録画の地平ではそれは起きていない。 だが私は、「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」を3月11日より前に経験し、記録して後、報告書や録画に向き合ったときには3月11日を 境に変わってしまった風景の中で、それらに相対していることを意識せざるを得ない。更には、これらより先にコメントをまとめた三輪さんの 「中部電力芸術宣言」を私は知っていることにも留意しておきたい。こうして書きながら私は、非可逆な相転移のあちらとこちらとの遠隔の通信を しているような感覚から逃れられない。

シンポジウムで三輪さんは、フォルマント兄弟にとっては映像やスピーカーのあちらは「あの世」なのだと述べている。その顰に倣うなら、「あの世」で三輪さんが そう言っていることを私は今、ここで知る。私はそれを実感として受け止めている一方で、「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」の体験を再吟味しつつ、 今一度、あの時スクリーンの向こう側(それもまた既にあの時点で「あの世」であった筈だ)からの呼びかけはどうだったろうかと考えている。その傍らで、 その後にまたもや遠くから届いた「永遠につづくことになっている電力供給と科学技術の進化を前提にして視聴覚装置と無邪気に戯れ続けていく以外に、 他のどんな可能性も見えてこない」という言葉(フェアであるためにここで、私は実は、シンポジウムの場に「現前」していなかったにも関わらず、事前に遠くから この言葉を受け取ったということを、従って3月11日の前と後と、この言葉には2度出会っていることを証言しよう。)の方は、一体どの世からの声だったの だろうとも思う。私はそれ以前にこの言葉に答えることができないまま、3月11日を迎え、ここでは詳しくは書かない理由で、その後も答えることを断念し、 そして今、こうしてそれに遥かに遅れて答えようとしている。この答えもまた「幽霊」の声でしかありえないのだ、と感じつつ。あるいは答えの一時的な断念、 延期もまた、行為遂行的な答であることを認めつつ。


率直に先に言ってしまおう。私のメディアに対する認識は3月11日からの1ヶ月の経験(その内容はここでは書かないが)で変わってしまい、 それに応じてパースペクティブも変容した。比喩ではなく、自分の中に形成されてきた適応地形がある断面でずれ、その結果として地すべりを起こし、罅割れ、 姿を変えた。その最大のものは、非常に平凡ではあるが、私はアーティストではないことの再認である。「メディア」に対しては対象を共有しているが、 「アート」に関しては私は「ムラ」の住人ではない。従って「ムラ」での出来事は殊更自分がコミットしようとしなければ、事実上何の影響も私は受けないのだ。 電力が絶たれた結果、メディアアートが不可能になっても、残念ながらそのことは私にとって切実な問題ではありえないのだということを思い知らされたのだ。 水につかって動かなくなったコンピュータ、不足する食料、電力供給の不安定さに怯えつつ、それゆえクリティカルな情報のやりとりが優先されるネットワーク。 そうした現実の只中で見る3月11日以前に記録された映像は、まるで「エデンの園」での出来事、現実に最早場を持ち得ない「幽霊」としてのユートピアでの 出来事の記録のようではないか。「永遠につづくことになっている電力供給と科学技術の進化を前提にして視聴覚装置と無邪気に戯れ続けていく以外に、 他のどんな可能性も見えてこない」という言葉は、まるで非現実の、仮構されたストーリーである「夢」の中で語られたかのようではないか。

ならば沈黙すれば良い、という声が私の内なる部屋に響き渡る。お前がいる場所はそこにはないのだから、立ち去るべきなのだ。お前は別の「ムラ」の 住人ではないか。否、そうであったとして、例えば「中部電力芸術宣言」は、こうした反応が押し売りと見做されることを承知の上で尚、自分の中に 他人事では済ませられないパースペクティブの重なりを認識させ、沈黙して通り過ぎることができなかった。寧ろこの変わり果てた地形の展望の下で、 「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」において意図され、提起されていることを認識しつつ、混乱(と私には映ったもの)のためにかえって隠蔽されて しまったかに見えたものを再考すべきではと感じられたのだ。だから以下のコメントは、いつか後でもう一度「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」に 辿り着くことを企図して書かれたものである。ただし辿り着いたそれは、3月11日以前に展示されたものと同じではないだろう。ありえたかもしれない 「お化け屋敷」、未だ現前したことのないそれに向けたものであることを確認しておきたい。

