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断片II 墓参

前日出張で熱海に宿泊し、その翌日の昼前に家に戻る途中、帰りに 小田原で少し時間ができたので、久しぶりに小田原駅の周辺を一人で歩いた。 時間にしてほんの30分強程度でひとめぐりしたのだが、出張に岩波文庫の 透谷の選集を持っていったこともあって、透谷の墓の場所を確認しようと、 朝、起き抜けの熱海のホテルでふと思い立ったのがきっかけである。

小学校の低学年のときに郊外に越すまでは、小田原駅から10分くらいの 町中に住んでいたし、その後は高校が小田原駅の裏の山の上だったので、 今度は郊外から小田急線で通っていたということもあって、小田原駅の周辺と いうのは私の生活圏であった。

小田原駅の西口を出て、昔の記憶を辿りつつ、地元の人間ならではの近道を 通って、ほんの5分の後には透谷の墓のある高長寺の門前に辿り着く。 もっとも高長寺は小田急線の線路脇、小田原駅に入る間際、新幹線の高架を くぐるカーブの手前で減速して徐行している小田急線が最後の踏み切りを 過ぎるところで車窓から眺めることができるのだが。

子供の頃住んでいた場所から透谷の墓まで10分かけずに行けるけれども、 その頃の私は決して小田急線の踏切を渡ることはしなかったので、 高長寺の門前に立つことはなかった。

一方、郊外に越してから通った高校は、小田原駅を降りて、丁度高長寺とは 逆に向かって山を登ってゆくので、通学の経路からは外れているのだが、 帰りがけ学校を出て更に山を上り、丁度谷間に作られた陸上競技場の 周囲を巻くようにして、尾根伝いに山道を歩くと、その降りる先が 高長寺のすぐ隣の大稲荷神社の裏の道となっていて、高校生の時に 帰りがけにしばしば通った道ではあった。だが、樹叢の中にひっそりと 佇む大稲荷神社には寄っても、寺には立ち寄ることはなく、コンクリートの 塀を隔てた墓地の中、ほんの十メートルも先には透谷の墓がある寺を 訪れることは結局一度もなかった。

幼少時の生活圏からは小田急線の踏み切りが隔て、高校の時分は すぐ隣の道をしばしば歩きつつ、私の生きる圏の境界のすぐ外に それはあったのである。

透谷の生家はと言えば唐人町という、これも小田原駅から15分くらいのところ だけれども方向が違って、こちらは生活圏ではなく、この日も足を伸ばさ なかったけれども、唐人町というのは住所表示としてはなくなっても路線バスの 停留所の名前としていまだに残っているので、これも言われればすぐに 場所を思い浮かべることはできる。

それ以外には、島崎藤村が建立に奔走した碑がかつては小田原城址にあった ようだが、この碑は近年、南町の小田原文学館の敷地内に移転した由。

墓は本当にすぐ近くにあり、しかもかつて生活していた時代にすでにあったのに、 それを知らずに過ごして、今になって出張の帰りの空き時間に確認するのも 皮肉な感じではある。ただ、それも世間的には仕方ない部分もあって、 透谷は自殺で生涯を終えた人間で、そういう人間を故郷というのは冷遇するものなのだ。

今でこそ「観光資源」として遇されているようだが、特に透谷は、自由民権運動にも 関与して、キリスト教(いわゆるクエーカーであるフレンド派に親近感を持っていた) に改宗して、平和運動に携わり、でも自殺してしまう(クリスチャンとしては「失格」 ということになるだろう)「危険人物」だったに違いない。戦後は逆に民権運動との 関わりや、日本における浪漫主義の先駆としての評価がされるように なっても、なお自殺者、落伍者、敗残者の烙印は残る。

調べてみると透谷が生きた圏というのは、不思議な偶然で私のそれと、 重なることなく接しているようなのである。小田原においてもそうだし、 民権運動の時代の彼の活動範囲は八王子、町田(妻の美那の実家は 野津田というところにあったようだが、私は一度、そうとは知らずに 野津田には行ったことがあった)あたり。 東京においても銀座(数寄屋橋の近く、並木通りと晴海通りの交差するかつての 京橋弥左衛門町7番地)、麻布(今の赤坂アークヒルズと泉ガーデンズに 挟まれた、道源寺坂を登ったところになる麻布箪笥町4番地、 その後引っ越した六本木の近く、現在の西麻布三丁目にある麻布霞町22番地)、 高輪(東禅寺)、芝公園(今は東京タワーのある20号地4番地、 かつては紅葉館と芝能楽堂の裏手)と頻繁に、私の生活圏の周辺で 転居を繰り返す。 晩年に一時期過した国府津前川(長泉寺)の風景も周辺といって良く、 その近隣の風景なら私は知っている。どれも100年後のそれではあるが。

さしあたり透谷は同郷人であるということ抜きで関心を抱くようになり、勿論、 私にとって透谷は、まずもってそうした側面によって「近い」人間である と現時点では認識しているのだが、上に述べたような色々な偶然に気付いて しまえば、些か特殊な接し方をせざるを得ないのも事実だ。

