あらゆるコンテンツは炎上しうる――新今宮PR記事の事例から

しまだあや氏のnote記事「ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」が炎上した件について、東京西側放送局で話した。

炎上の原因として真っ先に思い浮かぶのは、「ホームレスの生活を、『感動』や『気づき』の物語に集約することの暴力性」かもしれない。しかしこの点については、以前に別の炎上案件について扱った際に論じているので、繰り返すことはしない。

今回問題にしたいのは、「この種の炎上がなぜ定期的に起きるのか」という話である。記事の炎上が日常茶飯事となり、コンプラ・ポリコレ的な領域に対するメディアの意識は高まっているはずなのに、同型の失敗に陥るケースが後を絶たないのはなぜか。これだけ繰り返されるからには、なにか必然的、あるいは構造的な問題がコンテンツの制作過程にあるのではないか。

ひとつの切り口として考えられるのは、「資本主義下のマーケティング」という観点である。放送内でもこれについて触れているが、「マーケティング的な観点からのコンテンツ制作がなぜ炎上につながるのか」について、あらためてここで整理してみたい。

「コンテンツ」はつねに商業的である

前提として考えておくべきは、おそらく「コンテンツ」と「作品」との違いである。ざっくりとした印象として、「コンテンツ」というと商業臭があり、「作品」というと芸術性が感じられる。しかし、具体的な違いはどこにあるだろうか。

結論から言えば、「合目的性」の度合いが、コンテンツと作品を分かつポイントである。もっぱら特定の商業的な目的を達成するために制作されるのが「コンテンツ」であり、表現と伝達という営みそのものに軸を据えて制作されるのが「作品」であると、さしあたり区分できる。

もちろん、「商業的な作品」というものも考えられる。というか、資本主義下で商業的でない作品を探す方が難しい。それでも、それを「作品」というからには、その制作目的は商業的な達成「のみ」に限定されるのではない。あくまでそれは、目的のひとつにすぎない。

「コンテンツ」の制作目的は、ひとえに商業的な達成にその焦点が絞られている。「売れないけどいい作品」はありえても、「数字につながらないけどいいコンテンツ」というものはありえない。それゆえに、コンテンツ制作はつねにマーケティング的であり、先に私が言った「マーケティング的な観点からのコンテンツ制作」というのは同語反復的な表現である。

「コンテンツ」には「ひろがり」がない

余談になるが、「コンテンツ」と「作品」とは語義的にも明確に区別することができる。“content”とは「内容物」のことであり、「閉じたパッケージに詰め込まれたもの」を指す。このパッケージングの中身は当然、「商業的な目的を達成するのに必要かどうか」という観点から検証され、不要なものは除去される。

「優良なコンテンツ」は、梱包に貼り付けられたラベルから想起される中身が、開いたときに整然と並んでいるようなパッケージングをしていなければならない。コンテンツ制作においてはおのずと、「期待されていない要素」は排除され、「行間のふくらみ」「示唆的な表現」も冗長なものとされる。要するに、制作物の「外部」がないのである。

「作品」は、英語で“work”であり、フランス語で“oeuvre ”である。英語では「はたらき」に焦点が当てられ、フランス語では「開いていること」に焦点が当たる。「中身」や「成果」ではなくて、作り手の能動的な働きや、作品の制作・享受をめぐって展開されるやり取りや影響関係が示唆されているわけである。

つまるところ、コンテンツと作品とを分かつのは「ひろがり」の可能性である。コンテンツからの「ひろがり」は、エンゲージメントやらコンバージョンやら、マーケティング的な指標の上でしか捉えることができない。対して、作品からの「ひろがり」は限定されえないものだ。

「コンテンツ」はつねに炎上しうる

さて、「コンテンツ」というものの性質について、「作品」と対比しながら考察してきたが、そろそろ話を戻したい。ある種の「コンテンツ」が「炎上」することの、構造的な必然性についてである。

