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マーラーの音楽が私に語ること:「時の逆流」について

マーラーの音楽を聴く時、一体何が起きているのだろうか。マーラーの音楽が私に語ることは何か。

現前している楽音の内に、先行する楽音が留置されることをフッサールは第一次過去把持と呼ぶ。 かくして保持された先行する楽音の直接的記憶は次の楽音への期待を産み出す。 こちらはフッサールの内的時間意識の現象学の枠組みでは未来把持と呼ばれる。 第一次過去把持が知覚の現在の内部構造であるのに対し、想像力に属し、過去を(再)構成 するのが第二次過去把持である。第二次過去把持により所謂「記憶」の「想起」が可能になる。 ブレンターノが第一次過去把持もまた想像力によるものであるとし、第二次過去把持との区別を しなかった点にこうしてフッサールは異議申し立てをするわけだが、では本当に第一次過去把持は 想像力の産物ではないのかといえば、それはそれで単純化のしすぎであろう。実際には第二次 過去把持は第一次過去把持と「ともに」しか成立しえないし、第一次過去把持は第二次 過去把持の影響なしには成立し得ない。

そこでフッサールにおける第一次過去把持と第二次過去把持の関係を考えてみよう。 実際には程度の差はあれ、第二次過去把持は、第一次過去把持の中に常に埋め込まれた 状態でしか成立しないことに注目しよう。すなわち、過去における事象の想起において、 まずはかつて第一次的に把持された意識の現在における想起が含まれており、 把持の想起自体がかつての把持の生々しさを帯びることもありえる。その一方で、第二次 過去把持は知覚に由来するものではなく、想像力に由来するものであるが故に、 知覚に由来する現在における地平の様々な意味付与の動機付けから全く自由というわけには いかない。記憶を第一次的に把持しなおすことは原理的にできないのだ。それゆえ想起には 現在の把持に由来する変様が伴う。 一方で、第二次過去把持なくしては、睡眠や失神による意識の中断を乗り越えた流れの 同一性を確保することができないから、結局「私」を成り立たしめているのは、第二次過去把持の 働きに他ならない。

音楽を聴くというとき、直接的には第一次過去把持のレベルで音楽対象の時間の流れが 形作られる。では第二次過去把持が音楽にどのように影響するだろうか。 音楽作品の巨視的な構造、流れの脈絡の把握やこれから起きる音楽的事象への期待の 地平の構築には第二次過去把持が不可欠である。つまり今聴いている部分の受容に 極限せずに、作品の全体像を把握しながら聴こうと思えば、第二次過去把持は欠かせない。 とりわけマーラーの交響曲のような長大な作品、単一の楽章が長大であるのみならず、 複数の楽章から構成される作品、更には作品間に主題的・動機的連関のネットワークが 張り巡らされているような作品群を対象としたとき、第二次過去把持の蓄積の豊かさが 第一次過去把持における聴取の豊かさを可能にするという傾向は著しいものになる。

録音技術の登場により、全く同じ演奏を繰り返し聴くことが可能となった時、その都度の聴取の方は 同一なものではありえない。この同一物の差異の由来は先行する聴取の経験の記憶への沈殿物 (一般に「知識」と呼ばれるもの)の作用であり、あるいは都度の聴取の際の周辺の文脈の違いである。 ここでいう周辺の文脈には、自己の身体内事象や心理状態から始まって、自己を取り巻く環境の ありとあらゆる側面における差異が含まれる。ところが周囲の文脈もまたそれぞれ、過去の来歴に よって用意されたものである。(ただし、その全てが「私」にとって遡及可能なものであるわけではない。 相対性の原理により、同時に生起した事象の直接的経験が不可能であるのに対応して、 私の経験していない過去が私が属する「世界」には沈殿しており、私は私の知らない過去からの 影響を間接的なかたちであれ受けているのである。) 第二次過去把持は、第一次過去把持を選択するための基準、音楽の場合なら、音楽的対象を 構築していく条件を規定する「期待」の「地平」としての役割を果たす。だがそうした第二次過去把持の 背後にある録音技術による同一演奏の反復の可能性は、まずは事実問題として第二次過去把持の あり方に無視できない影響を及ぼしている。その点に注目したのが、スティグレールの第三次過去把持である。

