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マーラーとドストエフスキー(1):「カラマーゾフの兄弟」について

マーラーがドストエフスキーの熱心な読者であることは様々な証言によって伝えられていて、良く知られたことと言って良いだろう。 マーラーの読書の傾向については別のところでも触れたが、哲学や自然科学に関してはプラトンやカントといった古典のみならず、 ショーペンハウアー以降、同時代のフェヒナーやロッツェ、エドゥアルト・フォン・ハルトマンといった最新のトレンドに敏感であったのに対して、 文学においては全般として古典に傾き、エウリピデスから始まってシェイクスピア、セルバンテス、スターン、ドイツ語圏においても 同時代の作家よりはジャン・パウル、ホフマン、ヘルダーリン、そして何よりもゲーテを愛読している中で、主要作の最初のドイツ語訳が 作者が没した直後の1882年から1890年にかけて行われていったドストエフスキーについては概ね同時代の文学作品の中では 例外的ともいえる熱中を示しているように窺える。


マーラーに最初にドストエフスキーを紹介したのはジークフリート・リーピナーであったようだが、リーピナーの最初の妻(ただし 1891年に離婚)であったニーナ・ホフマン=マチェンコはドストエフスキーの研究者であり、1899年にドイツ語では初の ドストエフスキーの伝記、"Ph. M. Dostojewsky. Eine biographishche Studie"を執筆している。彼女はまた、 マーラーの若き日の友人、フリードリヒ・レーア夫妻とも交流があり、マーラーはレーアを通じて知己をえるようになったことが 書簡等から窺える。ニーナはマーラーのみならず、弟のオットーもまた親交があったのだが、そのオットーが「自分の入場券を返す」と いって1895年2月6日にピストル自殺をしたのはニーナの住まいでのことであったらしい。この「自分の入場券を返す」という表現は、 明らかに「カラマーゾフの兄弟」(БРАТЬЯ КАРАМАЗОВЫ)中のイワンの言葉(第2部第5編「プロとコントラ」(Pro и contra) 4章「反逆」(БУНТ)の「だから俺は自分の入場券は急いで返すことにするよ。正直な人間であるからには、できるだけ 早く切符を返さなけりゃいけないものな。俺はそうしているんだ。俺は神を認めないわけじゃないんだ、アリョーシャ、 ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ」 (訳は新潮文庫版の原卓也訳に従う、以下同じ。) "И если только я честный человек, то обязан возвратить его как можно заранее. Это и делаю. Не бога я не принимаю, Алеша, я только билет ему почтительнейше возвращаю.")を意識したものだろう。 (ちなみにピストル自殺といえば、「白痴」の登場人物で、「わが不可欠なる弁明」を読み上げて後、ピストル自殺未遂を 起こしたイッポリートのことを思い浮かべずにはいられない。)

ブルノ・ワルターもまた、マーラーにとってドストエフスキーが重要な存在であったことの証言者の一人であり、ハンブルク時代にマーラーの 家を訪れたおり、マーラーの妹のエマから、「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」(ВЕЛИКИЙ ИНКВИЗИТОР)の 部分に関して、アリョーシャとイワンのどちらが 正しいのかと聞かれたというエピソードを記録している。のみならず、マーラーについての回想("Gustav Mahler : ein Porträt")の中でも「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャとイワンの 対話への言及がある("In dem Gespräch des Ivan mit Aljoscha aus den Brüdern Karamasoff finden wir im Grunde den vollen Inhalt dessen ausgedrückt, was ich Mahlers Weltleid nannte.", Florian Noetzel Verlagの Taschenbücher zur Musikwissenshaft版ではp.107)。アルマもまた回想において、Mahlers Dostojewsky-Verbundundenheit hieß ihn oft und oft aussprechen : "Wie kann man glücklich sein, wenn ein Geschöpf auf Erden noch leidet!"(1949年版ではp.31)と述べている。ただしアルマの 言及は、こうした言葉が自己中心的であったり利己的であったりする人間により語られるものであり、マーラーもまたこうした考えを 実践しようという決意は持っていたことは認めても、つねに身をもって実践したとはいえない、という痛烈な批判のトーンを帯びた ものであることに留意すべきであろう。これ以外にもアルマは後年、晩年のマーラーとアメリカに滞在した折、ナイヤガラからの帰途に 「カラマーゾフの兄弟」を読んだことが書簡から窺えるが、リーピナーのグループに対する反感もあってか、上述のオットーの自殺に ついて言及する時も含め、マーラーのドストエフスキーに対する関係への言及には屈折した心境が感じられることが多い。 例外は1902年3月にマーラーと結婚した直後に新婚旅行を兼ねた演奏旅行で訪れたペテルブルクの印象を記録した部分で、 そこでは没後20年ほどにしかならないドストエフスキーの名を知る人がほとんどいないことへの驚きが記されている。

