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丁寧な暮らし(憤怒)

まず試しにインスタなんかで丁寧な暮らしと検索してみてほしい。

そう。

おそらくあなたは、目に入る全てに火を放ちたくなるだろう。
なんだァ…これは…?と。



丁寧な暮らしってさ…

あれは一見、丁寧な暮らしを掲げて、日々の生活の充実感をもって、小さな幸せを積み上げていきましょう!という普通に健全な精神面の話をしているようにみえる。

でもその実、金銭的余裕だったり、時間的余裕だったりに裏打ちされた、言うなれば資本主義社会における貴族の遊びでもある。
また、自然体がいいだとか、華美なものは要らないみたいな雰囲気を出しておきながら、めちゃくちゃSNSに凝った写真をあげまくっている。ノーメイク風メイクみたいなものなんだろうか。清楚系AV女優とか。

とどのつまり彼らも、選んだジョブが違うだけで、やってるゲームは変わらない。自分のコミュニティの中で、より優れていたいのは変わらないし、丁寧な暮らし!質素!みたいに言ったところで、その裏では醜い承認欲求と優越感への渇望が渦巻いている。丁寧な生活を営める私、すごいでしよ?と。

またある時、とある丁寧な暮らし系のYouTuberの、日常Vlogを見たことがある。僕はその迫力に圧倒された。あまりにも丁寧すぎた生活には、もはや迫力があった。丁寧さが暮らしを置き去りにしていた。あの丁寧さは、完全にほかの様々なものを犠牲にして成り立っていると直感した。あれじゃ仕事みたいだ。あれじゃ生活とは言えないだろう。圧倒的な暮らし、あるいは暮らし風丁寧だ。


丁寧な暮らしと僕

でもさ。ここまで文句を言ってきたけど、ワイは実は丁寧な暮らしが好きだ。休日にピクルスなんかを仕込み、コーヒー豆を挽いて、好きな音楽をかけながら、好きな物に囲まれた部屋で本を読む。ワイはそうやって暮らしたい。村上春樹の『羊たちの冒険』の終盤、草原に建つ家で、主人公が一人でしばらく暮らす描写があるけど、あれが結構ワイの理想なのだ。仕事もせず、ひたすら一人で家に籠って、パンやらパスタなんかを作ってさ。

だから、金がなくても、オタクでも、一人ぼっちでもできるような、ワイなりの、キラキラしてない丁寧な暮らしについて、考えてみようと思う。

①料理

突然だが、ここから少し自分語りするのを許してほしい。

ワイは一時期大学を休学していて、結構ゆったり暮らしていたことがある。一応バイトはしていたけど、結構時間があった。そんな中、軽く趣味になりつつある料理をしていた時や、コーヒーをいれる時、あるいは休みの日にバイト代で本なんかを買いに行った時に、ふと思ったのだ。なんとなく、自分の人生の時間をコントロール出来ているな、と。今この瞬間、自分の生活に流れる時間の手綱を、自分で握っていると感じた。

これは休学以前の僕では、思いもしなかったことだった。以前の僕は、自分ではコントロールできない様々なものが、自分の周りでいつも低い音と共に渦巻いていて、いつでも僕は流され続けて、そうやっていつかは消えてしまうのだと思っていた。将来への不安、学校に行きたくない、人に会いたくないという気持ちの中で、しかし他にしたいことも無く、ただただひたすらに家の中で、そういう不安が過ぎ去っていってくれるのを待っていた。まあもちろん全ては悪化していくだけで、そんなことになんの意味もないんだけど。

でも休学してバイトをする中で、徐々に、何もかもが自分の手の中にはないのだという感覚は薄れていった。そうしてゆっくりと、自分の人生へ参加しているなという感覚というか、当事者意識が芽生えてきた頃、ワイはバイト代で、いつくか料理本を買った。

料理は好きだ。自分が作りたいもののために、いくつかの食材を集めて、ある程度のルールにのっとって、調理していく。自分の手で切る食材の感触、包丁の鋭さ、コンロの炎の熱さと揺らめきに、途中で立ち上る色々な香り。そのほとんどが自分の手が操り、生み出したものだ。コントロールできるものと、できないものとがせめぎ合うような、程よい緊張感が心地いい。そうして、自分のできる範囲で工夫して、失敗もしながら、少しづつ料理が出来上がっていく。出来はイマイチの時もあるし、味は毎回微妙に変わってしまう。けれど、それも楽しい。次はどうしようかと考える。その頃には、お腹も膨らんで、充実した幸福感がある。

そんな時、僕は、自分の生活、あるいはそこに流れる時間さえ、ある程度は手の中にあるような気がした。ちょうど馬なんかの手綱をとるみたいに、何もかもが上手くいかなくても、意のままでなくても、僕はそれと付き合っていけると感じた。僕は嬉しかった。

僕は、そんな気持ちになる理由と、そのやり方についてちょっと考えて、とりあえずの結論をだした。

多分それは、自分の意思であえて多くの手順を踏むことによって、時間をゆっくり流れさせること、なんだと思う。

②時間

例えばコーヒーを飲みたい時、多分一番手軽なのは店や自販機で買うことで、次にインスタント、その次が挽いた豆からで、もっとめんどくさいのが、豆を挽くところからやることだと思う。もちろんもっともっと色々あるんだろうけど、とりあえず家庭でやるならここら辺までが普通のラインだろう。