間接的に、幽霊的に、シンポジウムでの一部の紹介を更に録画記録というメディアを介して知りえた限りではあるけれど、選考委員が選んだ 「作品」について感じたことを以下に記しておくのも、従って、「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」という作品ならぬ何かを再考するにあたり、 手がかりになると思われたからに他ならない。「メディア」がそうであり、「アート」がそうであり、「メディアアート」がそうであるように、「幽霊」もまた、 それを主題的にシンポジウムが取り上げたわけではないが、そしてその場においてさえ使う人、受け止める人の文脈でその内包も外延もまちまちであったようだが、 一つだけ確かなことは「幽霊」ではないものはもしかしたら既にいないかも知れないと言い得る程に「幽霊」が跳梁跋扈していることだろう。 (だが曖昧なままにはすまい。「幽霊」ということばは多分「意識」ということばと同様、「スーツケース」のようなことばなのだろうが、それならば直ちに スーツケースの中身を取り出しつつ、問題を置き換えていくべきなのだろう。もし「われわれが皆幽霊なのだ」としたら、それは「何時から」なのか? 「われわれ」とは一体誰のことなのか?何によって「幽霊」であるのか?「幽霊」でなくなることは有り得るのか?etc.あるいはまた、「メディア」という ことばについてもまた同様に。)


(1)Potential of a computer as an instrumentに対する「「装置を使った」表現にも真っ向から取り組んでいる」、 「内側と外側がひっくりかえったような」という評言は非常に的確であると私にも思われる。 だが、そこで起きていることは、例えばプリペアド・ピアノ等の特殊奏法、楽器によるミュージック・コンクレートと対比してどうなのか。 あるいは楽器を破壊するパフォーマンスがかつてあったが、それと比べてみたらどうなのか。 楽器がコンピュータに変わっただけで批評性の形式的構造は同じであろう。出てくる音響は素材に応じて勿論異なるが、 起きていることに対する反応は大筋では同じである。勿論、技術的細部の差異に由来する差異を看過すべきではないが、 実現された結果を受け止めるだけの人の中には既視感を感じてしまう人がいるのではないだろうか。既聴感のもう一つの理由は、 これまた実現された結果としての「音響」にあるだろう。「装置を使った」表現に真っ向から取り組んでいる一方で、「音楽」への 取り組みの方はどうなのか。(もう一度ラッヘンマンを思い起こそう。あるいは手法は異なるが、結果として伝統的な音楽の構造とは 異なるものを提示することができているクセナキスや三輪眞弘の試みを思い起こそう。)この作品では演奏手順が事前に記譜された ものを「演奏」したとのことだが、事前に記譜されているかどうかは、評価のポイントである「内側と外側がひっくりかえったような」 装置を使った」表現という点からすれば、恐らく副次的な問題に過ぎないし、それは「作曲者=奏者」という条件下での伝統的な 楽器奏法を異化した作品の場合であっても(否、そうでない場合であっても)構造的には同じである。結局のところそれは事前に演奏に用いる楽器を調べた上で 構想をあたため、しかる後に楽器を用いて即興演奏する人間の振る舞いとどこが一体違うのか。私がそこに見出すのは、 最新の(?)メディアに対する人間の反応様式の変わり映えのしない単純さの方なのだが。「コンピュータが正しい状態で音を発して音楽を 作るという了解を超えている」という三輪さんの評言もまた、正しいだろうが、実はそれ以外の部分については見事なまでに「音楽作品」の カテゴリーに従順ではなかろうか。この作品の批評性は結局のところMax/MSPやSuperColliderのユーザーという範囲を超えることはなく、 その外から眺めれば、「音楽作品」が「メディア」に関わることでどのように変容するかといった問題点の遥か手前をしか照らし出さないかに見える。

