貧しさ、身体、エネルギー

東電が企業に電力の融通を要請しているらしい。寒波で電力需要が急増しているそうだ。

電力が足りない、と言われると、切迫した焦燥感がある。うっすらと、寒くて死ぬんじゃね、みたいなイメージがよぎる。ちょろっと「それなら原発動かして……」という思いが浮かんできたりして、あぁ、おれは貧しいのだと思う。

ぼくにとって貧富というのは極めてフィジカルな問題で、自分の身体感覚にどれだけ価値を設定するか、というところに貧しい人と豊かな人との違いが表れてくると思っている。暖房をなるべく使わなかったり、薄い布団で冬を乗り切ろうとしたり、極暖ではないヒートテックを選んだり、というのは要するに「自分の五感が満足することに対して価値を置かない(置けない)」ことを意味している。

薄い布団ほど、わびしい気持ちになるものはない。あぁ、自分の感覚器官には、充足させなければいけないような価値がないのだと、毎夜実感せずにはいないのである。お金のある人の五感には、そういう価値があるのである。

SDGsという言葉をここのところ急に耳にするようになってきたけれど、意識が追いついていかないのはきっとこういう身体感覚のせいなのだと思う。頭ではわかっている。一応、息子もいる。その世代まで資源を残せない。まずいことだ。

けれども現在の身体感覚を超えて、目の前にない問題に対して想像力を働かせるのは難しい。とりわけそれが、欠乏的な感覚であればなおさらである。「持続可能なエネルギー」よりも、低コストで安直な満足をもたらしてくれるものの方に流れてしまう。

「充足させるべき価値を持たない身体」の持ち主は、感覚的な満足を得るためにコストを割くことを嫌う。嫌うというか、単に余裕がないだけかもしれない。

ぼくは心の底で、SDGsなんて付加価値に過ぎないのだと思っている。それはフィジカルな効用をもたらさない。すぐ目の前に認識できない問題をまともに考えるには、充足した身体の持ち主となるか、あるいは清廉な精神の持ち主となるか、どちらかしかない。

私は清廉な精神を信じていないので、充足した身体を持つしかないのであるが、そうするとむしろエネルギー消費は増えそうである。

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