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地球外からの「極東の架空の島」の眺望:三輪さんと吉岡さんの「ありえたかもしれない<音楽>」への応答の試み

吉岡洋「ありえたかもしれない、<音楽>」
詩と音楽のための「洪水」第3号 特集「三輪眞弘の方法」(2009, 洪水企画)所収

岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋 「討論:いま「癒し」を超える芸術は可能か」
季刊「アルテス」Vol.01 特集「3.11と音楽」(2011, アルテスパブリッシング)所収


はじめに

三輪さんの音楽の特集である「洪水」誌第3号には、「ありえたかもしれない、<音楽>」というタイトルの 吉岡さんの文章が収められている。東日本大震災後に開催されたシンポジウム「3.11 芸術の運命」での 鼎談(季刊「アルテス」Vol.1「特集 3.11と音楽」所収)の席上、岡田暁生さんが「何万年も後、人類滅亡後の 地球において宇宙人が、人類が昔「音楽」とよんでいたものを発見するという、ちょっと突拍子もないような視点から、 三輪さんの音楽を語っ」たものとして言及するのに応じて吉岡さんご自身が要約した言葉を引けば、 「1977年に打ち上げられた木星探査機ボイジャー一号には、地球上のさまざまな「音楽」を記録した ディスクが載せられていたのですが、それが何万年後かに宇宙人によって発見される、という設定で、 「音楽」の未来について考えてみたもの」とのことである。このやりとりは鼎談の一番最後の部分にあたり、 その後の岡田さんによるまとめと、会場からの質疑応答においては、特に主題的に取り上げられることが なかったけれども、質疑応答の途上での三輪さんが、「他の動物や植物といっしょに地球を共有して、 なんとかうまく生きていこうじゃないか」というときの芸術の意味は、「地球生物としての摂理みたいな ものを確認するための技法」「知恵」という点にあるという発言と、その地平を共有しているし、吉岡さん自身の 「原子炉のようなテクノロジーをとおして、人類は宇宙の姿に直面するようになった」という発言、 「人類は宇宙の主人なんかじゃない、重要な存在ですらない」という発言に通じ、それに対する三輪さんの 「人間中心の視点からはもはやこの世界は語りえない」という応答と響き合う。全体を通してみると、こうした 視点は、シンポジウムにおける質疑の流れからはやや浮いていて未消化な感じを否めないのだが、私見によれば、 吉岡さんの三輪さんの音楽に対するこのような視点は、三輪さんの「音楽」に対する姿勢を理解し、そこから 何かを引き出すにあたって極めて重要な点であり、主題的に扱われなかったことが惜しまれる。

だが一方でそうした視点が、三輪さんの活動を振返ってみたときに、震災後に獲得された新たな視点で あるわけではないことに留意する必要があるだろう。「中部電力芸術宣言」が震災に先立って構想され、 執筆されていたこともその傍証になるだろうが、それ以上に、アルゴリズミック・コンポジションを中核に据え、 だがそれを人間とコンピュータのインタラクションの場に持ち込むことから出発し、「極東の架空の島の唄」から 「逆シミュレーション音楽」と展開する三輪さんの活動の軌跡そのものが、「ありえたかもしれない音楽」の、 つまり、ポテンシャルとしての音楽を追求するプロセスそのものであったと言いうるだろうと思う。そうした意味で、 吉岡さんの文章のタイトルである「ありえたかもしれない、<音楽>」は、三輪さんの活動を要約するものとして 極めて正確だし、その文章の着想もまた、三輪さんの活動の持つポテンシャリティを把握したものであると 思われる。そしてそのことは、最近の三輪さんの講演「アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性」で 三輪さん自身によって確認されてもいる。

シンポジウム「3.11 芸術の運命」を傍聴することができなかった私は、その様子を遅ればせに「アルテス」誌を 入手することによって知ることができたのだったが、議論の積み重ねの細部において微妙な違和感を感じつつも、 マクロにみて、「芸術の運命」を考えるにあたり「人間」概念の側の問い直しが提起されていることに強い共感を 覚えた。と同時に、特に「永遠の光…」の初演以降、三輪さんの作品に、いわば「突きつけられた」ようなかたちになった 問題に対して自分なりに受け止めて考えていく際の道筋として、「極東の架空の島」の彼方としての地球以外の天体、 だが、(吉岡さんのように数万年後の、地球から数光年離れた場所にいる宇宙人をフレームとするのは、私個人の 想像力の手に余るので、)その中でも潜在的に「生命」の存在の可能性が取りざたされ、将来的な有人探査の対象であり、 (是非はおくとして)植民やテラフォーミング等の対象と見做されている幾つかの惑星・衛星を考えることを通じて、 「大地」ではない「地球」(西欧の言語ではどちらもEarth/Erde/Terreなのだが)を定位し、それとの関係において 人間を考えてみるという作業を自分がしてきたことに不思議な暗合を感じずにはいられなかった。


因みに、宇宙からの視点、展望から人間の営みである音楽を眺めるということは先例がないわけではない。 管見でも、例えばマーラーの音楽に関して繰り返しそうしたアプローチが行われている事実があり、 そのうちの一つは、シンポジウムの質疑応答において三輪さんが言及している9.11の折の発言内容により 物議をかもしたシュトックハウゼンが、アンリ・ルイ・ド・ラグランジュのマーラー伝の書評において、 「もしある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査しようと思うなら、 マーラーの音楽を素通りするわけにはいかないだろう。」 (酒田健一訳)と述べているものである。 この発言は、19世紀末の西欧の音楽に関して言われたものとしては「突拍子もないような視点」の ように感じられるかも知れないが、最大限批判的に捉えたとしても、こうした視点を採ることによって「音楽」に 関して主張される普遍性の危うさを逆説的に浮かび上がらせているということはできるだろう。結局のところ、 幾ら背伸びをしたところで「音楽」は「人間」を超えることはないという点においてシュトックハウゼンの 発言は幾つかの点で示唆的である。

