見出し画像

断片V 神の衣を織る

 透谷の言葉は、1世紀後の文脈で読み直すことが可能だし、 そうすべきで、そうでなければ読む意味がありません。 例えば彼の「各人心宮内の秘宮」は、無意識の発見とも、 ジェインズのbicameral mindの構造を捉えた稀有な例では ないかとも思えます。「内部生命論」は、観念を抱くことが出来た人間という被造物が、 その観念によって自分を産出した世界を変化させ、新たなものを 産出する可能性に触れていて、一般にはキリスト教に対する 理解の浅さや、啓蒙思想の人間中心的な進歩史観に属する ようでいて、寧ろカーツワイルのような特異点論者の主張に 通じるものがあるように思えます。

  詩人もまた詩人を囲む小天地の一部に他ならず、 詩人の声はそれ自体「万物の声」に他なりません。 それは宇宙の自己再帰的な享受であり、宇宙自体の 秩序の創発であり、そのようにして宇宙は一層複雑で 一層豊かになるのです。 マーラーがゲーテの『ファウスト』第一部の地霊の 科白を引用して言うとおり、それはまさに 「神の衣を織る」ことそのものなのだと思います。

 宇宙を一個の情報処理機械とみなし、万物の声は 情報処理プロセスであるとしたら、詩人の営みは シミュレーションを行うことに他ならない。 シミュレーションされる対象自体が情報処理 プロセスなのであれば、シミュレーションは 寧ろ自己同型写像の一種であり、巨大なオート マトンの局所における自己再帰的な発展と 見做すことができるのではないでしょうか?

 ところで上記のような考え方は、以下のようなマイケル・ ポランニーの『個人的知識』の末尾の言葉を読み直す 方向付けを与えるものに思えます。それはドイッチュが 『無限の始まり』で述べていることと共鳴しあうようです。

「われわれの知る限り、人間に体現されている宇宙の 微小な諸断片は、可視的世界における思考と責任の唯一の 中心である。もしそれが真実ならば、人間の心の出現は、 いまのところ世界の覚醒の究極的な段階であり、それに 先んじたすべての物事、生きることと信ずることのリスクを 引き受けた無数の中心の格闘は、すべて、さまざまに異なる 経路をとりながらも、現在、われわれがここまで達成している 目標を追求してきたように思われる。それらは、すべて われわれの血族である。というのは、これらすべての中心、 すなわち、われわれ自身の存在をもたらし、その多くが すでに消滅した異なる経路を産出した無数の多くの他の 中心の存在がもたらしたすべての中心は、究極的な解放に 向かっての同一の努力に従事しているように見えるからである。 われわれは、そこで、ひとつの宇宙の場を、短命で限定 され危険に満ちた機会を各中心に与えて、それらが 考えもおよばない完成に向かって前進するようにと 命じた、ひとつの宇宙の場を思い浮かべてもよいかも しれない。」

マイケル・ ポランニー『個人的知識』, 長尾史郎訳, ハーベスト社, 1985, p.382

この水準では科学者とエンジニア、詩人と作曲家に 区別はないように見えます。

(2014.8.10 公開, 2024.7.2 noteにて公開)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?