(2)アンケート・アートを最近流行りのメディアであるTwitterに適用した「作品」は、日本語の品詞を音高に写像する等の 事前に定義された変換に基づき、入力された文字列をリアルタイムに「音楽」として「上演」するもの。ここでは単なる「組織された 音響」と「音楽」を区別するのは恐らくは変換規則で、しかも変換規則があることは条件ではなく前提に過ぎず、「音楽」はまだ先にあると 言うべきだろう。ある規則に基づいて発生するイベントを音響を組織化する規則に変換するという枠組みを用いた試みは 色々とあるだろうが、当然ここでの文脈では、やはり自然言語を音の組織に変換するという媒体の共通性も含めて、 三輪さんのSendMailが容易に想起される。メールを送る行為と「音の組織」の因果関係ははっきりしているが、目的論的にも同じものであるかどうか、 つまり作者が「音の組織」の素材として日本語の文字列を用いているのか、それともメール送付の「副作用」なのかについては (それを作品自体から判別できるかという判定問題自体、興味深いものだが)実はこれが「プレゼンテーション道場」への応募作であるという状況が フレームないし現象学的な意味での地平として決定している部分が大きいと私には感じられる。作者の存在と、作品の存在は保証済みというわけだ。 (これは後述する3つ目の「ワラウドン」の場合には更にエスカレートするかに見える。)

だが、選考の理由は実際には、これが「ムラ」の外の人間に対してもアピールする「ポップな」作品であるという点にあったらしい。 要するに作者の意図はともかく、そしてこれが別の状況下においても「作品」として通用するだろうということで、残念ながらそれが 何によるものなのかについての具体的な説明はなかったが、結果として得られる「音響の構成」が持つ効果が多少なりとも 評価に含まれている点が寧ろ異彩を放っているように感じられ、逆にこの場がおかれた状況の異様さが印象づけられるような気がした。

更にもう一点。プレゼンテーション自体が秀逸であったというコメントもあって、こちらは他の場所でもしばしば起きる、評価対象の逆転の問題に通じる。 例えばそれが研究なら、その価値は第一義的にはプレゼンテーションの巧拙により判断されるべきではない。だがここ(その名もずばり「プレゼンテーション」道場)では もしかしたら「作品」と「作品のプレゼンテーション」の境界はそれほど自明ではないのかも知れない。

例えば、価値の問題をおけば「プレゼンテーション」に終始する「メディアアート」なら容易に想像できる一方、 「プレゼンテーション」という側面を捨象した「メディアアート」は不可能なのだろうか。少なくとも限られた時間内で、定められた会場での「プレゼンテーション」が 困難な「作品」というのは有り得るだろう。そのとき評価されるのは、そうした困難を克服する「プレゼンテーション」の技術なのか、「作品」そのものなのか、 一体どちらなのだろうか。更にこれを伝統的な「作品」と「演奏」と対比させたら、この作品の選考理由はどのように位置づけられるだろうか(本当にここでは 「演奏」が不在と言えるだろうか)。そしてその選考基準において「メディア」はどう機能しているだろうか。

いずれにしても、少なくともこの作品は「プレゼンテーション」と「作品」との距離が大きくない(それどころか、ほとんど一致する)性質を有しているのは 間違いないだろうし、それが評価に繋がったことは確かだろう。しかもその距離の近さを媒介するのが、まさにここで選択された「メディア」とその 「メディア」の使い方における共通性の大きさにあることに留意したいのである。(「プレゼンテーション道場」の枠内の作品を比較の対象にしているのでは 大同小異になってしまうかも知れないので、「アート」の外に極端な対比例を求めれば、ここで「作品」に相当するものがリーマン予想の証明であるといったケースを 思い浮かべていただければよいだろう。ここでは「メディア」の使い方は、証明に対して基本的には無関係な筈だ。まあ四色問題みたいに「メディア」依存の 証明も最近はあるが、それでも「メディア」の使い方の共通性を「プレゼンテーション」に求めるのは一般には不可能だろう。)勿論このことは「作品」の価値とは 原理的には独立の問題と私は考えているが、評価にあたって実際にそれを分離するのはほとんど不可能であろう。注意すべきはここでいう近さは、 必ずしもプレゼンテーションの巧さやそつの無さを保証するものではないことで、逆にその近さを利用して、プレゼンテーションに意図的に不具合を仕込んでおくことや、 利用したわけではなくでも結果的に不具合がおきてしまい、だがそのことによって図らずも却って「作品」の本質が提示されるといった事態すら考えられる。