一つには生物の「高等」さの尺度が「地球人」におかれていていること。 無いものねだりとは言いながら、例えばスタニスワフ・レムが描き出したようにそもそも地球上の生物とは全く異なる物理化学的・ 生物学的基盤の上に「知性」(正確には「知的」に見えるもの)が備わっていることだって大いにありうるわけだ。 そうであってみれば、そもそも「音楽」というのが件の高等生物にとっては全く理解しがたいもの、 何のために存在するものであるかすら分からない音響だということも考えられるし、人間と同じ周波数帯の聴覚を 備えていることを期待すべきではないかも知れない。シュトックハウゼンが考えていることがあまりに「人間」的なものを自明なものと前提した、 随分とムシの良い人間中心主義なのは明らかなのだが、彼の「音楽」が暗黙の裡に前提としているものはそれだけではない。 彼の発言の意図が別にあることは承知で言えば、もちろん「地球人」をヨーロッパのある時期の、 しかもかなり特殊な音楽、たった一人の人間が書いた音楽で代表させることの無謀さは明らかで、 そこに西欧の文化帝国主義の無邪気な顕れを見出して呆れる人がいても不思議はない。

勿論シュトックハウゼンは、一方では「人間」が時代とともに変容するものであることに対する認識はあって、 「その音楽は、人類が人間を個々の部分に分解し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと 再合成しはじめようとするまえの、古い、全的な、《一個体》としての人間による最後の音楽である。」 と述べてはいるが、寧ろジュリアン・ジェインズが構想したような時間軸での意識の歴史のようなパースペクティブこそ 相応しい文脈にも関わらず、こちらは今度はあまりに狭い文脈の議論に飛躍してしまっている。 恐らくこの発言で想定されているのは、彼の周辺の「現代音楽」から眺めた展望に過ぎない。結局、マーラーの音楽は、 歴史的・文化的に極めて限定された「人間」 (その中には勿論、シュトックハウゼンも含まれるわけだ) のためのものに過ぎないということが露呈されているようだ。

かくして異文化理解のようなレベルで議論している分には成立するかに見える普遍性も、一歩外に踏み出せば色褪せてしまう ということが、このような「突拍子もないような視点」から浮かび上がってくる。別の星に住む高等生物を持ち出すまでもなく、 人工知能研究以後におけるロボットを考えてもいいし、その認知能力が明らかになりつつある別の生物、 例えばオウムやインコ、あるいはイルカやクジラを考えても構わない。元々の文脈の出発点であったマーラーの音楽からは 随分遠くに来てしまったように見えるかも知れないが、それはマーラーに限らず、一般に音楽を語る文脈の側が自分の都合の良い 視界狭窄に陥っているからであって、ここでは更に1世紀が経過した後の三輪さんの「音楽」が問題になっているのであれば、 シュトックハウゼンの発言を詩的な比喩か修辞のように、あるいは芸術家の誇大妄想として受け流すのではなく、 逆にその不十分さを補って、もっと先に推し進めていくことによって限界を認識することによってこそ「音楽」に関する 今日的な射程は見えてくるのではないか。

意識のあり方とて歴史的に規定され、その意識がそこに埋め込まれている社会的文脈との相互作用によって 変容していくものであるとすれば、遠い将来のある時点でジュリアン・ジェインズがホメロスの時代の 意識の様態を探ったのとパラレルな探査がマーラーの音楽を、三輪さんの音楽を素材にして行われたりするのかも知れない。 シュトックハウゼンのように宇宙人を持ち出すまでもなく、そもそも「人間」というのも一つの概念であり、 時代とともに移ろい、変化していくものなのだから、意識の考古学の如きものを考える方が遥かに興味深いという 見方もあるだろう。否、そうしたシュトックハウゼンのマーラー認識そのものが、例えばアドルノがマーラー論において「大地の歌」に 関連して宇宙飛行士が宇宙から眺めた球体としての地球を持ち出した以下の発言とともに、 ある時代の認識の様態を端的に象徴するものとして分析の対象になっても不思議はなかろう。

「大地とは、この作品にとっては森羅万象ではなく、五十年後に広大なる高度にまで飛び出す ことになる人間の経験がはじめて手にするようなもの、すなわち星なのである。地球を離れようとする音楽の まなざしには、この間に宇宙からすでに写真に撮られたように、地球は一目で見渡せる円い球と見える。 それは創造の中心ではなく、ちっぽけなもので、はかないものと見えるのである。こうした経験には、人間 よりも幸せな生物が住んでいるかもしれない他の惑星へのメランコリックな希望がともにある。けれども、 遠くへと去っていった地球には、かつて星たちが約束していた希望は失われている。地球は虚無の銀河系の中 へと没滅してゆく。そこでは美は、死にゆく眼が果てしなき空間の雪塊のもとに凍りつくまでその眼を満たしている ところの、過ぎ去った希望の反映としてそこにある。そうした美に魅了される瞬間は、魔法を解かれた自然への 凋落に対して大胆にも身を張って持ちこたえようとする。どんな形而上学ももはや可能ではないということが、 最後の形而上学となる。」(龍村あや子訳)

勿論、同時代の音楽の営みに対して後の時代がどのような視点を持ちうるのかを知る術はないし、 ある時代に生きるという制約に由来する認識の檻から逃れることなど出来はしないのだが、それでもなお、 三輪さんの活動のラディカルな姿勢に貫かれたパースペクティブの広大さを思えば、吉岡さんの視点が 「突拍子もないような視点」とは私には全く感じられない。その一方で私個人の志向として、そうした視点を共有しつつ、 だがあたう限り具体的な仕方で考えていくことで、自分自身の想像力の貧しさに由来する限界を出来るだけ 向こうに押しやる必要を感じている。アドルノの視点はマーラーの音楽の元々の文脈からすれば「突拍子もないような視点」 ということになるのだろうが、更に50年後の時代に生きている人間にとって、それは珍説として脇に押しやるのではなく、 寧ろその視点を今、ここの展望に応じて徹底させることによって乗り越えるべきなのであって、そうしたことが行われないので あれば100年も前の異郷の音楽を聴く意味などありはすまい。ましてや三輪さんの活動に応答するのであれば、 旧態依然の「音楽」観、「人間」観をもって、判断する愚は避けなければならないだろう。勿論、そのために必要なのは 地球外からの展望に留まらないのだが、ここでは話を限定して、現時点での「大地=地上=地球」の展望の変容を この半世紀の間に急激に進展した惑星科学の知見に基づき整理することにしたい。

勿論その作業が完了した訳ではなく、例によって時間不足によって中断し、いくばくかの覚えを認めるに 留まっているのだが、私なりに生物としての「人間」の「限界」を思考する場として相応しいものと思われた火星・ タイタン・エウロパといった天体についての覚書きをここで一旦公開することによって、上記のような立場への 私なりの共感の表明をし、かつ共振、共鳴が偶然にも生じていた事実の証言としたい。

