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気品の中の信念と情熱、槇文彦 ~突撃!例の建築家の手すり ③


建築家の槇文彦氏が亡くなられた。謹んでお悔やみ申し上げます。

建築を学んだアラフィフ勢にとっては、槇先生の円熟期にかけての建築が、ジャズのスタンダードのように身体に染み込んでいると思う。いってみればザ・お手本である。ゼネコンのデザインで言ったら竹中工務店みたい、と思って経歴を調べたら母方の祖父が14代竹中藤右衛門とのこと。ですよね。
なので、直接に自分は教わってはいないのだけど、否応なく先生!とお呼びするべき存在の方なので、ここではそう呼ばせていただく。

なお、元所員の山代悟さんの追悼記によると

ご本人は、事務所内でも「さん」呼びで通されていたとのこと。これがまたお人柄だ!というエピソードですね。(6/19追記)


で、自分が建築を学んでいた頃に建った主だったものが、こちらの地元でいうと秋葉台体育館、東京近郊だと幕張メッセをはじめとして、東京体育館や青山のSPIRAL、今話題の神宮外苑にあるけど何故かスルーされているTEPIA、あと京都の国立近代美術館など。自分がチラ見しただけでもたくさんある。


彼の建築は、とにかくダンディと評されたそのお人柄がそのまま反映された、一言でいうと気品の造形であると思う。英語で言うならエレガントですね。スケールが大きいものはちゃんと分節してその圧迫感を操作しているし、通りに面して建つものは敷地に対して凹凸をつくり、起伏もうまく利用して、街を単調にしない工夫に溢れている。タモリがぶらぶら歩きそうな仕掛けがたくさんある、という言い方なら通じるだろうか。

素材についても熟考し、場所だけでなく時代や目的(まさにTPOだ)に相応しいものを選んでいるし(だからこそ鉄筋コンクリート一辺倒の建築家を批判したりもしている)、またその細部は端正なのだが、遊びもある。
外観で彼の作品と一発でわかるような、自己主張の激しいデザインはないのだが、彼の手になる建築があると、近くの建物もそれを意識してつくられ、街のレベルがぐっと一段上がる、そんな建築家である。


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で、このコーナー、蛇足であると知りつつも、特徴のつかみにくい建築家の人となりを連想してほしいがために、ミュージシャンに例えるとしたら、という紹介の仕方をしている。しかし、槇先生の重みはちょっとロック・ポップス畑では釣り合う方が思いつかず、ということで、ジャズピアニスト&コンポーザー、穐吉(秋吉)敏子になぞらえようと思います。ほぼ同世代ですし。もっと情熱寄りではあるけど、格好良いおばあちゃんです。

ここはわかりやすく徹子さんにご紹介していただきましょう。ジャズはソーシャルワーク、これ名言では。


といっても、自分はどちらかと言うとその娘さんの、monday満ちるの方がまだ馴染みがあって、というのはアニメーションの銀河英雄伝説の主題歌を歌っているのがその人なのだね。


で、あらためて穐吉敏子氏についてCDを借りてきて、自伝も読んでみた。

満州育ち、終戦1年後に17歳で別府に家族で引き揚げ、そこで進駐軍向けのダンスホールのピアニストに引っ張られジャズの世界に。それから福岡、東京とビッグバンドを渡り歩き、横浜のちぐさにレコードを聴きに入り浸ったりしながら、米兵さん繋がりで日本人初の奨学金待遇でのバークリー留学

そこからの、人種や性別、また日本人の中にもある差別に気づいたり、留学後しばらくは仕事もあるものの徐々にジリ貧になり、自らもその芸のために娘を一旦手放すことへの罪悪感を述べているなどの、まったく順風満帆ではない苦闘が自伝にはいろいろとあり、切ない。
だけど、バド・パウエルやチャーリ・ミンガスといった、彼女が敬愛するプレイヤーからかけられた言葉を支えに、一度は音楽を捨てて食いつなぐために、黎明期のコンピュータープログラマー養成校に入学金を払うところまでいきながら、彼女がすぐに才能を認めたサックスプレイヤーかつ伴侶であるルー・タバキンを得て、ビッグバンドの作曲家兼バンドリーダーとして開花するところなど、ぐっと来ます。