しかし「作品」のいわば「設計」にあたる、ある空間から音響の空間への変換部分の 評価はどのようにしてなされたのだろうか。一般論として、アルゴリズミックな手法の場合、伝統的な作曲技法(ここには例えば十二音技法も含めて差し支えない)と同様、 方法が質を担保することは無いと私は考えているが、ここでは状況は更に悪く、方法自体が質の担保を困難にしているように私には思えてならない。 私自身は、こうした手法を前提とする以上、結果として得られる音響に対しては懐疑的であり、しかもその音響の質についてある一定以上のものが 約束されないのだとしたら、「パフォーマンス」としての面白さが仮にあっても、「プレゼンテーション」が秀逸でも、作曲技法や「音楽作品」として 高く評価することはできないのではないかと思うのだが。結果として得られる「音響の構成」が持つ効果が評価に含まれていると上では書いたが、 こうして考えれば、その評価は結局のところ「プレゼンテーション」の評価に過ぎないのではないかという疑念につながり、「作品」と「作品のプレゼンテーション」の 境界、区別の問題に戻ってくることになる。一体(もし、ここにあるとすればだが)「音楽」はどこにあるのか。

そしてもう一度、「作品」と「作品のプレゼンテーション」の境界の問題がどう決着するにしても、ここで「音楽」としての「質」を決定するファクターは (運を天に任せるのでなければ)結局のところ手法そのものにあって、またしても「メディア」自体とは権利上は独立ではないだろうか。 もしそうだとしたら、このことは「メディアアート」としてのこの作品の評価にあたってどう考慮されるのだろうか。いや結果としての音響の質などどうでもいいのだ、 ということなのかも知れない。だがもしそうだとしたらそここそが「音楽」とは何か、「メディアアートにおける音楽とはなにか」を定義するポイントであると私には思えるのだが、 何故かこうした点については言及も議論もなされないようだ。もしかしたら私のような外部の人間に不可解なこうした点は、 「メディアアート」の世界では自明のことなのだろうか。それならそれでも結構だが、だとしたら今度はシンポジウムのタイトルである筈の 「メディアアートにおける音楽とはなにか」など、擬似問題に過ぎないことにはならないか?

(3)「装置」すら前提としない「メディアアート」という三輪眞弘さんのコメントが示すとおり、「ワラウドン」は一見したところ 「メディアアート」でも「音楽」でもない。わらびもちを賞味できることが作品を評価する際の重要な要件であるとするならば、 メディアを議論していながら、味覚や嗅覚のテレコミュニケーションと「実演」の関係を俎上に上げないのは不可解という他ない。 三輪さんはこの作品だけは選ばれないだろうと思ったとのことだが、皮肉にもその三輪さんだけが色々な意味で、 この作品を単なる「アート」ではなく、「メディアアート」と捉える立場にあるかのようだ。(実演を重視すること、メディアを 単なる装置として捉えるではなく、人間が埋め込まれた環境として、更には人間も含めたシステムとして捉えることに ついて一貫した態度表明をしているのは三輪さんだけなので。)序に言えば、 報告書によれば、選者は自ら「これはメディアアートではない」と述べているらしいが、だとしたら、フォルマント兄弟が このプロジェクトの背景にある問題意識の一つであるとした「メディアアート」の選考基準の問題に対して、 この選考がどのように位置づけられるのか、説明が欲しいところでもある。

もちろんこれに対し、ジャンルの境界を問うようなメタレベルの問題提起を孕む作品を評価するといった類の説明によって 済ますことは許されない。まずもってそうした立場は殊更「メディアアート」に限定されるものではないし、 報告やシンポジウムの論調からすれば、寧ろ「メディアアート」ではより一層、そうした立場は、寧ろ前提でしかなく、 だから結果を評価する基準にはなり得ないであろうから。言ってみれば 選考の際の足きりの基準にはなりえても、何を評価するかの基準にはなりえず、現実的な効用(売れるかどうかと おいしかどうかは、効用の観点からは極めて密接な関係にあるだろう)やら、その場限りの「面白さ」以外の何が あるのかは私には自明には見えない。