スティグレールの第三次過去把持は、レコードやCDのような録音・再生技術の発達によって可能になった ものであり、意識とともに無意識をも構成する。そして同一対象の権利上無限の反復の可能性を、 単一の私に対してのみならず、我々に対して可能にする点にポイントがある。 第三次過去把持は、私的なものを超えた、私の遡行できない過去から到来したものであり、同時にそれは 「我々」を規定し、もう一度、今度は未来に向けて私的なものを超えた、私の到達できない未来への 地平を構成する。それが可能になるのは技術を媒介にしてであり、私が自分の個体としての限界を超えて 理念的なものに到達するためには技術の媒介が必要なのだ。マーラーの音楽であれば、まずは「楽譜」が そうした(スティグレールならオルトテティックな記憶技術と呼ぶであろう)媒介であり、録音された演奏の記録も また、それらの集積の結果として理念的対象としてのマーラーの音楽「そのもの」を仮構する契機となる。 更にレコードやCDのような録音・再生技術の発達により、知覚は映画的なものでしかなくなる。 メディアが可能にする時間的対象の同一の反復の経験によって、カント的主体の意識の流れ、 超越論的な枠組みへの踏みとどまりは最早不可能となり、カントにおいては超越論的枠組みで 考えられていた想像力=構想力の働きは外在化され、物象化されたとスティグレールは述べる。 それは意識の個別性を毀損する可能性を秘めている。

そもそも想像力=構想力は、カントの「純粋理性批判」の第1版において純粋悟性概念の超越論的演繹の 部分における3段階の「綜合」をになう能力(生産的構想力)として、超越論的統覚に先行する 「すべての認識、特に経験の可能性の根拠」(A118)として提示されながら、ハイデガーが「カントと形而上学の 問題」で指摘するように第2版における当該箇所の全面的な書換えによりその役割を制限され、「悟性の一つの機能」 として位置づけられることになった。

既にイエナ期の若きヘーゲルがカントの「綜合」における想像力=構想力の役割に注目し、 これを「信仰と知」において直感的知性と同一視することにより、カント自身は人間の認識の限界として、 いわば極限として無限の彼方に設定したものをあっさり踏み越えてしまう。そして このヘーゲルとカントの立ち位置のずれは「判断力批判」における「崇高」の問題でもそのまま 繰り返されることになる。

カントは「崇高」(das Erhabene)について「超感覚的」であると語っている。カントにおいては「美と崇高」が 対比され、美が感覚的なものに、崇高が超感覚的なものに対応づけられる。 カントにおいて超感覚的なものは理性の理念であり、ふさわしい表現はないが、 ふさわしい表現がないことの感覚的な表現は可能なので、心情にはたらきかけることが できると述べる(「判断力批判」第23節)。ヘーゲルは「美学講義」の「崇高の象徴論」において このカントの「崇高」論の批判的展開を試みており、そこでヘーゲルは、「崇高の表現」とは 表現に相応しい対象を見出しえぬまま無限なるものを表現する試みと言っている。 ヘーゲルの批判のポイント自体は、カントが主観の側からしか崇高を見ていないことだが、ここでも カントはもともと主観の限界を見極める「批判」を企図しており、ヘーゲルが前提にしてしまっているものは カントにとっては「人間」には到達できないものなのだ。

想像力=構想力を巡るカントの逡巡に対するハイデガーの「カントと形而上学の問題」に おける批判を、フッサールの時間論のプロセス哲学的な解釈によって引き受けることによって、 一般には「現実」として了解されている、「意味」として「現象」する「世界」の虚構性が明らかにされ、 そこにおいて想像力=構想力の役割は適切な位置づけを見出すことになる。即ちそれが既に述べたような、 「現在」としての把持を背後から規定し、意味づける「想起」を可能にするものとしての想像力= 構想力の役割である。