一方で、マーラーの作品に対するドストエフスキーの影響についてもまた、様々なことが言われている。最も著名なのは、Inna Barsovaの 論文"Mahler und Dostojewski"だろう。近年では、Julian Johnsonが2009年のモノグラフ"Mahler's Voice"(Oxford University Press)の とりわけ第6章"Ways of Telling"において、Barsovaの主張を受けて、内容面よりも寧ろ様式の面におけるマーラーとドストエフスキーとの 共通性を、バフチンの「ポリフォニー」を参照しつつ論じており、これは非常に興味深い。 一方で内容面・思想面での、しかも「カラマーゾフの兄弟」の影響ということでは、Constantin Florosが第3交響曲の第6楽章の 後に撤回されることになった1895/96年の構想における「永遠の愛」を「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老の説法(第3部第6篇 「ロシアの修道僧」(Русский инок)3章「ゾシマ長老の法話と説教から」(ИЗ БЕСЕД И ПОУЧЕНИЙ СТАРЦА ЗОСИМЫ)と 関連付けているのが良く知られているだろう(Constantin Floros, "Gustav Mahler I : Die geistige Welt Gustav Mahlers in systematischer Darstellung", p.66)。だがこちらは何しろ撤回された標題に纏わる議論でもあり、マーラーの側の裏付けが乏しいこともあって、 その説得力については意見が分かれるだろう。これ以外にも、初期交響曲の理解においてドストエフスキーが重要であるというシュペヒトの意見が あるし、日本では田代櫂さんが近年出版されたマーラー評伝中で「カラマーゾフの兄弟」に一節を割き(「グスタフ・マーラー 開かれた耳、 閉ざされた地平」の第5章「ハンザ都市」中の「カラマーゾフの衝撃」の節, pp.127-131)、その中で「カラマーゾフの兄弟」の 第1部第2編「場違いな会合」(Неуместное собрание)3章「信者の農婦たち」(ВЕРУЮЩИЕ БАБЫ)に現れるテーマと マーラー作品のテーマとが共通していると指摘している。

マーラーとドストエフスキーを巡るエピソードとしては、マーラーがシェーンベルクとその弟子達に対して、ドストエフスキーを読むことを勧めた折、 ヴェーベルンが、自分達にはストリンドベリが居ると返答したという件もまた有名だろう。このエピソードはマーラーと後続の表現主義の世代との ギャップを証言するものとして語られることが多いようだが、それが世代という環境によって規定されたものであるかどうかに関わらず、 なおかつ、時代の違い、文化的背景の違いの中で、マーラーとドストエフスキーが形作る星座のみはその構造を大きくは損なうことなく、 維持され続けているように思われる。もっとも私の場合には、ドストエフスキーの側については、熱心な読者とは言いがたい。なぜなら、 30年以上にわたって、何回となく読み返してきた結果、細かいエピソードやちょっとして描写の類まで頭に入っているという点でマーラーの 音楽と共通している「カラマーゾフの兄弟」を除けば、唯一「白痴」を、しかもごく最近になってようやく読み通すことができただけなのだから。 だがしかし、こと「カラマーゾフの兄弟」に関して言えば、内容面と様式面の両面において、それがマーラーの音楽と際立った親和性を持って いるのは疑いないことのように思われる。マーラー(Mahler)が絵描き(Maler)でカラマーゾフ(Карамазов)が「染物屋」(красильщик) (実際、ミーチャがこう呼ばれる場面が、第3部第8篇「ミーチャ」(МИТЯ)2章「セッター」(ЛЯГАВЫЙ)に出てくる)という類縁性が あるからというわけではなく、その作品の構造と内容の両面において、 私にとっては、マーラーの音楽も「カラマーゾフの兄弟」も同じ精神的な圏に属しており、両者は同じ問題、しかも私にとってのっぴきならない 重要性を帯びている問題を巡っての偉大なる先蹤なのである。