翻ってこのことは、「メディアアート」においてはやはり賭け金は「アート」の側にしか ないということを端的に物語るかのようだ。本当に(アートとしてのコンセプトや三輪さんのカバーストーリーの「夢」の ようなフィクションとしての設定でなく)わらびもちを広めることが上位にあるような活動が「アート」としてより優れているものと 評価されるのであれば、そこに賭けられた美学的・価値論的な賭け金は莫大なものではないのだろうか。 シンポジウムでの発言は、「こんなの驚くことでもなんでもないよ」といった感じである意味では余裕たっぷりに議論が 進んでいたが、それを見て、私はやはりそこに何とはなしの暗黙の「ムラ」の掟があるのでは、という感覚を拭いさることができない。 この論理の行き着く先は、「プレゼンテーション道場」への応募作「だから」、「メディアアート」である、というのを 無差別に保証する場が「メディアアート」であるという、些か極端な規定ではないのか。勿論、私にとっては他所事なので それで当事者がよければ最終的には別にどっちでもいいと言わざるを得ないのだが、一般にはこれは相当無責任な 状況、それこそ最終審級において仮象性を支えにできる(いや、意地悪く「逃避できる」と決め付けてみせるべきだろうか) 「アート」という場でなければ許されないような状況と見做されるのではなかろうか。 (3月11日後にこれを書いている私は、ふと原子炉から放出される放射線量の評価をめぐる議論を思い浮かべずには いられなかった。わらびもちはおいしかったらしいし、無害だから別に構わないということなのだろうか、とも感じた。 パフォーマンスのいわば「幽霊」を見ただけのおまえには味はわからないだろう、という点が実はポイントなのかとも思った。 だがそれを認めたとして、ではここで「メディア」は一体「作品」としてのパフォーマンスを「アート」として成立させるについて どのように機能しているのか、それがどのように評価される価値のシステムに基づいて選考が行われているのか、 やはり私にはわからない。)

否、もしそれがわらびもちを広めることが上位にあるような活動であるならば、端的にそれの価値の評価尺度は 「アート」の外にある筈である。わらびもち普及への貢献度を評価する基準はマーケティングの分野で幾らでも 設定可能であろう。それならそれできちんと数値目標を示し、それに対する達成の度合いを示して頂きたいものである。 営利企業における業績評価で普通に行なわれている程度の評価を最低限して頂いて、その上で「アート」との関係を 幾らでも問えばいいのだ。勿論、プレゼンテーションも、営業成績の報告として最低限必要な程度の体裁は整えて 頂かなくては「本来の活動」に差し支えるだろう。まあ「アート」もまた「商品」であろうし、そこでの価値がもしかしたら 「上位目標」に貢献するかも知れないので、「アート」の中での評価が全く無意味だとは言うまい。だが、本当に 普及が目的なら、「プレゼンテーション道場」にエントリするより他に、もっと有効な普及のための活動がありそうなものだが、 如何なものであろうか。審査する側も、上位目標がわかっているならそれなりの対応をすべきではないのか。 もしかしたらまだ誤解している人がいるといけないので念のために断っておくが、私はこれをイロニーとして書いている わけでも、注文に応じたフィクションとしての対応をしているのでもなく、本当に「アート」の「外側」から、かなりの怒りの気持ちを もってこの段落を書いているのだ。何度も言うが、私の今、ここは3月11日以降の世界である。品がない言い方で申し訳ないが、 率直に言えば「いい加減にして欲しい」というのが正直な気持ちである。3月11日以降の1ヶ月間、こうした文章を書く時間を 惜しんで取り組んだ事柄に賭けて、その取り組みの向こう側で、私など比較にならぬほどの価値ある仕事をした 人達のことを思いつつ、これを書いているのだ。だが、こうした発言を「幽霊」に向けても詮方ないことでもあるし、以下では ここでの本来の文脈に戻ることにしよう。

そして最後に、私は「音」がそこにあったのは否定しないが、端的に「音楽」は不在としか受け止められなかった。 美術評論家が選ぶのだからという理由づけは本末転倒で、それなら美術評論家を選考者に選ぶことの是非が 問題になるわけで、一体「音楽」の不在が意図されたことなのか、それとも意図を裏切る結果として受容すべきことなのか、 外から見ている私には判然としない。

要するに、報告書で三輪さんが書いているように、「「音楽」の意味がほぼ喪失し、いわゆるパフォーマンス作品、すなわち 何らかの形で構成された時間的持続のことを音楽と呼ぶことに応募者も選考委員も一様に同意していた」ということなのだろう。 続けて三輪さんがそう書いているように、「メディア・アートにおける"音楽"の現在」というテーマにも関わらず、音楽は既に不在で あって、メディアアートにおける音楽の定義ではなく、メディアアートそのものの定義が問題であって、問われているのは寧ろ 「装置」とは何かということなのだろう。「装置」を「装置」の組み合わせである「システム」に置換して敷衍する議論の道筋も、 その中に人間そのものが含まれるという視点も違和感のないものであるけれど、私としてはその上でもう一度「音楽」が三輪さんの 中でどうなったのかを聞いてみたいように感じられる。