想像力=構想力による「想起」が「現実」をいわば仮構するものであるとして、更にそれを根拠 づける「外部」、私からは絶対的に到達できない過去があり、私が決して到達することのできない未来が あることもまた、上述の分析は明らかにしている。それはカントがそこで踏みとどまったように権利問題と しては問うことのできない領域であり、地平の更に彼方を、無限を思惟することに他ならない。それは カントが超越論的弁証論において論じた超越論的仮象、「純粋理性批判」第1版序文冒頭で 「人間的理性」の「特異な運命」と述べた問い、「現象」の手前ないし彼方についての問いである。 それはいわば起源への問いが停止した更に手前を問うことなのだが、そうした個体としての「人間」の 在り方を、個体を超えて、いわば背後から規定しているのが、世代を超えて継承される文化的なものであり、 それを支える媒体として生物学的な身体を補綴する「道具」であり、その基盤としての「技術」なのである。 「技術」は個体にとって生成の根拠である一方で、常にその個体の特異性を脅かすといった構造もまた、 「人間的理性」の「特異な運命」なのであり、マーラーの音楽はそうした運命の中で創造され、 演奏され、記録され、聴取されているのである。

マーラーをCDで繰り返し聴くことをもう一度考えてみよう。誰かのいつぞやのマーラー演奏記録 (それは一回性の出来事であるとしよう)を繰り返し聴くことは、 だが、ライブ録音と呼ばれているものも、しばしば同一プログラムの複数回の演奏を編集 することがあるし、セッション録音の場合はそもそも「演奏の一回性」自体が虚構となってしまっている。 だが、ここで問題にしたいのは演奏の地平ではなく、マーラーの作品というもう一つ手前のレベルなのだ。 CDによる記録だけでなく、コンサートホールでの実演の聴取の記憶、或いはピアノでトランスクリプションの 一部や歌曲のピアノ伴奏を弾いてみる経験といったもの、更には様々な楽曲分析や背景についての 研究等も含めたマーラーの作品にまつわる「私」の経験の総体が投影されるスクリーンに映し出される 或る種理念的な対象としてのマーラーの作品のレベルを問題にしたいのである。

マーラーの創作過程を知る者は、記譜法のシステムというのが単に出来上がった作品を記録する といった保存の水準のみならず、創作の方法自体に本質的に組み込まれていることに気づかざるを 得ない。マーラーの作曲の仕方は記譜法のシステムに根本的に依存していて、それはあらゆる 場面で登場する。記録された楽譜もまた決して完全に安定した状態にはならない。作曲家=指揮者 であったマーラーは、自分で演奏をするたびに管弦楽法に手を入れたとは良く知られているし、 後世の指揮者にも改変の権利を与えたという証言が伝わっているが、そうであれば一体どれが 「本物」なのかという問いを立てることにはあまり意味がなくなることになろう。 寧ろ、作品が享受される限りにおいて準安定状態にありつつも絶えず微少な調整を行いながらの 利用は常に行われているばかりか、そうした調整作業の継続こそが作品の受容を促進し、 絶えさせないための条件とすら言いうるのではなかろうか。

そしてそうした準安定状態の中での常に更新される受容が、私を成立させる。それは私の生成 そのものなのだ。 人間の個体的・集団的時間性(シモンドン的な意味合いにおいての)は、人間が後成的系統発生的な 存在であるが故に可能となる「幽霊性=再来性」と反復によって構成される時間性である。 全く孤立した「我」がまず発生し、その後で他者と出会うことで「我々」になるのではない。 フッサールが「デカルト的省察」の第5省察以来、膨大な間主観性についての草稿群で分析したように、 間主観性的な構造の発生の方が個体の 発生を規定するのであって、実際には我と我々は同時に一気に生成すると考えるべきなのだ。

であるとしたならば、デリダのいかんともし難い「運命」としていわば構造的に宿命づけられた「反復可能性」と コミットメントへの倫理的要請としての「反復」への誘いの「差異」を、マーラーを聴くという場面に適用してみたら どういうことになるだろうか?

