「純文学しぐさ」とは何か~『推し、燃ゆ』への嫉妬~

純文学とはなにか、という問いには答えがない。純、というのは混じりけがない、ということをいうけれども、混じりけ、というのは要するにSFやらエンタメやら推理やら、カテゴライズされうる要素のことであり、つまるところ純文学というのはカテゴライズされえない文学、ということになる。

それゆえに、純文学を「何」で定義することはできない。そこではもっぱら「どのように」が問題となるのであり、評価軸も「何を語るか」より「どのように語るか」が重視される。

具体的に、「純文学っぽい」文章を書いてみよう。

いかにも安っぽい包装紙のせいで、ピーナッツチョコに伸びる手が止まらない。祖母の小指みたいにこじんまりとした透明なビニールは、いかにもクシャ、と捻られ散乱していくのに適したデザインをしているものだから、ピーナッツの軽快な歯ごたえにも促され、私はただ無心にしおれた指を量産するほかなかったのである。

「何が書かれているか」といえば、ただ「ピーナッツチョコを食べるのが止められない」というだけである。それだけのことをうだうだと、長ったらしく飾り立てることで、少なくとも「どのように語るか」という文体の面では差別化がなされるわけである。

東京西側放送局の『推し、燃ゆ』についての回で、中田が「純文学しぐさ」と名指したものは、このような「差異化する文体」が前面に浮かび上がってくることをいう。たぶん。

宇佐見りん氏の「文体」は、肉体に食い入るような比喩を特徴としている。ピーターパンの靴に蹴り上げられた痛み。肉としての実生活がそぎ落とされ、背骨としての「推し」のみによって成り立つ生存。こういう文体によって、多くの人間にとってクソほどどうでもいい、狭窄な世界における「推しへの愛」が、切迫した次元の問題であることが鮮明に描き出されるわけである。当然のことながら、宇佐見りん氏の文体がなければ、『推し、燃ゆ』の内容はそれこそ「腐女子のブログ」と代わり映えのないものになるだろう。

ところで「差異化する文体」そのものは、そこまで「希少性」のあるものではない。単発ならある程度、気の利いた比喩を使うこともできるだろう。問題は、その文体によって作品全体を支配できるか、ということである。

小説を書いている人間からすると、これがアホほど難しい。文体を貫くことはまぁ可能かもしれない。問題は「支配」なのだ。コントロールする、というのでもない。要するに、世界観というやつである。

よい作品というのは、文体が浸透した作品である。細部の息づかいにまで、文体の色が宿る。全体の構造にも、文体が侵食していく。『推し、燃ゆ』のラスト、散乱した綿棒=遺骨のイメージも、そのような浸透なしには成り立たない。こういうのが、できないのである。

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