メディアアートの定義にあって、「装置」とは、「メディア」とは何かが問題視されるという議論は、佐近田さんが「ポイント」として あげている<目的>と<手段>の転倒にうまく接続できるように見えるが、不思議なことに 佐近田さんの議論は「あらゆるものを機械に乗せる」その機械の「何」であるかにいかず、そうした欲望そのものをどう表現し、 どう対峙するかにずれてしまう。以下、上記のコメントを含む段落末までの佐近田さんの文章の論理の飛躍は私の理解を 超える(率直に言えば支離滅裂としか感じられない)ので、ここで対象とすることはしない。一言だけ付言すれば、そうした欲望は 「時代に共有されたもの」であり「自己に取り憑いた欲望」でもあると佐近田さんは述べるが、「あらゆるものを機械に乗せる」ことが 「時代に共有されたもの」というのは佐近田さんの議論の前提にある仮説に過ぎないし、そこでの自己が(独我論に纏わる レトリックよろしく)佐近田さんをはじめとする「メディアアート」のムラの外部にまで一般化できるかどうかは必ずしも自明ではなかろう。 それが「あなた」だけの、「あなたたち」だけの欲望ならば、その論理は「ムラ」の内部でしか有効ではないのだ。それでいて 「機械」の何であるかは未定義のまま放置されているわけだから、これは検証不可能という他ない。結局のところ一体、研究対象と 自己規定されている「メディアアートにおける機械の存在論」がどこにあるのか、と私としてはまたしても途方に暮れざるを得なかった。 それにしても主催者であるフォルマント兄弟の一方が、「音楽」をかくもあっさりと手放すのは驚きという他なく、これでは 「音楽」と「音響」の差異について、「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブであそこまで無頓着なのも仕方ないという気がする。

結局、「メディアアートにおける”音楽”の現在」というこのプロジェクト=事業のタイトルに掲げられた主題に対してはどうだったのか。 あるいはまたシンポジウムのタイトルである「メディアアートのおける音楽とはなにか」、更には英文タイトルには含まれる"definition"はどうだったのか。 私がこのプロジェクトの審査官であれば、当然この質問をするであろう。それに対する(仮でもいい、複数意見併記でもいいのだが)回答は シンポジウムでも、報告書でも明確には与えられていないように感じる。「メディアアートにおける”音楽”の現在」が実は不在であることを、 音楽はここでは「幽霊」であることを、選考された作品によって、議論のなりゆきによって問わず語りに提示したということなのだろうか。 別に苦言を呈する訳ではないけれど、私自身、ある省庁の外郭団体が助成する研究開発に携わり、丁度シンポジウムの日が審査の日で あった偶然もあり、自分に求められたものと比較して彼我の違いの大きさに釈然としないものを感じてしまう。もっともこの事業の最大の目的は、 (そう謳われているからには少なくとも文化庁側においては)メディア芸術人材育成の支援にあったわけで、この点については吉岡さんが周到にも 成果が得られたと明記されているのだから、それで良しとすべきなのだろう。


だが、それでもなお疑問は残る。もう一度、フォルマント兄弟がシンポジウム開催にあたり用意した文章に、あるいは三輪さんの報告書の 文章に戻ってみよう。そこにはメディアアートの評価基準の問題が切実な問題であったと記述されている。(もしこの視点がフォルマント兄弟名義の ものであるとしたら、佐近田さんの報告は私にとってはもう一つ不可解な部分を孕むことになるのだけれどそれは置いておこう。もしかしたら これは実は専ら三輪さんの側の問題意識なのかも知れないし。)三輪さんはこれに対して「どこまで迫れたかは今の時点でははっきり述べることは できない」と到達点に対する認識、どちらかといえばシビアな認識を述べている。実は、主従関係は異なるものの、私が携わっている分野でも人材育成や、 成果の評価はそれはそれで大きな問題であり、実は私も自分の専門領域での研究開発や実用システムの開発プロジェクトの企画・推進の責任者として、 パラレルな問題意識を抱いている。もっとも私は研究者ではないから、人材育成や、プロジェクトの成果の評価のものさしにおける優先度付けは自ずと 異なっているのだが。当事者達にしか理解できず、運用できない評価基準があること自体はどの分野でも同じことだが、説明責任は当事者達についてまわる。 極端な例を挙げれば、ノーベル賞物理学賞における南部博士の業績を考えてみればよいだろう。専門家でも10年経たないと意義が理解できない 程の先端性でも、その業績の凄味は私の様な外部の人間でもある程度実感できるし、そもそも専門家でも10年経たないと意義が理解できないというのが 既に評価基準として決定的である。もっともこれは応募作品の審査の基準には適用できないだろうが。