他者への応答は、応答の内容が如何に否定的なものであったとしても、コミュニケーションが成立する以上、 最初に根源的な他者に対する肯定があって成立する。このいわば先行する肯定もまた、第二の肯定によって 確証され、反復されることなしには成立しえない。第二の肯定による確証の要請は、反復可能性が 構造的なものであるとするならば、それは確証を伴わない機械的な反復の可能性が常に存在するからだ。 寧ろ記号によってそうした機械的な反復が可能になるのであり、それを支えるのが技術である。 想像力に由来する第二次過去把持である想起によって、かつてあった/今は不在の対象が仮構され、 そうした仮構された想像的な媒介物がそれ自体自律した対象として予め存在していたかの如く 措定されたとき、理念的な同一性が確保される。ここまでは第二次過去把持による記憶が抽象化され、 個別性を喪失し、反復可能な「存在」として沈殿することで、ホワイトヘッド的には客体的不滅性を帯びる 過程を記述しているのだが、その沈殿物を生物学的な人間が備えている記憶媒体たる脳の中ではなく、 自分の身体の外側に、いわばそれを補綴するものとして物質的な媒体に記録したとき、第三次過去把持の 領域が開かれる。第三次過去把持によって「私」なしの反復可能性はいわば完成する。

その一方でデリダが要請する「反復」、確証を伴った第二の肯定としてのそれを先の第二次過去把持が 常に第一次過去把持の中に埋め込まれているという事態に照らして考えてみると、こちらもまた、必ずしも 能動的で主体的な選択としてではなく、現在の地平にいわば誘われるようにして変様が起きてしまうという 傾向を認めなくてはならない。反復の方が自動化される一方で、反復を損なう契機が常にあって、 積極的に反復しなければ、自動化された反復はいわば毀損したものとなってしまうということなのであろう。 だが逆に積極的な反復は、新たな地平における都度新たな「歓待」であり、そこに創造の可能性もまた 存しているのだ。理念的なものはアプリオリに与えられるものではない。それは第三次過去把持により、 私に先行して事前に存在しているかの如き現れ方をするが、理念的なものは未来に向けて、常に未完了の 状態で開かれたまま、繰り返し投射されることで準安定的な状態を維持できるのだ。創造は一回性の出来事だが、 再創造が行われなければ創造の結果は維持し得ない。

そしてそうした再創造の可能性はどこにあるのかと言えば、身体的できごとを外部の記号に 変えてしまう意識ではなく、意識下の無意識のレベルでも機能している心的機能の働きに注目すべきであろう。 主体の不在においても反復可能でなければ、それが記号として意味を持つことも、理解することも 使用することもできないという事態は、上述の意識の時間論的構造と関連しており、 意識は身体的なできごとを記号として解釈してしまう。しかし記号は現実を抽象した結果であり、その一部を 為すに過ぎないものであって、無意識のレベルでは意識が捨象してしまう様々な因果的な効果が働いている。 そして意識主体の選択には、そうした背後で働いている効果が影響せざるを得ない。第二次過去把持まで ではなく、更に第三次過去把持を考える必要があるのは、そうした意識の領野外で意識に影響を及ぼしている 対象の機能を解明するためである。それは技術的なものと無関係ではありえないが、技術的なものに 全く従属的というわけでもない。否、技術的なものによって可能になりつつ、技術的なものが含み持つ 共時化による意識の個体性の消滅に抵抗する契機として、ベイトソンが「われわれの無意識の層を伝え合う エクササイズである」という芸術の存在意義がある。芸術が、意識を持ってしまった有機体の、その意識が 己の構造上の制約の中で、それでも精神の全体を垣間見ようとする営みであるという規定を考えたとき、 「世界を構築しなければならない」と作者自らが規定するマーラーの交響曲こそが、この定義に最も相応しい ものの一つであるように私には思われる。