「カラマーゾフの兄弟」がロシアで発表されたのは、1881年に没したドストエフスキーの晩年の1879年から1880年にかけてのことであるから、 マーラーと、あるいはドストエフスキーと接する時と距離は現在の我々のそれとは全く異なったものであっただろう。そしてそうした事情は勿論のこと、 私がマーラーに出逢った30年以上前においても変わりはなかったのだが、それでもなお、マーラーとの出逢いとほぼ時を同じくして 「カラマーゾフの兄弟」にも出逢ったのはまさに僥倖というべき出来事だったと思う。 今なお版を重ねている新潮文庫の原卓也訳の「カラマーゾフの兄弟」が出版されたのが丁度そのころ(奥付によれば、初版は 昭和53年7月20日)であり、私はその初版を買って以来、マーラーの音楽を聴き続けるとともに、「カラマーゾフの兄弟」を何度となく 読み返してきた。マーラーの場合には一時期一旦、全ての文献を処分してしまったことがあるのに対して、「カラマーゾフの兄弟」の方は そういうことはなかったのだが、さすがに四半世紀の時を経て、紙はすっかり茶色く焼けてしまい、カバーも破けて何時の間にか なくなり、背中が傷んで一部のページが外れてしまったりして読書に耐えなくなったため、つい3年程前に意を決して買い換えをした。 ところが入手できたのは平成16年に改版され字が大きくなったかわりにページ数が増えた版であった。何度も読んだために 何がどのページのどのあたりにあるかまで記憶してしまったこともあり、改版されてページ割が変更されたことに対する違和感が 大きく、結局古書で平成8年辺りの比較的状態の良い版を手に入れることになり、更にまた新潮世界文学の1巻として収められた 2段組の一巻本(1000ページ近い)も手に入れて、現在は3種類を必要に応じて使い分けている。(ただし厳密に言うと、 新潮世界文学に収められた版は文庫版よりも古く、訳文には若干の差異がある。)

「カラマーゾフの兄弟」の翻訳と言えば、数年前に出た新訳が夥しい誤訳を含むものであるのみならず、その翻訳が、放恣な想像力を 行使した奇妙な解釈を背景としたものであることが話題になったことがあった。私がその誤訳の実体を知ったのはごく最近のことなのだが、 実情を知るにつけ、マーラーを取り巻く状況との並行性を感じずにはいられなかった。誤訳を具体的に提示する作業を、莫大な労力を 惜しまずに行い、その結果をWebで公表して世に問うた方々に対して大きな敬意を抱くとともに、共感を抱いている。 私自身はあくまでも自分自身の備忘のために、マーラー文献の誤訳から始まって、伝記的事実や写真等の記録、出版譜に関するものなど、 色々な分野で不正確な情報に出逢うたびに記録してきたに過ぎず、推敲する時間すら取れないうちに次々とそうした発見があって、 結果として何時の間にやら膨大な量になってしまっただけなのだが、そうした不充分なものであっても敢えてwebで公開しているのは、 偏にプロの研究者ではない私と同じような市井の愛好家で、私と同じような関心や疑問を抱く方々にとって、少しでも同じ調査を する手間を省くために公開しているのであり、それ以上のものではない。実際には目に余る酷い翻訳もかなりあるのだが、 個別に指摘するだけの時間的な余裕もないから、個人的な見解として自分が見つけたものを報告しているに過ぎず、 遥かに不徹底な仕方ではある。それでもなお、自分にとって別格の小説であり、マーラーとも因縁浅からぬ「カラマーゾフの兄弟」を 巡ってそうした営みが為されていることを知って、それに対する支持の気持ちを表明する必要を感じ、マーラーの誕生日に因んで このように取り上げた次第である。