1.火星

火星は実在の惑星であり、想像上の架空のものではない。だが、その実在は永らく地球の地表からの、 地球の大気を通しての観察に基づくものでしかなく、望遠鏡による観測が行われるようになってからも、 却って放恣な空想の対象であり続けた。ローウェルの「運河」がウェルズの火星人を産み出し、更には エドガー・ライス・バローズの、実際には火星とは全く無縁の御伽噺を呼び起したのは19世紀末から 20世紀前半にかけてであり、ほんの1世紀前までの「火星」は寧ろ空想の産物であった。勿論それは 火星に限った話ではなく、火星の特異性は寧ろ、その後の火星像の急激な変化、その「実在」のあり方の 大きな変容にあり、それはより早く詳細な観察が行われ、唯一人間が実際に到達した地球外天体である月に ひけをとるものではない。否、一旦到達すると寧ろ急激に関心が低下してしまった感のある月と比べてもそうだし、 火星と同様、20世紀前半まで放恣な空想の対象であった金星が、探査のごく初期の段階で得られたデータに 基づき急激に関心の対象から外れていったのに比べ、火星は持続的に興味の対象であり続け、 恐らく今後もそうであり続けるであろう点こそが火星の特異性なのだ。つまり想像力を掻き立てる豊饒なカオスの縁に 留まり続ける軌道を描く対象なのである。

火星を舞台とした小説は、その小説が書かれた時代や文化的な文脈に拘束されており、かつまた、そこに含まれる虚構も含め、 書かれた時代における火星に対する知識の制約を受けている。 火星探査の進展により、新たな知識が獲得され、仮説が構築されること自体が火星を舞台とした小説が執筆される動機づけとなっているし、 火星探査自体が小説の題材となっている。その一方で、あえて既にその時点では否定された過去の火星像をあえて取り上げるような ケースもあるだろう。

火星を舞台とした小説を読む立場からの展望においても、過去の作品においては、その作品の背景となっている火星に関する知識が、 程度の差はあれ現時点では訂正を要するものであることがほとんどであるが、それと作品の価値は別のものでありえるだろう。私見では、20世紀前半までの ほぼ単なる想像の産物であると言って良い火星像に基づく作品は、いまや「火星」という固有名ではない別の何かを指示するものと読み替え なければ受容が困難(逆に、そうしても作品の読み方への影響がほとんどないの)だが、20世紀後半になると、マリナー計画に先行する作品でも幾つかのものは、 今日の火星像を前提としてなお、火星を舞台としていると言いうるような要素を含んでいると感じられる。いわばそこにおけるヴァーチャリティが、 知識の細部の不正確さにも関わらず、時代を超えたポテンシャルを備えているようなのだ。

従って、火星を題材にした作品にいわば映り込んだ火星像の反映を書き留めて、若干の整理を行い、それをもって火星の「ヴァーチャル性」の 具体的な様相を把握するための題材を用意することは興味深い作業だろう。作者が執筆時点で火星に 関する最新の知識をどこまで知っていたかを検証するのは、少なくとも今の私にとっては困難であるが、そうした事実問題はここでは相対的な 意義しか持たない。その一方で、例えばウェルズの「宇宙戦争」やエドガー・ライス・バロウズのいわゆる「火星シリーズ」には、それが火星を 題材にしているという事実よりも寧ろ、当時の火星像に基づき、火星なり火星人なりを描くことにより、意図的であるかどうかを問わずに 書き留められたものがあるのは確かであるが、ここではそこには関心をおかない。現実にはその境界を画定することなど厳密には不可能である ことを認めた上で、ここではあくまでも「実在」の火星を題材とし、その題材が作品にとって他の固有名に置換不可能な質を担っている作品に 限定することにしたい。何よりもそうした境界画定は、現時点での私自身の火星についての知識とそれに基づく火星像の制限下にあることは確かであり、 従ってそれは、放恣な想像でもなく、だが事実とは異なる虚構が持つポテンシャルの由来を検討し、「ヴァーチャル」とは何かを考えるための 題材の一つと見做すことができ、「想像力」が生産的でありうるためにそれが相空間に描く軌道が持っていなければならない条件を考える 手がかりとなることが意図されているのである。

そういう意味で特に興味深いのが、まずはマリナー計画に先立って書かれたブラッドベリの「火星年代記」とフィリップ・K・ディックの2つの火星を 舞台にした作品で、「火星年代記」と「火星のタイム・スリップ」ではいわゆる火星人が登場するし、「パーマー・エルドリッチの3つの聖痕」でも 植民先としての火星にもともと棲んでいた生物が登場する。それらはその後明らかになった「現実」の火星とは一見したところかけ離れたものなのだが、 不思議なことにいずれも現時点で読んでも違和感は感じられない。それはマリナー以前の火星像の終着点というわけでもなく、寧ろどこかで その後明らかになった火星が呼び起す心象風景を予見しているかのようなのだ。光瀬龍の宇宙年代記における火星の存在感は非常に大きいが、 マリナー以後、バイキング以前の情報に基づいて書かれたそれは、ディティールにおける「現実」との無視できない乖離と、何より既に過去に 滅亡したとされる火星人やその遺構といった道具立てにも関わらず、今なお不思議なリアリティーを喪っていないように思われる。

そして現時点で獲得されている火星についての情報をいわば「所与」とした作品の中では、スタンリー・ロビンソンの作品における火星の 描写のリアリティが何といっても群を抜いている。こちらはこちらで将来構想として具体的に検討されている火星植民やテラフォーミングが 火星にもたらす変化や火星で生まれ育った世代の描写など、未来についての空想のイメージにも事欠かないのだが、それらが恣意的に なることなく、現時点で火星の占める特異な地位のもたらす科学的な裏づけをもった膨大な情報に裏打ちされた具体性を備えている点が 印象的である。