人間の意識の構造は可塑的なものであり、ジュリアン・ジェインズが示したように、数千年という 文明的な時間スケールにおいては、意識の様態は変化しうるし、意識が発生したり、 消滅したりということも起きえる。 理性的存在者の存在と、その同型性、構造的な一意性をア・プリオリに主張することはできない。 一方でフッサールが分析したような内的時間意識の構造もまた、少なくとも現在に至るまでの 「この」場、即ちマーラーの音楽が演奏され、聴かれるような場においては、準安定状態にあると 言って良いだろう。長大な持続を結するだけでなく、多様な時間性を内包するマーラーの音楽は まさにそうした意識構造が可能にするものであり、同時に、そうした意識構造により可能になる 世界に対する態度(認識のみならず、行動の面でも)の様態の或る種の「結晶」の如きものとして 考えられる。「世界を構築すること」というマーラーの自分の創作(直接には第3交響曲)に 対する良く知られたテーゼは、自分が作曲するのではなく、背後に居る何者かに書き取らされて いるような感覚の証言とともに、マーラーの音楽が優れてある時代と場所における意識構造と 不可分の関係にあることを告げている。

そしてそれは同時に、そうした意識固有の想像力の場、ヴァーチャリティの時空間を内包している。 そればかりではなく、第三次過去把持としての記憶技術によって、遺伝子の複製・交差によって 世代交替が起きるせいで、個体の経験が継承されることがないという制限を超えた理念的なもの へと関与することを可能にしている。そうした音楽にとって、ファウスト第2部の終幕の場はまさに 自己言及的な内容であるだろう。そこではファウストの甦生が語られ、比喩的な仕方で語られた 理念的なものの客体的不滅性が意識を超越を経て、新たな甦生に誘うという機制が 表現されている。マーラーの音楽の単なる文字通りの反復を嫌い、だが、 主題を再現させるときに、紛れもなくそれがかつて提示されたものの再現でありながら、 かつてとは最早同じではなく、非可逆的な過程を過ぎ越してしまい、もう元には戻れないと いう印象を強くもたらし、更にそのことによって、再現されることによって初めて主題が確保されたかの ような印象を与えるとともに、未だに生成の途上にあるといった様相を呈するという時間的な 構造はそうした「作り=為す」ことの衝動に見合っている。

創造は一回性の出来事であるが、反復し、常に動き続けることにより安定状態は維持されるので あり、目的論的図式から出発して錯覚されるように安定状態において動きが停止するわけではない。 エントロピーの極大の状態をではなく、エントロピーを減少させることによって準安定状態を維持し続けるためには、 系は閉鎖系ではなく開放系でなくてはならず、常に外部からエネルギーの供給を受ける必要がある。 そして系に新しさをもたらすのは、系を破壊する可能性のある偶然的なもの(ノイズ)であり、ノイズを いわば「消化する」ことによって自己組織化システムは維持されるのである。このときシステムは外部を持ち、 内部には多層的な部分構造を備え、安定化機構としての記憶を保持する必要がある。 そこでは偶然やノイズや死のプロセスが、組織化や学習の中で創造の契機となっているのである。 そしてマーラーの音楽はそうした高度な自己組織化システムである意識の構造を反映した意識の音楽なのだ。

その軌道は複雑で、簡単に記述することを拒むけれど、一例を挙げれば第3交響曲の終楽章の 練習番号26番におけるような、あるいは第8交響曲第2部の練習番号156番におけるような マーラーの音楽のあの強烈な「再現」に匹敵するものを私は他の音楽に見つけることができない。 それは単純な反復ではないのだ。