マーラーの音楽は必ず演奏行為によってリアライズされなくてはならず、聴き手は演奏者の解釈のフィルターを介して聴かざるをえないのに対し、 ドストエフスキーの小説はロシア語原文を読む限りは、そうした問題はない。だが、日本語に翻訳するとなれば、そこには訳者の基本的な語学力、 原作の置かれた文化的・社会的文脈についての知識、そして訳者自身の読解といった諸条件が介在することになる。一見すると言葉の壁がない分、 閾が低いかに見える音楽についても、時代と場所(文化的・社会的な「場」を含めて)の隔たりは実際には厳然としてあるのであって、 寧ろ一見透明に見える分、音楽の方が厄介かも知れない程である。それゆえ「カラマーゾフの兄弟」の誤訳を巡る論争は、今日の 日本におけるマーラー受容にとって、決して他人事とは言えない。1910年代(だからマーラーの没後間もなくの時期にあたる)の 米川正夫訳以来、数多くの訳者による翻訳の試みの蓄積を経て、利用できる情報において圧倒的に優位にあるはずの 「カラマーゾフの兄弟」の最新の翻訳と、その背景にある解釈が大きな問題を孕んでいるという事態は、メンゲルベルク、フリート、 ワルターやクレンペラーの世代から始まって、LPレコード、CDの発達もあって膨大な演奏の録音の蓄積を経ているはずの 今日のマーラー受容の姿と否応なく重なって見えてくる。それでもCDで安価に交響曲全集が入手できるようになったマーラーの場合と異なって、 「カラマーゾフの兄弟」においては、私が幸運にも最初に読んだ原卓也訳のみならず、江川卓訳(集英社)、小沼文彦訳(筑摩書房)、 池田健太郎訳(中央公論社)といった優れた訳業が存在するのだが、これらの訳を入手すること自体困難なようであり、 その一方で、問題のある新訳がブームと呼べるほどの売れ行きを示す現実にはうんざりさせされる。幸い私は上掲の翻訳については 全て手元にあって参照ができるし、その一方で、ロシア語原文、仏訳、独訳、西訳、英訳は電子テキストの形でインターネットを 介して入手できて手元にあったりする現実があり、こちらはこちらで、著作権の切れた初期の出版譜がWebで無償で入手できるようになり、 インターネットを経由して海外の古書店が在庫している文献を検索して取り寄せることができ、近年では図書館が、やはり 著作権の切れた古い文献から順次、デジタル化を進めているというマーラー周辺の事情と同じく、ネットワーク環境の変化の 恩恵を受けているわけである。


ドストエフスキー側の研究については大した情報収集もしていないこともあり、直接マーラーに触れたものは確認できていないが、その中では ゴロソフケルが「カラマーゾフの兄弟」の第2部第5編「プロとコントラ」とカントの「純粋理性批判」の4つのアンチノミーを突き合わせる試み (木村豊房さんの訳で「ドストエフスキーとカント」という題名でみすず書房から出版されている)が興味深い。 マーラーが「純粋理性批判」を筆頭としたカントの著作に親しんでいたことや、上述のエマのワルターへの問いに関わる部分がまさに 主題的に扱われていることもあり、この研究は、マーラーの側からも注目に値するように思われる。 ゴロソフケルが「カラマーゾフの兄弟」に見出したカントの「純粋理性批判」のアンチノミーと、 解決できない問題を問わずには居られない理性の宿命、更には実践理性や構想力/想像力の問題は、まさにマーラー自身の 問題意識と重なる部分があるのみならず、ことマーラーの場合に限って言えば(というのも、本人にとっての問題が作品にそのまま 現れるのは必ずしも自明ではないし、寧ろその点でマーラーは例外に属するといっても良いかも知れないからなのだが) その音楽を通して問い続け、聴き手にも問いかけた問題と核心において通じていると思われる。今日においては カントのアンチノミーなど、それ自体がアナクロニズムであるとする向きには、恐らく、マーラーの音楽もまたアナクロニズムに違いない。 そしてアナクロニズムであっても仕方ないと私個人としては思わざるを得ない。なぜなら、その問題は別の時代、別の社会を生きる 私にとっても、未解決の問題であり続けているし、少なくとも私が生きる間には展望が一新されることはないだろうと考えているからである。 そういう意味では、私を含む現世代は未だマーラーやドストエフスキーの「エポック」の末裔なのだという認識を私は持っている。