そしてそのとき、彼女はジャズの世界が黒人差別と密接であること、そして日本人女性である自分がそこに学び、ジャズの世界がよりユニバーサルになる方向に何が出来るかと考えて、能楽など自分のルーツ、日本にある要素との融合を意識的に行っている。また水俣をテーマにした曲など、社会と音楽のつながりについても常に考えていらっしゃる方、という印象であります。

そして若い頃の上原ひろみがその自伝を読み返して道標にしていたように、その道を進むものの灯台として、いまも後進を照らす存在である、と言えそう。

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7歳の時、土浦亀城自邸(最近、青山のポーラビルの足元に移されました)で建築に目覚め、谷口吉郎の慶応幼稚舎で育った槇さんも、ちょうど青年期が太平洋戦争の末期と重なる。飛行機の設計を志して慶応工学部の予科に進むも敗戦で仕切り直しとなる。そして建築に進路変更して東大に進み、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった若手建築家の丹下健三の研究室を経由して、すぐにアメリカに留学。クランブルック美術大学院、そしてワルター・グロピウスが学科長だったハーバード大デザイン大学院にすすむ。ちなみにここ、大学院しかないので、穐吉さんのバークリーと同じぐらいの狭き門だったと思われます。そこで卒業後、設計事務所勤務を経てハーバードに戻り、教鞭をとるまでになるところがすごいのだが。
そして、日本に戻って本格的に設計事務所を始めたのが1965年でした。

彼のそのデザイン操作には、日本の都市を丹念に覗いて見つけた、奥の思想があるとのこと。アメリカで学んだモダニズムの建築を直輸入するのではなく、日本の文脈で再解釈して、それをデザインしているのです。丹下健三などは日本の建築様式を混ぜたけど、彼は街の構造を取り込んだ、というところでしょうか。先に述べた、タモリが好きそう、の理由がこれでしょうね。


その実践としてその頃から30年以上、彼がずっと関わってきた作品がある。

それが、お洒落な街の代名詞ともなっている、代官山のヒルサイドテラス。朝倉家という地主さんの信頼を得て、30年にわたって一つの通りのデザインを完遂した、日本では他に見られない群造形である。中には古墳まであるのだが、それもきっちりと取り込み調和したデザインがなされている。


そして、一気にすべて建てたわけでない建物の、仕上げをあえて違えてデザインしていることで、近隣の他の建物をデザインする者にとっても、そのデザインを参照し、呼応しやすくなっている。ご近所の蔦屋書店や産能大のビルなども、ゆるい統一感をもって存在しているし、それらの建築家が、槇先生がヒルサイドテラスを設計する際に考え、見つめたものに敬意を払っていようにちゃんと感じる。
ちなみに第一期の頃の容積率は150%、今は300%地域になっているそうで。でも新しいものでも、その違いを感じさせないのがまたテクニカルだなあ、というべきか。

ちなみにここに事務所を構える建築家も多くいらっしゃいます。槇先生を始め、お弟子さんの元倉真琴さんの事務所もここだったし(山本理顕さんの話で、そこが彼を含めた若手の梁山泊みたいになっていた話を読みました)、今は千葉学氏の事務所もある模様。


また、もう9年前になるのだが、新国立競技場のザハ・ハディド案のコンペ結果に、そもそもそのコンペのプログラムが悪いと申し立てたことも、建築家と社会との関係を忘れない、槇先生の仕事として忘れてはならないのです。ザハの案を攻撃したのではなく、そもそもその土俵が腐っていますよね、という指摘ですね。
ただし、頭お花畑なデザイナーさんたちは未だに槇先生に複雑な感情を抱いている模様ですが。君たちは君たちの依って立つものに後ろめたさを感じているから、歯切れが悪いんだよ、と言いたいと思います。その点において、槇先生の言はシンプルかつ、その職能にかけて覚悟を背負ったもので、俺わからへんねんの人とはあまりにも対照的でした。ひっくり返るのも宜なるかな。



さて、ようやく槇先生の手すりの話。
今年の1月にご近所で仕事があったので、てくてく散歩を兼ねて見てきました。

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(1990~)


こちらも時間をかけて、ちょっとずつ進化しているところですね。たぶんこれからも。鉄道の駅も、近くないかも知れない将来出来るはず。
ちなみに見学自由とのことです。

もう夕暮れ時が近かった

池があるので、そっちのカフェテリアの手すり見物にまず行ってみる。

なんというかとても端正でしょ?光と影と素材が
予算のない階段でもちゃんと主張します
鴨だ!