例えば第8交響曲第2部の練習番号165番の第1部の第2主題(Imple superna gratia)の再現。 主題が再現するということの持つ圧倒的な力をここまで徹底的に感じさせる瞬間というのは、なかなかない。 最早これは日常的な時間意識の裡にない、というのは確かなように思える。仮に第1部を聴かずにいた 場合であっても、私はこの作品を(楽譜によって、あるいはCDのような記録媒体の助けをかりて、何度も 繰り返し聴くことにより)記憶してしまっているので、記憶と知識によって、それを補うことができるのが、 この部分は、マーラーの決定的な主題再現がいつもそうであるように、それが単純な反復ではない 「再現」であるという徴を帯びている。或る種の時間的な感覚を呼び起す何かがあるのだ。 「かつてあった」という感覚、そこから遙かに遠くに至ったという感覚。目も眩むような 距離感が「再現」には含まれている。 マーラー自身、ここの箇所にetwas frischer als die betreffende Stelle im 1. Teilと記しているのだ。 歌詞もまた、Er ahnet kaum das frische Leben,...と、ファウストの再生を歌う。)

あるいはまたマーラーの音楽においては枚挙に暇がない、「後戻りができないポイント」の存在。またしても第8交響曲 第2部から例示すれば、まずは練習番号155番の少年合唱(Selige Knaben)の入りが挙げられる。 アドルノとは異なって、私が一瞬何が起きたかと思い、ぞっとするのはここだ。このあたりから音楽は少なくとも 私にとって未知の、未聞の領域に入っていくのを感じる。何度聴いてもそうなのだ。何か、人間が、この儚い、 有限の生命しか持たない生物が、そしてその生物に進化の悪戯によって備わった、さらに取る足らない意識が 到達することのできない場所に、自分がそのままでは見てはいけない何かに近づいている気がする。同様に、 練習番号176のマリア博士の歌唱の部分には「到達した」という非常に強い感覚を呼び起すものがある。 またしてもずっと遠くに来てしまった、そしてもう引き返すことなく、決して戻れないのだという感覚。 ちょっとした戦慄、軽い恐慌状態。

更にはアドルノがマーラーの第9交響曲について述べた未来完了的な主題提示の問題、再現と提示の問題を 考えて見ることもできるだろう。第9交響曲に限らず、マーラーが主題の再現を強調する時、実は再現こそが 真の提示であり、最初の提示はその予告に過ぎないという見方はできないだろうか。 再現の聴取において何が生じているのか。それは単なる再認ではなく、その間に横たわる時間の厚みを 通した再認の持つベクトル性の深みを感受しつつ、そこに単なる反復ではなく、冗長性という意味での 秩序に収まらない新しさを経験するという事態が生じているのではないだろうか。この事態こそまさに、 既に述べたあの、フッサールの時間論のプロセス哲学的な解釈によって引き受けることによって、 一般には「現実」として了解されている、「意味」として「現象」する「世界」の虚構性が明らかにされ、 そこにおいて想像力=構想力の役割は適切な位置づけを見出すことになる場面そのもの、 「現在」としての把持を背後から規定し、意味づける「想起」を可能にするものとしての想像力=構想力の 役割が確認できるような場面、高度な有機体における(再)創造の過程を定着させたものではなかろうか。

そしてプロセス哲学における「時の逆流」はそうした高度な有機体における(再)創造の過程の時間性を 捉えたものなのである。 プロセス哲学的な超越は創造性の否定であり、2つの生成の間を越えるだけではなく、可能的世界を事実 性によって限定することを通じて現実性から可能性への永遠的客体へと超えることでもあるとされる。 そして時の逆流とは、


「意識の生成の中で配景を形成している諸事象―当然のことながら、この中にたったいま過ぎ去った 根源的現在が含まれる―の死としての自己疎外を体験しつつ、その意味でそれらの事象の心性の滅した 未来を体験しつつ全体としては永遠の客体との関わりが不確定から確定への進む、心性の甦生への歩みである。」

(遠藤弘「時の逆流について」pp.39-40)