それゆえ、「カラマーゾフの兄弟」とマーラーについては、いずれ必ず稿を改めて自分の考えを整理し、それをWebで公開すべきであると 考えている。もしかしたら、将来のある時点に、例えばカーツワイルのような論者が語る「技術的特異点」が到来し、意識の在り方が、 人間の定義が、観念と物質の関係が変わってしまうことがあるかも知れない。三輪眞弘さんが「感情礼賛」のカバーストーリーに記したように、現在が 回顧されることがあるのかも知れない。だが、それはもし到来するとしても、もう少し先の事であって、それまでは「カラマーゾフの兄弟」とマーラーが 提起した問いはなくならないし、それを各自が受け止め、自分に出来る仕方で継承していくしかないのだろう。

私がここで問いに対する導きとして考えている「カラマーゾフの兄弟」の箇所というのは、しかし、大審問官でもゾシマの説教でもない。そうではなくて、 「カラマーゾフの兄弟」という作品のまさに折り返し点、構造的な扇の要に位置している第3部第7編「アリョーシャ」(АЛЕША)の4章 「ガリラヤのカナ」(КАНА ГАЛИЛЕЙСКАЯ)の末尾の部分である。それは 《ほかの世界に接触》"соприкасаясь мирам иным"する瞬間、マーラー論の文脈で強いて対応物を求めるとするならば、 辛うじてアドルノがマーラーに関するモノグラフにおいてその一部を、Druchbruch/Suspension/Erfühllungというカテゴリーによって、 いわば間接的に言い当てたに過ぎない、或る種の時間的な構造、或る種の「極限」、更に言えば、特異点には違いないが、 いわば「奇跡」のような例外的な出来事を経ることなくして可能になるような場面である。 (私はここで「白痴」におけるムイシュキンとアリョーシャの、こうした位相における違いを突き止めようとしていると言うこともできるように思う。 それはそうした例外的な「瞬間」の時間性の差異、決定的な差異であり、それはアリョーシャにおいては不可逆で永続的なもの、少なくとも 有限の生命を持つ人間の尺度において、その後一生持続するものなのだ。)

その瞬間に起きたことを神秘として片付けずに受け止めようとするならば、鍵はその瞬間にアリョーシャの魂に響いた声が語る言葉、 《僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる》"за меня и другие просят"にあるだろう。私見では、かくの如き他者との受動的な 関わりについての分析を徹底的に掘り下げていった先蹤としてのレヴィナスの分析の行き着く果てにおいて、この言葉に、そしてこの言葉が 魂に響いた声によって語られたという事態に、「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」"Кто-то посетил мою душу в тот час"と後日 アリョーシャが語ることになった、魂を訪れる「他者」によって語られたという事態に行き当たることになる筈なのである。

だが、それはあくまで仮説的なもの、現時点ではきちんとした論証を伴わない、単なる見通しの提示に留まらざるをえない。同様にして、 それはマーラーの音楽のある瞬間の響きに裡に確かに聴き取ることができるものだが、こちらもまた、未だきちんとした説明ができない単なる 指摘に留まらざるをえない。フローロスのような内容的な指摘は勿論、ジョンソンのようなバフチン的なポリフォニーを援用した一般論な 「語り方」の議論でも不充分だし、「小説」とマーラーの交響曲のアナロジーを論じるのもまた、必要ではあっても十分ではなくて、ここで 問題になっている事態を的確に言い当てるためには恐らくは新しい語彙を鍛造するところから始めなくてはならないだろう。