火星に対する認識が決定的に変化する転換点は、20世紀中葉のマリナー計画の成功がもたらした。 未だに人間が直接訪れることはできないが、その後のヴァイキング計画、20世紀末から21世紀初頭にかけて 再開された火星探査の成果により火星についての知識は増大しており、これまでも以前の仮定のあるものを誤りとして訂正してきたし、 今後もその作業は絶え間なく行われるであろう。そしてそうした知識の増大は、そこを人間が直接訪れることによってではなく、 絶え間ない技術の向上による、人間の知覚の大幅な拡張によるものである点は興味深い。勿論、同じ技術が、一方では 地球そのものの観測に用いられ、他方では火星以外の天体に対しても適用されているのだが、現時点での火星の特異性は、 火星の上空を周回するオービターや火星の地表に降り立つランダー、更には人間の代わりに自律的に火星の地表を動き回り、 風景を撮影し、試料を採集し分析するローバーといった多様な手段によって膨大な情報が蒐集されている点にあるだろう。 そしてそうした手段の拡大の方向は、丁度、地球の場合の逆の順序を辿っていることにも留意しよう。すなわち地球にあっては ようやく20世紀中葉に可能になった、地球を宇宙空間から眺める視点が、火星においてはまずマリナー計画により獲得された。 そしてヴァイキング計画により地上からの視点が獲得され、未知の土地の定点観測が行われ、更に20世紀末から21世紀にかけて 送り込まれたローバーがその土地を動き回ることで、多少なりとも風景を馴染み深いものにした。

火星の探査が人間の想像力に対してもたらす影響は計り知れないものがある。それを思いつくままに挙げてみると、まずは何より 地球外生命の可能性がある。それは幾つ目かの「地球中心主義」からの「コペルニクス的転回」であろう。生命の定義自体にも関わるが、 火星については生命の定義について、地球のそれを範例とした見方ができそうなことがわかってきた。代謝と複製、膜の存在といった 部分は勿論、素材となる物質についても地球と共通のものを想定することができるのだ。火星もまた地球と同様、いわゆる「カオスの縁」の 少なくとも近傍には位置していることが確実なのである。
その一方で探査に用いられる技術もまた、人間の想像力の限界への挑戦を突きつけるものである。何しろ地球上とは全く異なった 未知の環境、しかも地球から遠く離れた場所で用いられるのである。ランダーの着陸に用いられた一見したところ奇抜なアイデア、ローバーに用いられる 自律制御技術、カメラなどの各種の観測機器に用いられる様々な技術もそうだし、未知の環境に対する頑健性を重視し、枯れた技術を 用いることがしばしば行われる設計方針も興味深い。研究開発プロジェクトそのものも極めて興味深いし、残念ながら少なくない失敗例についても 学ぶべき点が多く、興味深い。

そしてそうした技術がもたらす風景の地球のそれとの共通性と差異の微妙なあり方は、様々な点で、自明性が括弧入れされるもう一つの「現実」を 提示する。オービター、ランダーとローバーのそれぞれの視線の差異もまた興味深い。オービターは地図作成を行う。希薄とはいえ大気がある場合、 近くからでなければ地表の様子はわからない。望遠鏡による観測がどんなに大きな恣意をもたらし、どんなに放恣な空想の淵源になったかは「運河」に まつわる騒動が示している通りである。その一方でパノラマ、空中写真というのは、飛行機が発明され、空からの視点が確保されるまでは人間が 持つことができなかった視点でもある。逆にランダーとローバーは視線の高さが現実感をもたらす。あたかも人間がその場で見たかのような風景を機械を 媒介にして見ることができるのだ。そしてローバーは更に視線の変更を可能にする。固定された視点ではなく、歩き回ることによる視点の変更が風景を 具体的に構成していくのだ。更には自分の足跡を撮影したりすることができ、自らの時間の痕跡を撮影することで、風景に時間と空間のずれを刻印することも 可能となる。

その上で更に、地球と似ていながら異なっている火星の風景自体が想像力を刺激する。恣意的な空想の産物に過ぎない運河や人面岩の一方で、 大気の存在による空の色、砂漠、火山、峡谷、河床のような地形、日没時の空の色の変化、地軸の傾きがもたらす季節の存在、砂嵐、雲や霜などの 気象といった、地球の風景とあるレベルまでの類比が成り立ち、だが、あるところから先は異なった、それゆえにしばしば仮説の領域に踏み込む風景は 紛うことなき現実として存在する。例えば人間が訪れた点では決定的なポジションを占める月に比べても、人跡未踏でありつつも、無人探査によって 垣間見ることのできるその風景の何と具体的で、リアリティに富んでいることか。火星は人間のアナロジーが通用しない全く異質なものを提示しはしない。 火星はアナロジーが成立する想像力の及ぶぎりぎりの縁を示しているかのようだ。それはいわば「ありえたかもしれない」風景、実在でありながら尚、 地球に居る人間にとっては「架空の」「想像上の」風景なのだ。

そうした火星に対する認識の特殊性は、火星と地球の微妙な距離感による部分が大きいだろう。ホーマン遷移軌道を 辿って火星に辿り着くのには1年弱の時間が必要であるが、それは人間の個体としての寿命のスケールを逸脱することはない。 2年くらいの公転周期、1日をやや上回る自転周期も、地球上と同じスケールの暦を可能にする。地表の重力は長期の 滞在による人体への影響を無視できないとはいえ人間を全く拒絶するものではないし、希薄で成分を大きく異にするため 人間が直接触れることができない大気は、磁場がないために太陽風に直接さらされる地表の放射線量とともに人間の 居住を拒みはするものの地球上と同じタイプの生命の可能性を全く否定するほど異質なものではない。 地表の多様性に富んだ地形もしばしば地球上のそれとのアナロジーが可能のようだ。何よりもローバーが撮影した火星の 地表の風景は、地球においては極限的な環境のわずかばかり外側に微妙に位置づけられるかのようで、人間の想像力を 受け付けないほど異質でもないが、かといって安易な類推を許さない距離を備えているが故に、様々な意味合いで人間の 想像力にとって豊饒な辺縁、境界領域なのであろう。


火星が他の天体に比べて特に興味深い点は、まずは継続的な探査が行われており、恐らくは今後も継続されると予想されることから、 その都度の時点での火星像の更新・修正もまた、少なくとも約半世紀に亙りこれまで継続的に為されてきたし、 今後も為されていくことが予想されるという点で際立った天体であることである。更に未だに地球外生命の存在の可能性がある天体であり、 そこへの移住、植民、ひいてはテラフォーミングの可能性が具体的に検討されている天体である点、つまり地球とは異なるけれども 全く疎遠でもなく、いわば「代補」たりうる存在であると見做され続けている点である。一方で(テラフォーミングの結果は差し当たり排除して) 現時点での火星は、そのままでは人間が生きることができない環境であることを考えれば、たとえ火星に人間が到達したとしても、 地球とは異なって、あくまでも宇宙服の内側から、いわば間接的に接することしかできない他性を備えた存在であることにも留意すべきで あるとはいうものの、金星や水星、木星は探査の結果、生命の存在や人間の居住可能性という点での更なる探求の対象としての優先度は大きく 下がってしまったし、唯一人間が行ったことのある地球外天体であり、今後更に有人探査が行われる可能性の高い天体である月も、 その目的は資源開発や地球外の活動の拠点としての位置づけであり、「代補」としての性格は希薄であると考えられる。