私は愛郷心というのはほとんどないけれど、齢を重ねるにつれ、 自分が生まれ育った環境というのが否応なく自分の基層の 在り方の一部を決めてしまっていることを感じるし、事実として 受容せざるを得ない。それはより広く、日本人であることも含めてそう感じる。 透谷も、彼が「同郷の作家」だから関心があるのでは勿論ない。 寧ろ透谷が、「三日幻境」にて小田原をリコレクションの故郷とし、 一方で秋山国三郎の住む、上川口の森下をホープの故郷と捉える ような姿勢の方にこそ共感するのだが、それでもなお、土地の、風景の 記憶のようなものが重ね合わせされるとき、そうしたこととは無関係に、 異邦の、異郷の地の人間に関心を抱くのとは些か異なった次元での 交わりが生じるのは避け難い。私が小田原に住んでいたときには透谷を 全く知らなかったこと自体が、透谷の場合には距離感をではなく、 親近感を呼び起こすことになるようにさえ感じられる。

同郷人の中では特に透谷に惹かれるのも、没落士族の子弟である彼が 体質的には儒教的・仏教的な発想で、最初は民権運動にかかわり、 西欧思想や文学を受容しつつ思想形成し、外国語を習得して、 キリスト教に接近し、平和運動にかかわっていながら、結局自殺して しまう。そしてそうした生き方の中で評論や詩を書き残していった、 その立場の屈折にあるのは間違いない。どれも中途半端であり、 生き方の焦点が定まらない、残した作品も、大変な速筆で充分な 時間をかけて練られておらず、完成度が低く、かつ意欲ばかりが 先行した失敗作であると評価されてしまう。

それでいてなお、透谷の思想は、寧ろそうした風土に根差した土着性 からは程遠いもので、透谷が見出していた「心の内面」というのが、 文学的・思想的な流れからすると、或る種例外的なもので、その後も 引き継がれることがなかったように感じられる。 透谷の孤立、もしかしたら今なお続き、今後も続くのかも知れない 孤立、一部の熱烈な支持者による受容・研究といったあり方は、 寧ろ透谷自身が(その死後についても含めて)選択した途ではなかったか と思われる。

ところで、墓を訪れるという行動は、それでは一体どのように 位置づけられるのか?それもまた、誰が誰の墓を訪れるのかに応じて 様々であろう。透谷の墓の場合はどうなのか?彼は生前に妻に宛てた 書簡の中で 「寧ろわが死せしかたはらに一点の花なかれよ」「われ既に、 花一本もあたえられざらんことを覚悟せるものを。」と書いている。 色川大吉はこれについて、(前の部分だけを引用した上で) 自己を憐れんでのことで、思想のいさぎよさを示す語調ではない、 と述べているが、いずれにしても透谷が、墓というものを謂わば媒介(メディア)とした、 死んだ人間のしたことが記憶され、回想され、回答され、 継承されていく働きというものについて自覚的であったことは 確かであろう。その上で、己が流砂に埋もれるように忘れ去られて しまうかも知れないが、そうした匿名性をも甘受するというように 述べているのだ。

ロベルト・シューマンにも少なからず似たところがあると思うが、 透谷を擁護する人は、透谷の欠点・弱点に無自覚であるわけではなく、 寧ろ透谷を擁護が必要な存在と捉え、或いは世間の無理解に対して異を 唱え、或いはそうした擁護自体の無力を自嘲する気味があるように 見受けられるが、そうした言説の中に、上の書簡の言葉に絡めて、 透谷の墓には実際に一点の花もなく、忘却され、無視されていることを 述べたてるというパターンがあるようだ。勿論、墓は一度誰かが建立すれば、 物理的には一定の期間残存するだろう。だが、花の有無によらず、 墓を管理維持している寺があり、「一点の花もない」現実に抗議して 花を墓前に供える人々が存在し、そのようにして 記憶は受け継がれていくのだし、透谷自身、世間に 容れられず、半ば忘れ去られ、毀誉褒貶は常に相半ばし、 だけれども彼が遺したものを通じて彼を知る人が、あるいは花を供え、 あるいは文章を記して彼の記憶を継承していくような状況を是としたのでは ないかと私には思われる。世間に容れられないことは、或る程度彼が 覚悟して選択したことであり、彼の思いは、それを自己憐憫と見做すか どうかはおいて、彼を記憶する人がわずかながら居てくれれば良い、 という点にあったように私には思われ、そしてそうした心情をごく 自然なこととして受け止めることができる。

私はと言えば、花を持っていきはしなかった。時間がなかったからでも、 そうした事々を思い出さなかった訳でもない。実は、花を持っていっても 既に活けてあったらどうしようかとまで考えたのだが、結局は 花は持っていかなかった。供えることはできたとしても、供えた花が 枯れ朽ちてしまったのを自分で片付けることはできないだろうと 思いあたり、その始末を他の誰かに委ねることが何とはなしに気になったのと、 現実に花を供える以外に、彼の生きた「観念」の領域で、それと等価な ことをして、彼を記憶から召喚し、彼の言葉に応答し、彼の見たものを 世紀を隔てて継承することの方を考えるべきであるように思ったからである。

こうして書くことは、未だその応答、継承の志の遂行には至らず、 その準備ですらなく、単なる意思表明に過ぎないが、それでもなおこの文章を 「一点の花」として透谷の墓前に献じたいという気持ちは揺るがない。

(2014.7.14 公開 )

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