ちなみにゴロソフケルは「ドストエフスキーとカント」の結びにおいて、「ドストエフスキー自身は「知性の地獄」から脱却できなかったが、 彼はそれでもアリョーシャに託して、未来に対する全人類的な期待---より正確にいえば、この期待への親近感を示そうとした。」(木下訳、 p.167)と結論づけ、まさに私が注目しているのと同じ、第7編第4章の別の箇所「本当の、、、本当の道は広く、まっすぐで、明るく、水晶のようにきらめき、 その果てに太陽があるのだ、、、」 "А дорога... дорога-то большая, прямая, светлая, хрустальная и солнце в конце ее... "を引用して、「読者はこの言葉をもって、 せめてもの慰めにするべきである。」と結んでいる。しかし、私見では、実はその結びは、仮にゴロソフケルの意見を認めてカント的な枠組みにあっては 行き止まりとしての結論であることを認めたとしても、そこが分析の終点であるということではないのであり、寧ろ、そこから分析が始まるべきなのだ。 あえて尚、カントに即して言うならば、「純粋理性批判」ではなく、「プロとコントラ」でもなく、「判断力批判」を、「ガリラヤのカナ」における 《ほかの世界に接触》を、「突破」の契機を出発点にとるべきなのではなかろうか。(そして再び、それは実は既に一度「白痴」において探求され、 作中で明確に目配せさえされたにも関わらず、結局到達できなかった事柄を、別の仕方で取り上げることに他ならないだろう。)


翻って、例えばマーラーの音楽に纏わる様々な見解についてはどうだろうか。第9交響曲の終楽章に関連して、 非常に些細な、一見したところ取るに足らないとも見做されかねない例を幾つか挙げてみよう。例えば アドルノは第8小節の音型が第2交響曲の第4楽章である歌曲「原光」の引用であることを指摘する "Wie über Äonen kehrt das »Im Himmel Sein« aus dem Urlicht der Zweiten Symphonie zu Beginn wieder." (Taschenbuch版全集13巻, p.307)。 しかしその音型は、「原光」自体の再現において»wird leuchten (mir)«という歌詞でも歌われているのだ。 些細なことかもしれないが、もしかしたら、その些細な差異が、この楽章の時間性についての了解に関する 異なった展望を導くことはないだろうか。

更に続けてKindertotenliederの第4曲の引用についても言及するが、その一方で何故か、ずっと先に 出現する第8交響曲第2部の引用への言及はなされない。 Molto adagio subitoの指示から7小節目のヴィオラの下降音型がそれで、これは第8交響曲の第2部の 練習番号170から171にかけて、かつてグレートヒェンと呼ばれた女が歌う部分の結びの音型と同じである。 第8交響曲のこの箇所は、まさにファウストの復活が述べられる決定的な部分であり、更にこの音型には "neue Tag"という言葉があてられていることを思い起こしていただきたい。その上そもそも練習番号165番から 始まるこのグレートヒェンの歌は、楽章をまたがって、第8交響曲第1部の第2主題"Impre sperna gratia"の 「再現」なのであって、それはマーラー自身が etwas frischer als die betreffende Stelle im 1. Teilと 記していることからも明確なのである。

勿論、(アドルノもそのようなことを述べているが)第9交響曲の引用は、全て引用であって、従って回顧なのだから、 引用されている等のものとは全く異なる意味付けがされているのだということはできるかも知れない。 だがそれならば、こちらは有名で必ず言及されるといっていい、「子供たちのいる天国」を示唆するとされる、 Kindertotenlieder第4曲の末尾"Der Tag ist schön auf jenen Höh'n"の引用が 実は既に第8交響曲にも現れていること(第1部練習番号22 "firmans"のところ、 第2部練習番号79から4小節目のzurückhaltend "Die ew'ge Liebe"のところ)はどうなのか。つまるところ、 子供の死の歌の子供はまた、第8交響曲の第2部でグレートヒェンとともにファウストの復活を歌う子供達 (Selige Knaben)でもある筈なのだが、或る種のレティサンスによって、彼らだけが、ひいては第8交響曲だけが 恰も別の文脈に置かれようとしているように見える。

