あの広告から思ったのは、専門性とはどうあるべきか。

大体考えて居ると脱線し、飛び、どこか知らない結末に行きつく。

あの某広告を、私は2つの視点から見ていた。

1つ目は、就活生としての視点。先鋭化した竹やりみたいな言葉を使い、表出する企業は、どんな意図、あるいは経営理念を持っているのだろう。もしかしたらそこには、自分では思いつかなかったものがあるのかもしれない…。

多様化が叫ばれる昨今は、一人一人が配慮と広い視野を持って動くことが求められる。その一方で情報が大量に流入し、思考の浅薄化、もしくは同じ思考の人を見つけやすくなったことで個別深化が問題になっている。

つながりは広く浅く、狭く深く。そのバランスはとても難しい。

誰もが誰かを認識しながら、自分の意見は届かないと途方に暮れて、寂しく悲しくなる時に、声の大きい誰かが代弁してくれるのはすっきりする。

代弁者の役割はしかし、ときには主張をそのまま伝えることかもしれないが、その意見が、誰かを傷つけることはないか、悲しむ誰かはいないかと細心の注意を払い表現すること、と思う。考えを紹介し、すこし立ち止まる時間につなげること。

バランスをとる。そのことが、社会と接続する専門性に求められているのではないか。専門性とはなにも、資格を持った人、というだけの意味ではない。ここでは消費者相手にモノを作ったりサービスを提供するような様々なひとのことを意図している。


2つ目は、科学を学ぶものとして、おや、と思った。『医療従事者は危険と隣り合わせ』『まじめな一人一人が疲弊』『非科学的なものを感じる』に疑問を感じた。

医療は経験と科学で成り立っていると思う。政治に非科学的なものを感じるという趣旨だと思うが、それはどうだろう。答弁書作成の裏や、ワクチンの申請の裏には海外含め大量の文献を読み込んでいるひとがいる。(と思っている)。一つ一つが手探りで、わかってきたことはあれどわからない部分もまだある。報道されるのは氷山の一角に過ぎない。感じるのは個人の自由だし理解はできるが、共感はできなかった。


最近よく考えるのは、果たして専門性とはなんぞ、ということである。薬局では薬剤師は処方箋通りに薬をだせばいいと、いわれることがある。

薬学生の内は称賛されても、薬剤師になると世間からの評価はさがる、というような意見も見かけた。

それはなぜかと考えたとき、世間=消費者側では 薬剤師に専門性を求めている人が少ない、あるいは薬剤師の専門性を知らない、「なにができるの?」状態で、薬剤師側としては 伝えきれていない、伝えようとしない、あきらめた、あるいは「なにができるの?」状態。

専門性とは何か。薬?いや、もっと広くとらえたとき、そこにあるのは「できないなにかをできるようにする」「そのきっかけをつくる」なのではないか。効率化の中で、経済的な面で、あるいは感情の中で、それらとのバランスを探り、相手がより豊かになるような何かを探し、提供すること。わたしはそこを目指していきたいし、それに四苦八苦する方々を尊敬している。



自分がじぶんであれますように。そんな世界がひろがるように。見てくれてありがとう。