この時、上から順に手順は増えて、明らかにめんどくさくなっている。コーヒーを飲むという目的のためには、現代じゃ必要のない手順が追加されていっている。

でもこれが良いのだ。本来必要のない手順をあえて踏むことで、時間の流れを体感的に遅くすること。近しい結果を産むために、あえて自分でする動作を増やしていくこと。これによって僕らは擬似的に自分に流れる時間を遅くする事ができる。アキレスと亀で、亀が通過するべき点を無限に追加されることで、時間を引き伸ばすみたいに。この時、僕らは自分の時間の流れを、自分の動作によってあえて遅くしたことで、自分の時間をコントロールできる、という感覚を取り戻せるのだと思う。僕らは基本、自分の生活に流れる時間をコントロール出来ない。学校や会社に行くために、そこにいる時以外の時間すら整理されていく。朝起きるためにアラームをかけ、昼は1時間以内で済ませ、夜は明日のために早く寝る。僕らの時間のほとんどは、案外、仕組みや他人のものだ。そんな中でも、料理なんかを通して、あえて手順を増やし、自分の動作で時間を遅くして、自分の生活と時間をコントロールしているという実感を取り戻すこと。これが僕の思う丁寧な生活のやり方だ。

③散歩

こう考えると、丁寧な暮らしの一番簡単で、お金もかからない小さなやり方は、散歩だと思う。できるだけゆっくり、景色とかを見ながら歩くこと。だいぶ平凡な答えになってしまったかもしれない。

今どき移動する手段は沢山あるし、移動という目的に対しては、ゆっくり歩くのはむしろあんまり良くない。でもあえてゆっくり、寄り道とかをして歩けば、地面の感触、空の光は際立ち、何を見るか、どこを歩くかの選択は、僕らの手の中にある。きっとワクワクしてくる。自分の生活の実感がそこにはある。

※なんかスランプになっちゃったノルウェーの作家のおじさんが、スノッブな自分語りしながら歩く話。詳しいことは今回は書かないけど、いい本だったと思う

丁寧な暮らしと復讐

とまあ、色々言ってきたけど。
僕は、これでみんなも散歩してみてね!で終わるような、そんないい人でもない。
僕にとって丁寧に暮らすことは、ある意味で復讐で、戦いなのだ。

僕はぼっちでオタクで友達が少ない。あるクリスマスの日、わざわざ外出してしまった僕が悪いのだけど、街ゆく人たちの姿を見て、本気で気分が落ち込んでしまった。僕には手が届かないものの中で笑っている人たちと、何も手にしていない、ひたすら置いていかれているだけの自分とを比べてしまったのだ。本気ですれ違う人に殴りかかろうかなと思っている自分に気がついた時、いよいよヤバイなと自嘲気味になったのを覚えている。感じていたのは、怒りといつもお馴染みの諦めだった。

しかしこの時の僕は前とは違った。料理本を手に入れていたのだ。そして僕は、今日ここにいる誰よりも、素敵な晩ご飯を食ってやる!と思った。今日この日を、こっから一人ぼっちでも幸せで素敵な日にしてやる。お前らには届かない美しい気持ちに、一人で到達してやるんだ!そこで僕はあんま買わない太めのパスタと挽き肉、そして安ワインを買って、ボロネーゼを作って食べたのだった。

僕はこの日をかなり満足して終えた。こんなに良いボロネーゼはそうそう作れまいニチャア…としながら、僕は誰よりも幸せなクリスマスだろうとほくそ笑んでいた。

ただ冷静になってみるとちゃんちゃらおかしい。一人で勝手にブチ切れたオタクが、なぜかちょっと手の込んだ料理をしただけだ。

しかし僕にとって、確かにこれは復讐だった。誰よりも素敵なクリスマスを過ごしたんだと思うことで、僕は救われたんだ。

丁寧な暮らしのやり方はさっき書いた通りだけど、そういう生活がしたい動機には、そもそも好きだから、という以外に、多分こういう気持ちもある。「優雅な生活が最高の復讐である」、元はスペインのことわざらしいけれど、僕はこの言葉が好きだ。自分を大切にすること、丁寧に生活することが、一番の復讐になる。僕はそんなふうにブチ切れながら、優雅に、丁寧に暮らしていきたい。

終わりに

僕は、一人ぼっちのオタクや、割と自分でダメだなと思ってる人にこそ、丁寧な暮らしが必要だと思う。多少金のある男と結婚した主婦や、収納インストラクターの話もいい。でも、僕らには、僕らのための丁寧な暮らしがあるはずだ。生活はいつも脅かされている。街ゆく人々の姿に落ち込んだり、他人と比べて自分はダメだと思ったり、鏡を見て嫌になったり、自尊心を傷つける出来事は多い。でもそんな中であっても、時には怒りと共に、丁寧に暮らして、自分と時間を取り戻していきたい。だからこそ僕は、この記事のタイトルを、「丁寧な暮らし(憤怒)」としているのだ。金がなくても、友達がいなくても、僕たちは、ゆっくり歩くことで、自分と生活の実感を取り戻して、そこから幸せを取り出していける。そう信じて、ワイはこれから、僕なりに、丁寧に暮らしていきたいな。

※カネコアヤノのライブ盤なんだけど、なぜかブチ切れているように僕には聴こえる。ブチ切れながら生活の歌を歌っている。普通に恋人らしい人が出てくる歌詞がちょこちょこあるし、確かに最近のカネコアヤノのライブはセックスの匂いのするカップルばっかに見える。けれど、傷つきながら、時に怒りと共に丁寧に生活する、僕らの暮らしのアンセムになりうると思う。

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