この池、正式名称はガリバー池らしいのですが、皆さんは鴨池と呼ぶそう。なんでも、最初に4羽の鴨を放したら、野良鴨が寄り付いたとのこと。呼び水ならぬ呼び鴨とでも言うのでしょうか。
ちなみにこちらの学生の皆様は、この池周辺で寛ぐことを「カモる」と言い習わしているとのこと。部外者は思わず構えてしまう言葉ですが、ここではそう言われても悪意はなさそうです。

鴨池に背を向けて、左が図書館、右が講堂

池に背を向けて、講堂のあるΩ棟にお邪魔します。

見上げると手すり やっぱりスキがないぜ
吹き抜けには豪快な行って来いのスロープが

入るとこれがおおっ、という大空間になっている。繊細なだけではなく、豪胆さも併せ持ちます。そこに、長いスロープが独立して錯綜している。空間のアクセントですね。

なお、一般の皆さんは、よく知られる安藤忠雄のそれと、こういうのってどう違うの?と思われるかも知れません。
ぱっと見でわかるその違いは、素材を必要に応じてちゃんと使い分けるところかと。素材を自分の建築のシグネチャーにしていない、という言い方になりますかね。他にもいろいろあるのだけど、素材選定にTPOを優先するかどうか、が違いでは。ここで言うなら、人がよく手を触れるところの壁は打ち放しを慎重に避けてタイル貼りだったりします。こすれても痛くないとか、汚れても掃除がしやすいとか、そういう理由ですね。あくまで人の行動優先です。

スロープの手すりと、上階通路の手すりのとりあい

目的が違う存在のものは、素材も切り替えてますね。

またこういう、無理にくっつけない納まりはコストも安く済みます。現場での細かい造作が少なくて済むし、鉄は温度変化で伸び縮みするので、迂闊に接続するとあとから面倒が出たりもするのです。

スロープ部分の手すりは平鋼材であっさりですが、通路部分は講義後の学生が滞留したり、上下で声を掛け合ったりすることが想像できるので、温かみのある木材を使って、怖くない、そして触りたくなるデザインを狙っているようです。

通路の転落防止手すり、高さ1.1mくらい?

ちょっと鴨のおしりを思わせる断面の手すり部でした。右が通路側、左が吹き抜け側なのですが、通路側からは優しく触らせはするけれども、あちら側は危ないよ、のメッセージを触れるものに無意識に伝え、その内側にやわらかく人を戻すかたち。

そして、つくりはスロープのものとある程度共通性を保たせて、上の手すり部分をシンプルに下からビス止めする納まりです。でもそういった裏地は通路側からはほぼ見えません。また手すり柱をつなぐ、横に渡した丸鋼材も3本と最小限なんだけど、人が恐怖心を抱かないギリギリを攻めているように見えます。


まったくもってダンディな紳士だよ、という感じの手すりデザイン、ご堪能いただけたでしょうか。
なお、槇先生設計の京都の国立近代美術館には、ガラス棒の手すりもあるとのこと、この記事を書いているときに知りました。いつか亀岡にサッカー観戦に行くことがあったら見てみたい。

お読みの皆様も、お近くに槇先生の建物があったら、タモリおじいちゃんになったつもりでゆるりと探索していただければ幸いです。
空間で勝負するホンモノと、見てくれだけのニセモノの違いがそういうところで判りますよ。良い設計は探検したい気持ちが湧いてくるので。



他の建築家の手すりシリーズも、よろしければご笑覧くださいませ。


※参考文献

あの上原ひろみも高校生の頃から読み続けてきた、穐吉敏子自著の半生記。


若かりしころの槇先生の話も。


今も現在進行形の問題の根っこ。槇先生の経験してきた、成熟した市民文化論を読むと、この10年でより悪化したように読めてしまうのが切ない。


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