きわめてシンプルな話である。「コンテンツ」は、商業的な目的を達成するために最適化される。その際、目的に照らして不要な要素は排除される。必然的に、「自身の利益を基準とした排他性」が生じることになる。これがコンテンツに伴う「商業臭」の正体であり、炎上の構造的な原因でもある。

繰り返すが、これは「構造的」な原因である。「コンテンツ」である以上、そこには何かしらの排他性が生じ、「排除された要素」がつねに残される。炎上とは言ってみれば「排除された要素」から生じる反発なのであって、それゆえに「コンテンツ制作」と「炎上可能性」は切っても切れない関係にある。

炎上につながる「排除」について

「そのコンテンツが炎上するかどうか」を左右する要因にはさまざまなものが考えられるが、決定的なのは「排除した要素の大きさ」である。

今回の例で言えば、「排除されたもの」は「ホームレスの生活の実相」であり、「ホームレスに対して実際に私たちが抱いている忌避感」さらには「私たちが普段ホームレスに向けてきた眼差し」であるかもしれない。「エモい」文体によって、ことさらにホームレスの「温かみ」を強調するストーリーのうちには、日頃「汚いもの」「厄介なもの」として扱われている彼らの実態(そのように扱っている私たちの実態)は反映されることがない。それは「感動と気づきのコンテンツ」として不要な要素だからである。

重要なのは、これらを「排除した主体」が、電通および自治体だということだ。この案件を「エモい文体」を売りにしているライターに発注する時点で、新今宮地区の「近寄りがたさ」といった要素を「コンテンツに含めない」意図は明らかである。

さらに、自治体がこの「近寄りがたさ」を改善しようするにあたり、「ブランディングによるイメージ転換」という方法を選択したことが、そもそも問題の核心にある。これはコンテンツ云々というよりも、「新今宮ワンダーランド」というプロジェクトそのものの歪みであり、排除対象とされてきたホームレスを消費対象として利用することの是非が問われなくてはならないだろう。

なお、この点についてはnote上で「Hana」氏が極めて本質的かつ広範な視点から議論を展開している。参照されたい。

コンテンツにおける「価値創出」は「物語」の変容を促す

コンテンツに話を戻そう。自治体のブランディング戦略と、電通のマーケティング戦略を通じて、今回のコンテンツから排除された要素は何か。言ってみれば「ホームレスを排除してきた歴史そのもの」である。市民生活からの排除によって形成された相互扶助体系を、「温かみ」「優しさ」という街の魅力として切り取ることは、その形成過程(としての人権・差別・貧困問題)を覆い隠すことになるだろう。

さらに敷衍して考えよう。コンテンツが炎上するのは、そのように「センシティブ」な領域に限られる話なのか。もちろんそうではない。「コンテンツ」はつねに、個人や集団から「歴史」あるいは「物語」を簒奪する可能性を有している。

それはいわば「物語」から「価値」を掘り出す際の副作用である。

「新しい価値」の創出は、「解釈の転換」を要求する

マーケティング戦略において、ことさら重要視されるのは「新しい価値をどのように打ち出していくか」という点である。この「新しい価値」は、「新しいものを作る」ということを必ずしも意味するのではなく、むしろ「現状の商品・サービスの価値をどのように発見してもらうか」という角度から検証される。

要するに、マーケティングにおける「価値」は、消費者の「物の捉え方」や「解釈」の問題なのである。市場を開拓するにあたって、これまでになかったものをゼロから作るよりも、消費者が「何に価値を見出すか」という“パラダイム”を転換してしまう方が効率的だ。優れたマーケティング(あるいはブランディング)は、消費者に「物事を捉える認識の枠組み」の転換を促す。

たとえば、優れたブランディングの事例としてしばしば引き合いに出される「ダヴ」のPR動画を見てみよう。自分の容姿にコンプレックスを持っている人たちが抱いている「美しさのイメージ」(=価値)を転換し、「そのままの自分の美しさ」を肯定する価値観を形成することが、この動画の目的である。