第8交響曲のここの部分では、この世では起きようのないこと、寧ろ起きては「ならない」と言うべきかも知れないこと、 「カラマーゾフの兄弟」第5編「プロとコントラ」の「4.反逆」(БУНТ)の章において、イワンがまさに先に引用した 言葉によって拒絶した事態が起きているのかも知れない。アリョーシャですら、イワンの「銃殺か」(расстрелять?)という問いに対して 肯定の返事をしているのだし、イワンとともに、ゲーテのファウストのこの結末を噴飯物として受け付けない人の 気持ちもわからなくもない。名作を地に引き摺り下ろすという意図から出たのではなしに、晩年のゲーテの若き日の 過失に対する悔恨をそこに見出す人もいるだろう。

だが、ゲーテのテキストそのものではなく、マーラーの音楽に端的に接したとき、第8交響曲第2部の音調が、 一見したところ対極にあるかに見えて、そのコントラストが人を戸惑わせさえする次の作品、一般には第8交響曲との間には 越えがたい深淵が拡がっていて、両者の間には端的に連続性はないかのような扱いを受けている「大地の歌」の それに通じるものがあることに気づかせる演奏解釈というのがあることを、私はある種の極限的な状況において 身をもって経験したことがあり、別のところに記録を残している。 また、3.11のために1年遅れで実現した、井上喜惟指揮するジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの第9交響曲の 演奏は、一見したところ間に「大地の歌」を挟んで対極的な位置にあると見做されがちな第8交響曲と 第9交響曲が共通した世界認識に基づくものであることを示していることを印象付ける、圧倒的な説得力を 備えたものであり、その記録もまた、別のところで文章として残している。


一方、ここでは詳述はできないし、その意味をきちんと 測ることも叶わないが、「カラマーゾフの兄弟」の作品については、ドストエフスキーの側から直接「ファウスト」第2部の 終幕に対する暗示的な参照が行われている点を、せめて指摘だけはしておきたい。ゾシマに対してPater Seraphicusと 呼びかけがなされる場面があるのだ。しかもそれは、第2部第5編「プロとコントラ」5章「大審問官」(ВЕЛИКИЙ ИНКВИЗИТОР) において、自作の詩「大審問官」の内容をアリョーシャに語り終えたイワンが、臨終の床にある ゾシマの許に急いで戻るように促す部分で、イワンの口から発せられるのである。「さ、それじゃ、お前の天使のような神父 (パーテル・セラフィクス:原訳文ではルビ)のところへ行ってやれ、だって危篤なんだろう。」(Ну иди теперь к твоему Pater Seraphicus, ведь он умирает; )そしてイワンと別れたアリョーシャはゾシマの僧庵に戻る途で、イワンの言葉を 思い浮かべてこのように自問するのだ。『《天使のような神父(パーテル・セラフィクス)》--こんな名前を兄さんはどこから 持ち出してきたのだろう、いったどこから?』アリョーシャはちらと考えた。『イワン、気の毒なイワン、今度はいつ会えるのだろう… あ、僧庵だ、助かった!そう、そうだ、長老のことか。長老さまがセラフィクス神父なのだ。あの方が僕を救ってくださる… 悪魔から永遠に!』("Pater Seraphicus" -- это имя он откуда-то взял -- откуда? промелькнуло у Алеши. Иван, бедный Иван, и когда же я теперь тебя увижу... Вот и скит, господи! Да, да, это он, это Pater Seraphicus, он спасет меня... от него и навеки!" )

イワンが何故、ゾシマのことをそう呼んだのかを 読者は突き止めなくてはならない。イヴァンはその前のアリョーシャとの対話において、あの「すべては許される」 ("всё позволено")という言葉を巡って、ゾシマの僧庵での「場違いな会合」を思い浮かべていた。ゾシマが イワンの苦悩の本質をあの場で完璧に言い当てたことにイワンは理解し、ゾシマの祝福を受け、その手に接吻した こと(第1部第2編「場違いな会合」5章「アーメン、アーメン」(БУДИ, БУДИ!)を思い出そう。そしてPater Seraphicusが、 この世を早く去った童子たち(Selige Knaben)の救い手、導き手であることをも。ここでは大急ぎで、2つの事実を述べて 後日の検討のための備えとしたい。

