『社会が常に進歩しつづけるという錯覚?』
最近、インストールした「aruku&」というアプリ。
通勤時に駅までバスに乗らず歩いており、文明の利器を捨てて歩くという光景に、フッと「進歩」ということについて考えてしまいました。
◆前へ、前へという考え
唐突ではありますが、歴史観のひとつに「進歩史観」という考え方があるそうなのです。
簡単に申しますと、<時間の経過とともにどんどん便利になる>みたいな感じのこと(あってるかな?)。
たとえば、
社会はどんどん安全で安心になっていく。
家電製品はどんどん便利になっていく。
自動車はどんどん快適になっていく。
といった具合に、社会のあらゆるモノやコトが、便利な方向に向かって延々と進化して、未来永劫、続いていくといったような感じ。
◆歩くことで気づいたこと
しかしながら、そんな時代が遠い昔から延々と続いていたわけではないのも確か。
人間の歴史を紐解けば、こうした「進歩史観」はせいぜい200年前の産業革命(あるいは機械革命)以降の考えのようなのです。
自分は今この時代のど真ん中に生まれ生活しているので、進歩するのが普通で当たり前の感覚。
◆前へ前への反動
こうした進歩し続けている姿が刹那なものであるのならば、近年のSDG‘sやミニマリストや寝ころび族(quiet quitters)はその反動として台頭してきているんだろうかと。
なんだか、進歩も考えもんだなぁ。
ただ、心配なのは、いまこの時代の人間は働きすぎ!
この働きすぎという考え自体、「労働者」が生まれた産業革命以降の時代に起源があり、その結果、過労死や精神疾患というような現代病まで生んでしまったという印象が拭えません。
前へ前へという時代を本当に見直していかないと、働く人たちが次々と倒れちゃうかもしれませんよね。
しかも、前に進んでも進んでも幸せにならない世の中なのは、DXやOA化で全く楽になっていないことで明白なこと。
つまり、技術や社会の進歩の目的が人間の幸せにはなかったと、やっと気づきました。
◆進歩は労働荷重の上塗り?
働きすぎの問題に、小手先の予防策を検討すれば、それがさらなる労働荷重を生んで、もっともっと働く人が病んでしまうだけではないかと・・・。
というか、すでにそうなっていませんかね?
◆歩くのは贅沢な時間の使い方
さて最後に、「aruku&」アプリを使いせっせと歩き続け、自分の横をサッと通り過ぎていく自動車やバイクに電車に上空を過ぎ行く飛行機に、急がず焦らず時間をかけて歩いて目的地にたどり着くということが、すごく贅沢な時間の使い方になっていると感じるところでした。
こんな大切な時間を享受できていることをひしひしと感じ、歩くことを通して本来の人間性を取り戻そうとしているんだぞ!みたいな大仰なことまで考えておりました。
もしかして、歩くことが歴史観を大きくシフトさせる原動力にもなったりして。
それも面白い。
yoitenki4110
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