だが興味の理由はそれだけではない。現時点の状況が、無人のオービター、ランダー、ローバーにより何度となく訪問され、 繰り返し写真撮影されていて、あたかも火星を見たかのような感覚に囚われる程度にはリアリティを帯びていながら、 まだ有人探査は行われておらず、従って、認識における身体性の欠如はしばらく続くであろうこと、つまり、さしあたって火星は 未だに(実在の存在でありつつも)、知識内容においても、知覚の様態においてもヴァーチャルな存在であることであろう。

地球でも、例えば南極や深海底などについては、間接的に接することしかできない他性を備えた環境という点では 火星と同じと言えるだろうが、こうした事柄においては結局のところ程度の問題を無視することはできない。 例えば、地球外で生命が存在しうる天体としては、太陽系内に限定しても火星以外に、タイタンやエウロパ、 更にはエンケラドス、ケレスなどが候補として考えられるだろう。だが現時点の今後の探査計画を参照する限りでは、 21世紀の前半に有人探査が行われる可能性の点で火星は例外的な地位を占めていると思われる。 私はマリナー計画の時期に生まれ、子供の頃にヴァイキング計画の成功を経験し、そして近年のローバーやオービターによる 探査の成功にも立ち会い、更に可能性としては生命の存在の確認や有人探査の成功にも立ち会えるかも知れないという とてつもない幸運な世代に生を享けているのだ。

その一方で火星ですら、有人探査の実施は(少なくとも現時点での計画では)まだ先の話であり、私が生きている間に 生命の存在についての結論が出るかどうか、人間が火星に到達することに成功した瞬間に立ち会えるかどうかは実際には 予断を許さない。否、火星探査の歴史を振り返れば、数多くの失敗もさることながら、繰り返し長期に亙る停滞を余儀なく されていて、例えばアポロ計画の時期に思い描かれた火星への到達時期は何度も先延ばしにされてきたことを思えば、 今後も再びそうした停滞の時期が訪れないとも限らない。そしてその結果、火星が「代補」たることを確認することは叶わない かも知れないのだ。そういう意味では火星が「代補」であるということ自体が未だヴァーチャルなものに留まり続けているとも 言えるだろう。

いずれにしても火星は、これまでもそうであったようにこれからも、人間の想像力の限界に挑むことにより、それを拡張し続け、 一層豊饒なものにしていくという点で際立って刺激的な存在であり続けることだろう。それはカオスの縁の遍歴であることを 約束されている稀有な対象なのだ。


2.タイタン

タイタンは現実の天体で、土星の衛星であるにも関わらず、そのあり方は非常に特殊で興味深いものに思われる。それは厚い大気のせいで その名の示す通り、太陽系最大の衛星と見做されてきた。ガニメデの方が僅かに大きいことがわかったのはそんなに昔のことではない。 厚い大気は軌道を横切るように軌道設計された初期の探査機からの探査を阻み、その地表の姿は21世紀初頭のカッシーニ・ホイヘンス・ ミッションが成功するまで未知のままであったのだ。(ほとんど話題になることもなく、それ自体、驚くべきことに感じられてならないのだが、) ホイヘンスの着陸に巡り合わせたこと、そしてそれにより人類史上初めてタイタンの地表の風景を見ることができ、更にはタイタンの地表を吹き抜ける 風の音を聴くことができたことは、バイキングが火星に着陸したことに巡り合わせたことと並んで、この時代に偶々生をうけたことによる 僥倖と言えると私は思っている。

タイタンが発見されたのは1655年にクリスティアン・ホイヘンスの望遠鏡を用いた観測によってだったから、有史以前から知られていた惑星や 地球の月と異なって、テクノロジーの発達による観測器具の発展がその発見の前提となっている点にまずは留意すべきだろう。タイタンに 大気があることは、いわゆる宇宙探査が始まる前の20世紀初頭には予測されていた(1907年のジョゼ・コマス・ソラの観測記録が 確認できるもっとも古いもののようだ)。だが大気の存在自体は逆に他の衛星についても想定されていたから、タイタンがその点で実は 極めて特異な存在であるということが明らかになったのはそんなに昔のことではない。しかも今や、寧ろその大きさだけから考えればタイタンがかくも厚い大気を 持っていること自体の方が謎であり、その理由の解明は未だ開かれた問題のままなのである。

タイタンの探査は1980年のボイジャー1号の接近をもって嚆矢とする。それに先立つ1979年のパイオニア11号は土星系を訪れた最初の 無人探査機だが、タイタンについては大した知見をもたらさなかった。ボイジャー1号はといえば、それはもともとタイタンの探査を目的とした 軌道が選択されたという点で、タイタンの探査を目的とした最初の探査機と言って良かったが、タイタンの厚い大気の下にあるものを 明らかにするための装備を備えていなかった。ボイジャー2号はその結果を受けて、タイタンの更なる調査ではなく、天王星、海王星への 軌道を選択した結果、タイタンの本格的な探査は、何と20世紀末に打ち上げられ、21世紀初頭に到達したカッシーニ・ホイヘンス・ミッションに よるものが初めてなのである。ホイヘンスはタイタンの地表に見事に着地に成功し、タイタンの大気の内側の風景をもたらしたのみならず、 地上からの風景をももたらしたのであり、それに巡り合えるのは、繰り返しになるが、世代の偶然が為せる僥倖と言う他ない。 しかもカッシーニはミッションを2度に亙り延長し、タイタンへの接近は100回を越すことになるだろう。タイタンは土星とともに29.5年かけて 太陽の周りを回り、自転周期の方も15.9日であり、単純な地球の時間尺度でのアナロジーを受け付けないし、一度限りのフライ・バイ ではその変化の或る瞬間の断面を捉えることしかできないのだが、延長されたミッションにより、そのゆっくりとした季節の移り変わりがもたら す気候の変動も判明しつつあるし、地球では当然で、だが決して自明のこととはいえない昼夜での気温の変化といった現象も確認されてきている。