普通にいい動画なのだろう。絵が下手な私にとっては、「話をもとに絵を描く」という形式がいささか恣意的に感じるのでもあるが。この動画を通じて、「もっと本来の自分に自信を持っていいのだ」というような“パラダイムシフト”を起こした人も多いのかもしれない。

ところで、「何に価値を見出すか」という枠組みと、「自身の生を意味づける物語の枠組み」とは、本来切り離して考えることができない。たとえば、上の動画をポジティブに捉えるなら、「自分自身の本来の美しさに気づくこと」(認識の枠組みの転換)と、「ありのままの自分として生きることを積極的に意味づけること」(物語の枠組みの転換)とはパラレルなものであり、だからこそコメント欄にも「勇気づけられた」的なリアクションが並んでいるのである。

一方で、たとえば「顔の造形のせいで迫害されてきた」という経験から、美容整形を受け、周囲からの扱いが一変した、という人にとって、この動画は暴力的に映るかもしれない。この場合、「美のイメージ(価値)」を転換させ、「物語の枠組み」に変容を促すことは、アイデンティティを揺るがすことと同義となりうる。「再起」あるいは「新生」のストーリーに水を差してしまうわけである。

そのコンテンツは、誰かの「物語的自己同一性」を傷つけていないか

おそらくこれが、マーケティングにもとづく「コンテンツ制作」においてしばしば見過ごされている観点である。個人のライフ・ヒストリー、特定の人々の間で共有される記憶と物語、そうしたものによって私たちのアイデンティティは形成されている。そのような物語なしに、「私」は「私」ではありえないのであり、その「物語の枠組み」は生育環境や社会情勢等々によって複雑に捻れていたり、歪んでいたりする。この捻れや歪みが、言うなれば「その人らしさ」なのである。

挫折したが「このようにして」成功を収めた。傷つく出来事があったが「このようにして」立ち直った。こういう、「このようにして」がその人に特有の「物語の枠組み」であって、この枠組みは個々のアイデンティティと深く結びついている。このようなアイデンティティのあり方を、リクールにならって「物語的自己同一性」と呼ぼう。

マーケティングを通じて「新しい価値」を提案することは、「物語的自己同一性」の問題と無関係ではありえない。誰も傷つけないコンテンツなど当然存在しないわけであるが、それはアイデンティティを形成する「物語の枠組み」に対し、コンテンツが変容を促すからである。

もちろん、「新しい価値」を提案することそのものが問題なのではない。「価値観の変容を促す」程度なら、気に入らなければ「なんだそりゃ」とスルーしておけばいいのである。問題は、あたかもその価値が「普遍妥当的」であるかのように喧伝するその仕方であり、要するに「伝え方が傲慢」になるケースである。

ある価値を「スタンダード」として押しつけることは、往々にして既存の価値を「なかったもの」にしてしまう。「なかったもの」にされるのは特定の価値観や考え方だけではなくて、それによって形成された「物語的自己同一性」もまた、存立の危機にさらされることになるだろう。

それゆえに、コンテンツ制作に関わる者がつねに自問しなければならないのは、「このコンテンツは、誰の物語に、どのような影響を与えるのか」ということである。

悩んでいる人の「物語」を転換し、ポジティブな方向に導きたい。しかし、その転換に際して提示する「価値」は、誰かが「それなしには自分でいられない」ような物語を踏みにじることにならないか。想定しなくてはならない。

そのような物語の持ち主が、実際に存在するかどうかは問題ではない。提供しようとする価値にとって、絶対的な外部としての他者を想定することが重要なのだ。

「そんなこと言ったら、コンテンツなんか作れないじゃないか」と思うかもしれない。その通りである。全面的に許されるコンテンツなど存在しない。「道徳的に許容されうるコンテンツ制作」というのは不可能な取り組みなのである。私はこれを本気で信じている。

同時に、この信念をある種「どうでもいい」とも思っている。自分の書くものも含めて、「コンテンツ」の提供する価値などすべて幻想だと思っているからである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?