作品を受容する際、「理解できる」と思ってはいけない

東京西側放送局の配信で、「映画とかを見てすぐ『考察』って検索するやつなんなん?」って話をした。

話の軸としては大きく2つあったと思う。「オタクへの憧れ」という観点を切り口に、SNS社会において自身に「明確な属性(=タグ付け)」を与えたい向きが増えているのではないか、という方向。もう1つは、メディア上でインスタントに理解できるユーザーフレンドリー(!)なコンテンツがもてはやされた結果、そもそも作品を鑑賞する際に「理解できるはず」という態度が自明化されてしまった、という方向である。ここでは後者の、「理解できるはず」という態度についてもう少し考えてみたい。

そもそも理解とは何か

まずそもそも、「作品を理解する」というのはどのようなことを言うのだろう。

理解できない作品に触れたとき、私たちは「意味がわからなかった」と口にする。作品には「意味」があるのであり、「理解する」とはこの意味を明確に捉えることを言う。

それでは意味とは何だろう。一言でいえば、「関係の集約点」である。

たとえば、「この文章を書くことの意味」といった場合、それはほとんど「目的」と同義である。私という人間が、パソコンという道具を使い、ネットを通じて、noteというプラットフォーム上でテキストを発表する。さまざまな形で存在する事物が関係を結び、「私の意見を伝える」という目的に向け駆り立てられていく。

このように目的に向かって連結された事象のうちから、任意のブロックを切り取り、より限定的な「意味」を問うこともできる。たとえば、「noteを使う意味」「パソコンを使う意味」などなど。noteは「なるべく多くの人に見てもらうため」であり、パソコンは「なるべく早く文章を作るため」である。ここでも「意味」は「目的」であり、関係や行為の「結びつく先」を指している。

日常のなかで、私たちがさまざまな事物や事象に「意味」を見出すとき、かならずそこには「結びつく先」がある。結びつく先を失ったものは、ゴミとして処理されたり、故障として修理されたりするわけである。このような結びつきの全体を、ハイデガーは「世界」と呼び、意味の中で生きる私たちの存在を「世界内存在」と言い表した。

「考察」として目指されているもの

「作品の意味」に立ち戻って考えると、これは「作品が結びつく先」を表していることになる。「作品の細かい表現の意味」であれば、「それがどのような効果に結びついているか」が問題となるし、「作品全体の意味」であれば、「誰に何を訴えようとしているのか」が問題になるだろう。

私たちが作品の「考察」を参照したいと考えるとき、問題とされるのはどちらの「意味」だろうか。前者の「細かい表現の意味」であればわかりやすい。「あの場面で、あの登場人物の言葉にはどんな意味があったのか」といった具合である。

厄介なのは、「作品全体の意味」を問題としているケースである。これを知りたいと思って検索をかけているということは、「その作品をどう受け止めればいいのかわからない」あるいは「どう向き合えばいいのかわからない」という状況に陥っているわけである。

当然この「受け止め方」「向き合い方」は、そもそも誰かに教えてもらうようなものではない。もし仮に、作品の考察として、「こういう背景で、こういう描き方をすることにより、こういう形での共感を促している」なんて「答え」が用意されていたら、それと同じ感情をわざわざ喚起させるのだろうか。

それはもうほとんど、「パートナーの名前 付き合い方」というワードで検索するようなものである。

作品と意味

そもそもの問題として、「あらゆる作品に意味がある」という前提が間違っているのもある。当然、意味には回収されない作品もあるわけである。

もし仮に、私たちが徹頭徹尾ハイデガー的な「世界」のうちで生きているとしたら、すなわちあらゆる事物や事象の「意味」が緊密に結びついているのだとしたら、もとより作品など必要ない。意味のネットワークとしての世界が動揺し、当たり前に「通用」していたものが疑われる、そのような「意味の危機」をもたらすことにこそ、作品の意義はあるのである。

実のところ、ハイデガー的な「世界」も、つねに動揺の可能性に晒されている。それは「別様でもありうる」のであり、意味のネットワークを支えているのは私たち自身の「関心」すなわち「気の持ちよう」である。

世界は根本的には無根拠であり、「意味」というとっかかりは仮初めのものに過ぎない。潜在的に、私たちはいつでも「不安」である。緊密な意味のネットワーク、常識や約束事、社会的コンテクスト等々によって成立している世界の裏には、底抜けの無意味がぽっかり口をあけている。

作品は、薄氷の世界が薄氷であることを知らしめたり、それが別様でもありうることを示したり、あるいは別様の世界のありようを提示したりする。作品のはたらきは、現状の意味の枠組み、理解の枠組みに収まることがない。この枠組みに収まるものは、作品というより「コンテンツ」である。

「コンテンツ」は現状の世界を追認させる

コンテンツと作品との違いについては度々言及しているけれども、「あらゆるものは理解できる」という前提の背景には、やはり制作物がことごとく「コンテンツ化」していることがあるのだと思う。

コンテンツ制作においては「意味=目的=効用」を最短ルートで提示することが目指されるのであり、私たちはそれを受容するたび、自身が前提としている「意味のネットワークとしての世界」を知らず追認することになるだろう。

これをふまえ、コンテンツと作品とを差別化するポイントのひとつとして「現状肯定」という観点を提示したい。「意味」に回収されることのない作品は、現在通用している「意味のネットワーク」の脆弱性を示すことを通じ、「別の仕方」への通路を垣間見せたりもする。コンテンツはあくまで「意味のネットワーク」を前提に、その世界のなかで「うまくやっていく」こと、その世界に「折り合いをつける」ことを目的としている。

……コンテンツ大嫌いおじさんみたいになっているが、ともかく、作品は理解できないものと思って受容するのがおすすめである。

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