タイタンは「地球のような衛星」と呼ばれる。タイタンは太陽系内では厚い大気を持つ唯一の衛星であり、 しかも予想されたとおり、雨が降り、地表に溜まり、蒸発しといった循環があり、地表の風景はある意味でまさに地球のアナロジーとなっていることが 明らかになりつつある。けれどもそれは例えば火星が地球のアナロジーであるのとは全く位相を異にする。火星はいわば素材の点で地球と共通しているのだが、 そのダイナミズムは少なくとも現時点では地球と大きく異なっている。それに対してタイタンは地球と共通する窒素主体の厚い大気を持ち、気圧は1.5気圧、 地表の温度は氷点下180度であるため水は液体で存在できないが、メタンの雲が発生し、雨として降り注ぎ、蒸発しといった大気の循環がある。 地表の地形も、湖があり、河があり、ホイヘンスが降りたような小石が散らばる泥濘あり、風紋のような模様をもつ砂地のような地形もあり、更には氷火山もありということで、 素材こそ違え、まさに「地球のような」風景が拡がっていることが確認されたのだ。要するにタイタンは、異なる素材によって地球と類似のダイナミズムを備えた天体であり、 それゆえ地球とは異なったタイプの「生命」が活動している可能性さえあるのだ。それを思えば「ありえたかもしれない」というヴァーチャリティの徹底において、 しかもそれがまぎれもなく実在しているという点において、タイタンの占める位置は全くもってユニークなものなのだ。 しかもそのリアリティが今まさに厚みを増していきつつある時期に我々は生きているのである。

タイタンのあり方の特殊性は、衛星の中では群を抜いて多いタイタンに関する書籍のタイトルにも現れている。「地球のような」については上述の通りだが、それ以上に、 その厚い大気がヴェールとなって、タイタンに対する認識の深まりが、文字通りに「覆いを取り除く」こととなっている点が、ハイデガーが「ヒューマニズムについて」で 指摘する「テヒニーク[技術]は、その名称の点で、ギリシア人たちのテクネー[技術的知]に遡るだけではない。むしろ技術は、本質の歴史に即するならば、 アレーテウエイン[覆イヲ取リ除イテ真相ヲ露呈サセルコト]の一様式、すなわち存在者を顕わにすることの一様式としてのテクネー[技術]に、由来している」 (渡辺二郎訳)という言葉と正確に呼応していることに思い当たる。おそらくは金星も似た可能性を持っていたが、「覆いを取り除いた」結果は「地球のような」を 否定するもので、寧ろ決して覆いが取り除かれることのない存在であることがわかったと言っても良いのに対してタイタンについては、「存在と時間」の序論において 述べられた「おのれの示すものを、それがそれ自身の方から現れてくるとおりに、それ自身の方から見えるようにすること」が今や可能になりつつあると言って良いだろう。

こうした点がタイタンの探査におけるヨーロッパとアメリカの取り組みのバランスに影響していることはないだろうか。カッシーニ・ホイヘンス計画はNASAとESAの共同 のミッションだが、全く地表の状況がわからない天体に対するプローブの投下はヨーロッパ側の強い要望によって実現したもののようであり、今後のミッションにおいても タイタンの探査に対してはヨーロッパの積極性が際立っているように感じられる。火星は勿論だが、エウロパに対しては寧ろアメリカ主導であるように見えるのと コントラストをなしているように感じられてならない。それはまた、植民やテラフォーミングの可能性についての議論とも関連しているに違いない。いわは天然ガスの 塊であるタイタンは外惑星帯における植民先としては最も有力な候補の一つのようだが、その一方で、その系の持つ、地球とは全く異なった独自の動的な均衡が テラフォーミングの議論を封じ込めてしまっているかに見え、ここにおいてもタイタンは、火星は勿論、例えば木星のガリレオ衛星などと鋭い対照をなしているように 窺えるのである。

タイタンの探査はカッシーニの成功により今なお進行中であって、2012年以降2017年のミッション終了までに更に40回以上の接近が予定されており、 更なる知見が得られることが期待される。その一方で、今のところ木星系の次期ミッションが優位にあるとはいえ、タイタンを含む土星系へのミッションが 2020年代の実施を想定して検討されている。タイタンについては有人探査が私が生きている間に実現する可能性はほとんどなかろうが、無人探査であれば、 もしかしたらもう一度、その実現に立ち会える可能性は残されている。次回は確実に、現在既に火星では普通になりつつある、専用のオービターと ランダーの組み合わせによる探査がタイタンに対して為されるだろうし、タイタンに対する最大の興味の一つである「生命」の存在の調査が、より高度な装備に よって為されるであろう。既に現時点でさえタイタンは、人間の想像力を遥かに超えた現実を提示しているし、今後も提示し続けるだろうが、更なる飛躍が 期待できるという点においても特異な存在に違いない。


3.エウロパ

エウロパは木星の衛星のうち、ガリレオが発見したことから今日ガリレオ衛星と呼ばれる4つの衛星のうちの一つで、従って随分と昔から知られていたが、 ボイジャー探査機が接近するまではガリレオ衛星の中では最も大きいガニメデの存在感が他を圧していたのに対し、それ以降はまず火山活動が 確認されたイオが存在感を増し、ついで氷殻の下に海があることがほぼ確実視されるようになったエウロパが地球外生命の有力候補として急激に クローズアップされるようになった。とりわけ20世紀末のガリレオ計画における12回のフライバイを含む長期に亙る探査によって得られた情報により、 今や火星と並ぶか人によってはそれ以上の生命の星の候補となり、その後のカッシーニ・ホイヘンス計画の驚異的な成功により一層存在感を増した タイタン、これまた急激にクローズアップされることになったエンケラドスがあるとはいえ、2020年代に向けての次期の外惑星探査の大型ミッションの 最有力候補はエウロパの探査のようである。