勿論、上述のプロセス哲学的な「時の逆流」は、事象連鎖を通じての対象の生成のレヴェルではなく、 実体体属性という永遠的対象に関わるレヴェルでの一事象の生成の時間を捉えようとしたものであることに 留意すべきだろう。具体的な聴経験について考えるとき、確定的な部分事象の連鎖の中での事象の生成に 基づく対象の生成を考えるならば、これは「時の逆流」が問題にしているレヴェルから見れば、いわば二次的で 派生的なレヴェルを扱っていることになる。だがその一方で、そのような二次的なレヴェルで時が恰も 逆流しているように感じられるとするならば、それはいわば幻想であって、実際には時の逆流自体を経験している わけではないにせよ、その感じの根拠を問うことはできるだろう。或る種の目的論的な発想は、それ自体が 意識がそれと気づかずに構成してしまうフィクションであるにしても、それを可能にするメカニズムが存在し、 まさにそれが意識を生じさせているのであれば、そうしたメカニズムの働きが「時の逆流」の「感じ」のいわば 原因となっているのだ。いわば自分自身を支える背後の機制を垣間見るようにして、二次的に「感じ」としての 「時の逆流」の経験が生じるのであろう。

あたかも生成する事象が、先行する過去の事象よりも、これから起きるであろう未来の事象によって 決定されるかのように思われるとき、現在の生成の創造性の源泉は過去ではなく未来にあると考えられる。 これはいわゆる目的性に従った行動の連鎖において、あたかも意図に添って事象が生じるかのような 幻想(というのは実際の出来事の系列は因果決定論を覆すものではなく、そうした意図そのものが 過去の出来事の結果に過ぎないからである)が生じるケースとは区別される。勿論、この場合でも そうした幻想が生じるのは何故かをなおも問うことはできるだろう。音楽作品のようないわゆる人工の 産物においても、結末に向かうようにいわば「仕組まれて」いる場合にそのような感覚が生じることが あるだろう。

だがそれとは異なったケースがある、それは予示されていたものが今これから実現する瞬間、 しかもその瞬間になってはじめてそれが予め可能性として示されていたことが、いわば事後的に 判明するような場合、つまるところ「新しい秩序」がもたらされたように感じられるような瞬間、 後成説的に潜在的であったものが成長して発現したかのような、不可逆的な過程が生じた ことがわかり、その時点から過去を回想したときに、その過去は最早遡及不可能なもの、 あたかも前生での出来事であるかに感じられる瞬間において感じられる「時の逆流」もある。

そうした瞬間はどんな音楽にも生じるというわけではない。それは或る種の時間的構造の下で しか生じないし、そうした時間的構造が生じるために作品が備えていなくてはならない構造的な 条件があるだろう。すなわちそれは、秩序に傾斜したあからさまな人工物ではなく、だが 自然現象の中でも物質的、無機的な構造(結晶構造のような秩序を思い浮かべれば良い)に 似たものではなく、さりとて無秩序でもない、エントロピーや情報量という尺度では単純に測れない 秩序と無秩序の中間領域にある「複雑性」の領域にある作品の場合、言い換えれば、 有機的な生命現象の模倣に近い、層的で内部構造を持ち、固有の時間を持つ複数の部分よりなる、 複雑さを備えた後成説的発達が可能な、自己組織化に類比できるような作品において感じられる場合である。

「時の逆流」が感じられるのは、そうした作品の中のある瞬間においてなのだ。それは明確な目的に 向かって進んでいくべく、隅々まで意識的に作曲しつくされた作品ではなく、寧ろ作曲する主体の 背後にあって主体の志向を定めている無意識的なものの声に従い、夢に見られるようなプロセス、 つまるところ内的時間意識を備えた主体のものではあるけれど、寧ろそれを支える背後の 自己組織化の過程によって形式そのものがその都度形作られる作品において感じ取ることができる 「時の逆流」があり、マーラーの音楽におけるそれはこちらの方なのだ。意識が決して見ることのできない 自己の起源を覗き込む瞬間、それは現在の延長としての未来把持ではない、これまた意識がそのまま 自己を滅することなく到達することが不可能かも知れない未来への超越の瞬間である。