そしてここで、私はやはり賭け金は結局のところ「メディア」ではなく「アート」に賭けられているのではないかと感じられてならない。 美学の大学教授、作曲家、音楽家兼メディアアーティスト兼メディア理論研究者、学芸員、批評家、美術評論家。 メディア理論というのが何を指すのかは判然としないが、いずれにしても私のようなムラの外の人間にとって、彼我を 隔てるものは第一義的に「アート」、しかも広義の「技芸」を含むそれではなく(それなら技術者にとっても無縁ではない)、狭義の「芸術」である。 そして疑問というのは「メディア」を「アート」から分離して考えたときに、「メディア」は同じものでありうるかということだ。三輪さんが提起した評価基準の問題は 外から見れば、やはり「アート」の問題でしかあり得ない。もちろん「アート」を「メディア」から分離したら、という対称の問いが成り立って、そこでやはり 「アート」は同じものではないというのは(まさにそれが実質的な主題であったわけだし)推測されるが、そうだとしても、否、そうだとしたら尚更、「メディアアート」を 問いながら、「メディア」に特殊性を求めるだけではなく、価値そのものを丸投げするような論理は「アート」の自閉を示す徴候にしか感じられない。 そしてそうした自閉が可能なのは、仮象性を両刃の剣とし、現実に対する無力さと引き換えの「アート」の特権であるといった決め付けにどう対抗するのか。 電力供給不足に対して、「メディアアート」は自粛をもって応える以外の選択肢を持っているのか、事実問題としてだけでなく、権利問題としてどうなのか、 他人事ながら心配せずにはいられない。

三輪さんの「中部電力芸術宣言」が示しているように、電気がない世界でも「アート」は可能だろうが、「メディアアート」は不可能か、百歩譲っても 同じものではあり得ないだろう。(「電力芸術」=「メディアアート」という想定は「ワラウドン」には適用されないので、「ワラウドン」だけは頑健である という反論が考えられるが、そのとき「ワラウドン」が依然として「メディアアートでないもの」でありうるのか、更には、そもそも「アート」であり続けることが できるのかが問われているのだ、勿論私はそれについては極めて懐疑的である。)その時にパフォーマンス道場での、あるいはシンポジウムでの議論は 同じものであり得るのだろうか。これは今や条件法での問いではない。3月11日の後で、どこかでそうであったように、ここでもまた「想定外」という「ムラ」の発言は御免蒙りたいし、 それが三輪さんの立場でないことは今や明らかである。(更に言えば、三輪さんに関しては、電力供給不足に対して自粛をもって応える以外の選択肢を持っていること、 事実問題としても、権利問題としてもそうであることは疑いない。)またもや私自身が自分のプロジェクトの成果を3月11日以降の状況に突きつけるという剣呑な作業を引き受けざるを 得なかったからというわけではないが、今、こうして「フォルマント兄弟の"お化け屋敷"」とそれを囲繞する活動を振り返ってみて、私は疑念を振り払うことができない。

もう一度、最後に繰り返すが、「フォルマント兄弟の"お化け屋敷"」で提起されている問題は、それを体験した折に否定的な印象を抱いた私にとっても 看過出来ない側面を孕んでいる。そうでなければあっさり無視すれば良く、わざわざ作者に不愉快な思いをさせることなどしない方が余程気楽であろう。 だが「作曲と思索」がフォルマント兄弟の自己規定なのだから、哲学的・技術的な側面を引き受けることを謳っているのだから、「声」を機軸にしつつ、 だが最後には「歌」に辿り着くことを目的としているのであれば、3月11日を経験した後に改めて、今、ここで「幽霊」がどうなっているのかを答えて欲しいと思う。更にまた「音楽」がどうなって いるかについて。フォルマント兄弟の署名の下に。未だ現前しない「幽霊」、ありうべき「お化け屋敷」について再び。必ずや「音楽」とともに。

(2011.5.1未定稿・暫定公開、5.2~4加筆, 2024.6.30 noteにて公開)

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