もっともエウロパの海はその存在が確実視されているとはいうものの、まだ実際に確認できたわけではなく、あくまでも仮説的な存在である。そして もう一つの地球外生命が存在する有力候補であるタイタンにおいては厚い大気のためにオービターでの探査に限界があるように、エウロパの場合も オービターで幾ら地表の氷殻の探査をしても、その下に広がるはずの液体の水の層を直接観測することは叶わないだろうし、ましてや生命の存在に ついての確証は得られないだろう。最低でもランダーによって地表に残るとされている地底の海水の成分の痕跡を調べたり、存在する可能性のある 有機物の分析をすることが必要だろうし、最終的には氷殻を掘り抜いて地底の海に潜る探査を行わなければ直接的な証拠を 得ることはできない。液体の海の存在自体異論の余地がないわけではないし、地球の深海の熱水噴出孔のアナロジーが成立するような海底 火山活動の方も当然のことながら仮説の域を出ない。一方で木星の強い磁気圏の只中にあるエウロパの地表は人間が1日と生きていけない程 強い放射線に晒されており、酸素を含む大気の存在が確認されているとはいえあまりに希薄であり、小さな重力とあいまって、地表の風景は 地球とは全く異質のものであろう。他方で地底の海は仮に熱源となる海底火山活動があったとしても光のない世界であり、氷殻表層の希薄な 大気から運び込まれたり、放射分解によって発生する酸素が水に溶け込んでいる可能性はあるものの上陸する陸地もなければ酸素に富んだ 大気も存在しない。つまるところエウロパは火星とは違った意味合いで、地球型の生命からのアナロジーが到達できる境界領域に位置する存在のようである。 エウロパに地球的な尺度で高度に進化を遂げた大型の多細胞生物が存在する可能性は決して高くはないだろうが、安易なアナロジーを超えた 現実が氷殻の下で繰り広げられている可能性を否定することもできないだろう。

今や地球外生命の探査は太陽系内のみならず、太陽系の近傍の他の惑星系に存在することが判明しつつある地球型惑星や海洋惑星などにも 及びつつあるし、太陽系内ですら天王星の衛星群、海王星の衛星トリトンや冥王星型の天体、彗星や小惑星など、調査対象は広がっている。 けれども21世紀の最初の四半世紀の間に詳細な探査が行われ、生命の存在についての仮定を超えた知見が得られる可能性がある対象となれば、 現時点で有力視されている幾つかの候補に絞られるが、エウロパは火星やタイタンと並んでその中に含まれているようだ。探査の対象となるには これまでに得られた知見の裏づけが必要だが、そういう意味でもエウロパは火星、タイタンに並ぶ存在となっていることが書籍として入手できる 文献の数などからも窺える。そういう意味でもエウロパは、この時代を生きる人間にとって、その想像力の辺縁の仮想と現実のあわいに位置する 存在なのだということができるだろう。


結びにかえて

三輪さんの震災後の活動と、自分なりに架空の対話を試み、応答をまとめ、公開してきて、現実性と仮想性の問題や、想像力の問題、 メディア・技術の問題などについて、自分なりに考えて来た。そうした経験を経たとき、地球外の生命を探索する候補となっている 火星・タイタン・エウロパなどを巡る研究やそれらを題材にした小説が、三輪さんの「極東の架空の島」の、あるいは様々な作品の 「カバーストーリー」の延長線上の、ある種の極限のような場所として浮かび上がってきたのだと思う。現時点においては地球外からの眺望こそ、 「極東の架空の島」のポテンシャルを測るための適切な視点なのではないかと感じられたのだ。

ローバーが撮影した火星の写真は、非常に奇妙なものだ。地球のどこかにありそうなのに、実際にはその風景の中に私は本質的に属していない。 幸いにも21世紀に生きる私たちが人類史上初めて見ることができるホイヘンスが撮影したタイタンの地表の風景は、本当は摂氏マイナス180度の 極寒の世界であり、恐らく素材も地球のものとは甚だ異なったものに違いないにも関わらず、砂地に円い石の散らばる地球上の海岸や河岸に似たものをそこに 見出してしまう。そしてどこかで私から決定的に断絶しているそうした風景を、それでも眺めることができるのは、まさに「テクノロジー」の力、「メディア」の力によるものなのだ。 それは私が生きたままでは決して見ることができない風景を見ることを可能にしている。かつての人間、生物としての人間には不可能であったはずのことが、 人間と機械の複合的な存在である、現在の人間には可能になっている。

既に触れたことではあるが、最近の火星無人探査機は自律性を有して動き回ることのできるロボットに他ならず、彼らが火星の地表に長期に 渡って滞在し、動き回って視点を変えながら、文字通り「見て」「撮影した写真」の中には、凡百の「芸術作品」を凌駕するものがある。 それらはマリナーやボイジャーが遠距離から通りがかりに写し、限られた帯域幅を用いて転送してきたスナップショット画像とは明らかに 異なった質を備えており、あたかも絵葉書に印刷される風景写真のようですらある。勿論、ローバーは芸術家ではなく、そこに芸術性を 見出すのはあくまでの事後的な効果としてであって、送信されてきたデータを加工し、色合いを決めるのには人間の判断が介在している ことを忘れてはなるまい。Postcards from Marsと題された、スピリットとオポチュニティと名付けられた2台のローバーが 撮影した火星の地表のパノラマ写真を収めた写真集がある(邦訳は「火星からのメッセージ」寺門和夫:監修、沢田京子:訳、 ランダムハウス講談社。以下の引用は邦訳書に従った。)が、その冒頭、「はじめに」の部分でこの写真集の「著者」であり、 スピリットとオポチュニティのパノラマカメラ画像システムの主任科学者であるジム・ベルは「バイキング着陸船とマーズ・パスファインダーで 撮影された火星の風景と、スピリットとオポチュニティーが撮った風景との違いは、「画像を得る」ことと、「写真を撮る」ことの違いである。」 と述べた後、以下のように書いている。

「(…)これらの写真が、実際の風景に最も近い表現で、あたかも火星にいるかのような作品に仕上がったことを誇りに思っている。 もちろんここには膨大な技術とコンピュータが駆使されており、幸運なことに、チームの中でもきわめて才能豊かで創造的な人々から 大きな助力を得ることができた。しかし写真の芸術的、美学的側面を請け負ったのはわたしである。すべての芸術は現実との関連性 という問題に直面する。この点で、本プロジェクトは特にユニークである。これは抽象的なアートではないが、今まで人間が実際に目撃した 現実でもないのである。」

更に題名に触れつつ、「わたしたちは写真を撮影した時も、その写真が火星から地球に送信されてきた時もポストカードと呼んでいた。 だから、今さら別の言葉で呼ぶことなどとてもできない。」と述べ、「これからもポストカードが配達され続けることを期待しながら、 これらの写真を皆様にお届けする。」と「はじめに」を結んでいる。