そうした瞬間は構造的に定められるものなので、構造的な聴取を行っている限りは、それが起きることを 知っていたとして印象が薄れることはない。逆に「時の逆流」を感じ取るためには、その作品の膨大な 脈絡を記憶し、何が潜在的に用意され、何が実現可能かを(無意識的にであれ)押さえている 必要があるのだ。まさに音楽としての経過を知覚するために最低限必要な第一次過去把持の レヴェルではなく、それを背後から規定する第二次過去把持は勿論、第三次過去把持のレヴェルに 及ぶ広範な綜合作用を行うスティグレール的な意味での想像力、ベンヤミン=アドルノ風には 想起ではなく追憶、即ち想起する主観に先立つ客観についての回想が必要とされるのである。

具体的な経験のレベルに移せば、マーラーのような長大で複雑な作品を想起するための手段として 複製技術による記憶媒体による録音は有効であり、同じ録音を何度も反復する可能性、しかも 「私」だけではなく、誰に対しても同一の音楽を提示することの可能性が獲得されるが、その一方で、 常に聴取はその都度毎に一回性のものであることから逃れることはできないのである。そしてその都度の 聴取の態度は様々でありうる。ベンジャミン・リベットの実験が明らかにしたとおり、受動的な経験であると 意識が思いなす楽曲の聴取のプロセスは、実際には意識の背後における前意識的・無意識的な 活動により編集されたものであり、同一の演奏の繰り返しの聴取は、そうした編集の地平を形成し、 その地形を変化させるだろう。変化に富んだマーラーの音楽の脈絡は、一回性の受動的な聴取においても 聴き手を厭きさせることはないだろうが、その巨視的な設計や、マーラー自身の創作のプロセスにおいて 既に「書き取らされた」ものである精緻を極める動機の相互連関のネットワークや変形の技法を 把握するためには、演奏の次元においても指揮者による緻密な事前の総譜研究が欠かせないように、 聴き手も総譜を参照しつつ、繰り返して聴くことにより、自分自身にとってのマーラーの個別の作品の像を 構築していかなくてはならない。

しばしば議論の的になる、長大な経過における巨視的なシェマの知覚の 問題、例えば発展的調性の知覚の問題も、そうした反復に支えられた聴取の前では、問題設定そのものの 抽象性を露呈することになる。しかるべき事前条件下での心理学実験ならぬ現実の聴取においては、 総譜研究を通した知識すら、楽曲の把握の地平として動員されて当然であるし、絶対音感の有無は おくとしても(調性と色彩の共感覚とともに、あった方がより容易なのは明らかなことと思われし、逆に事実として それがある場合にはその効果は本人にとっては明らかなのだが)、相対的な音高を想起できるほどに 楽曲を自分の中に定着させた聴き手にしてみれば、巨視的なシェマもまた、都度の聴取にとって単なる 知識としての地平であるのみならず、身体的できごとを外部の記号に変えてしまう意識のレベルではなく、 意識下の無意識のレベルでも機能している心的機能の働きに関わるものとなるであろう。かくしてマーラーの 作品が産み出す(比喩的な意味での)「風景」は、聴き手自身の(現象学的存在論的な意味合いでの) 「世界」のそれとなり、聴き手の意識を含めた「心」の構造そのものを構成する素材となるのだ。

それゆえ常に聴き手は新たな聴き方をすることによって、理念的で 無時間的に凝固した作品を都度新たに(再)賦活しつつ、応答しなくてはならないという要請が生じる。 ここで注意すべきは、そうして再創造されるのは作品だけではなく、そのようにして「私」の側もまた 再創造されるのだということである。私が事前に存在して、作品を待ち受けるのではない。作品を 受け取りつつ、同時に私もまた都度生成するのである。そしてそうした記憶媒体の助けをかりることに よって、マーラーの音楽は私固有の身体そのものになる。私の頭の中でそれは物質的な音響を経ずに鳴り響く までに至る。それは私の経験しなかった過去の風景であり、私の中に住まう他者、私をも「作り=為す」 ことにいざなうべく語りかけるのである。

(2013.4.28, 29, 5.1,3,12,21, 2024.6.23 noteにて公開)

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