まずはドストエフスキーの側から。Pater Seraphicusがアッシジのフランチェスコを指していて、ゾシマがアッシジのフランチェスコに 擬されている可能性があるにせよ、ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」の創作にあたって、「ファウスト」第2部を参照した のは間違いのないことのようだ。というのも「カラマーゾフの兄弟」の創作ノートに、「ファウスト」第2部への言及があるからだ。

次いでマーラーの側から。マーラーがドストエフスキーとともにゲーテの愛読者であったことは良く知られているし、 「ファウスト」第2部もまた、「カラマーゾフの兄弟」を経由せずして、直接読んでいたことは間違いないだろう。 では、マーラーは「カラマーゾフの兄弟」における「ファウスト」への参照に気づいただろうか?証拠はないものの、 逆に「ファウスト」に親しんでいればこそ、気づかなかったということは考えにくいように思われる。ところで、ここに 些か奇妙な事実がある。一般に第8交響曲の第2部は、「ファウスト」第2部の終幕の場をそのまま音楽化したものと 考えられているが、厳密にはそうではなく、ここにも歌詞の省略がある。そして、その省略された部分こそ、まさに Pater Seraphicusが語る部分なのである。だから第8交響曲のパートには、Pater Seraphicusという役は登場 しないのである。もっとも、彼に導かれるはずの、この世を早く去った童子たち(Selige Knaben)の方は、全く 登場しないわけではなく、原文では天使達がファウストの霊を運んで空中の高いところをただよいつつ、 "Wer immer strebend sich bemüht, / Den können wir erlösen; "という重要な詩句を含む一節を歌う 部分の前にある"Hände verschlinget euch"以降の歌を、マーラーは順序を入換えて歌わせているのである。 グレートヒェンとともにファウストの復活を歌うのが、この子供達、洗礼を受けることが出来ずに命を奪われ、 カトリックの教義によれば、地獄の第一獄である辺土(リンボ)に行く運命であった筈の子供達であるのは、 上でも言及した通りである。従って、ここでは、マーラーの側のこのレティサンス、省略が何を意味しているのかが 問われるべきところなのだ。そしてそれは、創作プロセスにおける事象という事実性の水準と、作品そのものの 解釈の水準の両方で問うことができるだろう。だが、ここでは恣意的な臆測を逞しくすることは慎み、 上述の事実の指摘に留め、後日の検討を期することにしたい。


そういうわけで、「カラマーゾフの兄弟」は、単にマーラーの愛読書であったという伝記的事実のみからは、形式的には マーラーの作品の外部に存在するものと見做さざるをえないが、恐らくはある空間においてマーラーの音楽の内部と 繋がっているような、特異な参照点であり、それゆえ一方の理解は他方に通じているように私には思われる。 それゆえ、これまで30年以上そうして来た様に、今後も引き続き、(ヴェーベルンとは異なって、)マーラー自身の勧めに従い、 ドストエフスキーと、なかんずく「カラマーゾフの兄弟」と、マーラーの音楽の両方ともに向かい合って行こうと思っている。 それによってシュペヒトに従い、初期の交響曲を見直す際の視座が得られるのかもしれないが、それだけではなく、 後期の作品もまた、どこかで通底しているのは確かなことであり、マーラーの生涯を貫く核心部分に関する視座を 得ることさえ可能であると私は考えている。そしてまた例えば、マーラーが第9交響曲に関して述べた、 一見すると謎めいた言葉、それが第4交響曲に通じるという発言の背後にある了解に近づくこともまた、 そうすることにより可能になり、ひいては第4交響曲に対して、従来のイロニーに基づく理解とは異なった 接し方をすることが可能になるような気がしてならないのである。

(2013.7.7, 2024.6.26 noteにて公開)

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