ここではローバーというロボットと人間が不可分の一つのシステムを形作っていること、ニュアンスは違うから投壜通信そのものではないものの、 ここにおいても或る種の通信が、贈与が語られていることに留意しつつ、こうした現実を踏まえた上で、カントの判断力批判における 美の定義を改めて思いおこしてもいいかも知れないし、ヘーゲルの美学における自然美に対する人工美の優位に対して、 一方では「人工」ではないが、さりとて地球上での「自然」の尺度を超えた風景を、他方では更に進んで、人間ならぬロボットの「視点」を 割り込ませるべきなのかも知れない。「視点」という言葉自体の問い直しと一緒に。「美」を見出すのは人間であるに留まるとして、 「美」でない何か、でも「美」に通じている何かの視点を、いつしか、しかしそんなに未来というわけではなく、ロボットが獲得する、 文字通りに獲得し、それによって自律的に写真を撮影するということは決して絵空事ではないだろう。その先で、ロボットによる「投壜通信」を 考えることすら可能だろう。


例えばブルックナーの音楽は「木石の音楽」だと言われるし、シベリウスの音楽には人影がないかも知れない。 でもそれは地球の風景の音楽でしかない。 天体を題材とした音楽は、私が知る限り、どれも陳腐な空想の産物にしか聴こえない。三輪さんの極東の架空の島をはじめとする カバーストーリーと、それに基づく音楽が、ほぼ唯一、まともに想像力を行使していると私には感じられる。これは文学作品でも そうで、大抵のSFは火星やタイタンについての探査結果を分析した研究が描き出すものの足元にも及ばない。火星のように 一定の情報がある天体でないものを想像しようとしても、却って素朴なアントロポモルフィズムを曝け出し、人間が如何に自分の 認識の檻から逃れるのが困難であるかを逆説的に証しすることにしかならない。(そういう点で興味深いのはまたもやタイタンで、地表の 様子がわかったのがつい最近のことであるために、タイタンを舞台にした作品は、数十年遅れで火星を舞台にした作品の 後を追う事態がようやく生じつつある。エウロパに関してはアーサー・C・クラークの作品を除けば未だそのレベルに達せず、後の天体については 木星や金星について近年獲得された知識に基づく描写が行われた数少ない例を除けば、得られた知識があまりに断片的に過ぎるゆえ、 未だ具体的な描写が可能な状況にない。) 勿論、ある種のアントロポモルフィズムは本質的な限界だろうし、ロボットにしても人工知能にしても、ある種のアントロポモルフィズムから 逃れられないだろうが、その一方で、空想としてではなく、現実に(ただしその現実は直接性を欠いているのだが)火星やタイタンといった 異なる場所が開けているのも間違いないことで、そうした「現実」により「人間」の「限界」がようやく具体的に浮き彫りにされるのである。

死者とともにあるという認識、そしてそれと対を為す、己もまた今からのち死すべきものであるという認識は優れて人間という生物固有のものであるかも知れない。 だが人間は、一方において自分と生物学的基盤を共有する他の動物、植物と共に、少なくともしばらくはこの地球でやっていくしかないし、 遠い将来、例えば火星への植民が可能になったところで、人体を改造して火星に適応し、人間と異なるものになるのでない限り、あるいは 数世代にわたる期間という、人間の寿命の尺度を大きく超えた歳月の後、テラフォーミングによって人間に居住可能なように火星が「地球」化 することなしには、火星は異郷のままに留まり続けるだろう。ところが現実には原子力災害によって、図らずもそうした「異郷」が地球の上の出現してしまっているのだ。 あたかも別の天体上でのように、防護服を着用し、ロボットを操作して復旧作業を行わざるをえない。復旧作業に要する期間は人間の寿命の 限界に及び、テラフォーミングのように世代を超えるものになるかも知れない。私は復旧作業の完了を目にすることができないのかも知れない。

火星やタイタンについて考えるのは、それ自体、人間中心の視点から否応無く離れることを含んでいる。しかも倫理的な是非以前に、震災後の ある時期、ときどき私はそうすることで息継ぎをしてきたようにさえ感じる。(実際に火星やタイタンでは一瞬たりとも生きてはいけないのにもかかわらず、、、) 私は自分のそうした行動を、そしてそれによって確実に獲ていたに違いない、何某かの慰藉を未だうまく分析することができずにいるが、 恐らくは同じであろう「限界」に対して、同じ想像力、同じテクノロジーを介し、だが逆の方向からアプローチし、そうすることで現実に抗する潜在的な力を 引き出そうとしているのではないかという漠たる感覚はある。そしてそれは三輪さんの作品が示す可能性と親和性が高いものであるように感じている。

火星といえば丁度古代・中世的な宇宙観と近代的な天文学の中間点のような位置を占めるケプラーのことも思い起こされる。 ケプラーは火星の軌道の観測結果に合致するモデルを探求した結果として、かのケプラーの法則を見出したのだったが、同時に彼は「宇宙の神秘」 (Mysterium Cosmographicum)、「世界の和声=調和」(Harmonices Mundi)の著者でもあり、アリストテレスが「形而上学」第1巻第5章で 「数の構成要素をすべて存在の構成要素であると判断し、天界全体をも音階(調和)であり数であると考えた」と記述するような意味合いでの ピタゴラス派の末裔であり、アウグスティヌスが「音楽論」において算術、幾何学、天文学、音楽の四学科に分かたれると記述する文脈での、 それらを包括する意味合いにおける「数学者」の一人であったことを思い起こすべきだろう。 「世界の和声=調和」(Harmonices Mundi)においてケプラーは、太陽系の惑星(当時はまだ6つだが)のおのおのが角速度を変えつつ 軌道を動くときに奏でている音楽を書き留めてさえいるのである。

それゆえいつの日か、三輪さんが火星やタイタンをそのカバーストーリーに取り込んだ作品を作ることがあれば、是非聴いてみたい、といったようなことをも 私は考えてしまうのである。この時代に相応しい「天球の音楽」、既存の人間の尺度を寄せ付けない、だが(古のピタゴラス派のそれとは異なり) ある仕方で人間にも聴き取ることができるハルモニア・ムンディ。空想の火星ではなく、メディアを介して垣間見ることのできる火星の風景に相応しい音楽。 火星やタイタンの、人間なしで成り立っている秩序に相応しい、だが、人間のものに他ならない音楽、、、そうした音楽こそ、3.11後の風景の中で 生きる人間、最早かつての「人間」とは異なった「アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性」における「コンピュータ語族」としての人間、 「テクノロジーによって生み出された「人造物」を通して世界を理解し、感じ、考え、対話し、戦い、生存している」人間、人間の方が人造物システムの 一部として「機能」しているような状況に置かれた人間に相応しく、なおかつ生きていくために必要とされる「音楽」ではないだろうか。

(2011.11.13初稿, 2012.1.29加筆・公開, 2.26加筆・修正, 2013.1.12修正, 2024.7.6 noteにて公開)

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